日本一周第2回「旅人よ」 |
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第12日「新潟ブルース〜富山県 ・新潟県〜」 | |||
2006年7月26日(水) |
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◆瀧廉太郎修学の地 |
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富山駅のすぐ近くに「瀧廉太郎修学の地」の碑があった。瀧廉太郎(1879〜1903)といえば、「荒城の月」などで知られる日本を代表する作曲家。彼は東京の生まれだが、地方官であった父・吉弘と共に、全国を転々としている。父が富山県書記官だった1886(明治19)年8月から1年8ヶ月余り、 彼は富山の地で過ごした。廉太郎は富山県尋常師範学校小学校の1学年に転入学し、3年の半ばまで在学したそうである。 彼は「お正月」や「雪やこんこん」といった児童唱歌も作曲しているが、小学校低学年を過ごした富山で生活を偲んで作られたそうである。 この碑では、その幼少時代の廉太郎が、袴姿で手に独楽を持っている。廉太郎の生誕100年を記念して、1979(昭和54)年に建てられた。 |
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◆富山城 |
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富山城は、加賀藩2代藩主・前田利常(1594〜1658)が次男・利次(1617〜74)に10万石を分家させて越中富山藩が成立した際に、その居城となった。以後幕末まで前田家13代のお膝元であった。 城の遺構のほとんどは明治時代に取り壊されて現存していない。天守台はあるものの、天守閣は築かれなかったらしく、現在のものは1954(昭和29)に模擬天守として建てられた。外観は彦根城や犬山城をヒントにしているらしく、往時の姿とはだいぶことなるもののようだ。お城は 「富山市郷土博物館」となっている。 なお、瀧廉太郎は「荒城の月」作曲に当たって、この富山城を着想の一つにしたのだとか。 |
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時間もまだ早かったので、城の中には入れず、ただ周りを散策しただけだった。 櫓の形をした建物は「富山市佐藤記念美術館」。城の石垣を使用して建てられている。 |
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富山は、万葉歌人・大伴家持(718〜85)が越中守として赴任した地。すでに高岡の駅前で家持には会っていたが、ここ富山にもいらっしゃった。それは、「富山歌塚」の上に座って、何やら遠くを仰ぎ見ている。この碑は家持の没後1200年を記念して1985(昭和60)年に建てられた。 |
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城内には前田正甫像が建っている。前田正甫(まえだ・まさとし/1649〜1706)は富山藩2代藩主で、利常の次男。1674(延宝2)年、父の死によって26歳で富山藩を相続。この人の功績は反魂丹(はんごんたん)を製薬して諸国に広め、越中売薬の基礎を作ったことであろう。富山の置き薬の元祖である。1690(元禄3)年、江戸城内で腹痛に苦しむ三春藩主・秋田輝季(1649〜1720)に、正甫が印籠から取り出した反魂丹を与えたところ、腹痛が治ったという。それを見た諸国の大名から、ぜひ自分の領内でも販売してほしいと依頼されたのがルーツとされる。 |
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7月20日から「青春18切符」が使えるようになった。そこで、富山から次の新潟県までは鈍行で移動することにした。 |
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今回の旅の最後の県である新潟県に入った。 新潟県といえば、戦国武将・上杉謙信(1530〜78)の地元。すでに米沢で上杉家の史跡は見ていた。米沢でも謙信は尊敬されているようではあった。もっとも、上杉家が米沢に移ったのはその養子の景勝(1556〜1623)の代なので、やはり謙信といえば越後(新潟)で はないか。 その本拠地である春日山を訪ねた。上杉謙信は春日山城で生を受けている。その春日山城址までは、駅から歩いて30分ほど。 |
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◆謙信公広場 | |||
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春日山駅の前の通りは「謙信公大通り」。さらにそこから5分ほど歩くと、石垣のある広場があり、「謙信公広場」という名前であった。「歴史と文化の融合をテーマに、春日山城に城を構えた武将上杉謙信公を題材としてつくられて」いるそうだ。もっとも、実際の春日山城にはこのような石垣は使われておらず、あくまで城下町としてのイメージなのだそうだ。 |
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公園にはフォークのようなモニュメントが建つ。これは、上杉謙信が信仰していた毘沙門天の持つ宝棒(三叉戟)をモチーフとしたものである。 |
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◆春日山城址 | |||
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さらに進むと、「史跡 春日山城阯」と書かれた碑が建っていた。ここからが春日山城への登山口である。 |
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登山口をはいってすぐのところに泉のある広場があった。「御前清水」といって、謙信が出陣前にここの水を汲んだそうである。 |
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歩き疲れたので、城址入口にある店に入って昼食を取った。メニューに「謙信力そば」なるメニューがあった。餅、山菜、豚肉の入った温かいそば。 |
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春日山城址の入口には上杉謙信公の像が建っていた。堂々とした立派な像である。 |
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謙信公の視線の先には、武田信玄(1521〜73)と激戦を繰り広げた川中島があるのだという。 |
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春日山山頂にあった春日山城は、天然の要塞として鉄壁の守備を誇ったとされるが、現在ではほとんど遺構が残っていない。 |
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春日山を登り始めてすぐの所にある春日山神社は謙信公を主神として祀っている。 |
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春日山神社は、1901(明治34)年創建というから新しい。米沢の上杉神社より謙信公が分霊された。 春日山神社を独力で創建した旧高田藩士・小川済晴(1849〜1935)は熱烈な謙信崇拝者で、童話作家・小川未明(1882〜1961)の父に当たる。その関係もあってか、宝物庫には、謙信公と共に、小川未明関係の資料が展示されている。 |
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神社の境内に建つ「小川澄晴千代之碑」は、そんな澄晴と妻の千代(1853〜1937)を思慕して、息子の小川未明によって1940(昭和15)年に創建された。 |
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小川家は代々春日山神社の祭主を務めたそうで、小川家の奥津城(墓)もあった。 |
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さらに登ると、千貫門跡に出る。春日山城を描いた絵図には必ず描かれていた門だというが、何も残っていない。 |
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直江屋敷は、上杉家の重臣・直江家の屋敷跡。中でも、上杉景勝に仕えた直江兼続(1560〜1619)が有名。“愛”を象った兜でも知られているが、その後2009年に大河ドラマ「天地人」の主人公ともなっている。 |
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春日山城址で数少ない建築物が、毘沙門堂。謙信が信仰した毘沙門天の青銅製の尊像を安置している。オリジナルの尊像は、上杉家が米沢に移った際に 一緒に移ったが、1849(嘉永2)年の火災で損傷。その後1928(昭和3)年、上杉家の15代・憲章(1876〜1953)によって東京美術大学に修理に出された。その際、修理を担当した高村光雲(1852〜1934)は、御分身(複製)を作り、オリジナルの破片を胎内に収めて、春日山に寄進 した。 毘沙門堂は1931(昭和6)年に建てられている。 |
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いよいよ本丸にやって来た。ここも石碑だけで何もないが、ここからは直江津の町が一望できる。直江津は森鷗外(1862〜1922)の「山椒太夫」の舞台となった町である。 |
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◆林泉寺(HP) | |||
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春日山の麓に降りて、上杉氏の菩提寺である林泉寺を訪ねた。林泉寺は、後に上杉氏が米沢に転封されると、それに伴って移転しているが、その後越後を支配した堀氏によって再興され、歴代の支配者の菩提寺となった。 |
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林泉寺は、謙信の祖父・長尾能景(1464〜1506)によって1497(明応6)年、亡父・重景(1425〜82)の17回忌を営むために創建された。開山は曇英恵応(1424〜1504)。 後の上杉謙信である虎千代が、父・為景(1489〜1543)の死後、7歳でこの寺に預けられ、14歳で長尾景虎として元服するまでを過ごした地でもある。ここで謙信は、6代住職・天室光育(1470〜1563)より学問を学んでいる。後に7代・益翁宗謙のもとで悟りを開き、その師の名より1文字取って「不識庵謙信」と号した。 林泉寺の入り口にある惣門は、春日山城の搦手門を移築したもので、現存する唯一の春日山城の建築物とのことである。 |
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立派な山門は1925(大正14)年に、謙信公生誕400年を記念して建てられた。 |
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林泉寺には、長尾氏・上杉氏、歴代の高田藩主の墓所がある。 |
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なんといっても上杉謙信。もっとも、謙信の遺骸は上杉氏と共に米沢に移されたはずであるから、これは供養塔。 |
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謙信の祖父長尾能景、父・為景の墓所もある。 |
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謙信といえば、ライバル・武田信玄と5度に渡って川中島で戦っているが、その川中島合戦での戦死者の供養塔も建っている。 |
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林泉寺には、堀氏の墓所もある。堀秀政(1553〜90)は、高田藩初代藩主・秀治(1576〜1606)の父。堀氏転封後ここに改めて葬られた。 堀氏は2代・忠俊(1596〜1622)の時、お家騒動のため改易され、高田藩はその後松平家や酒井家の支配を受けたが、1741(寛保元)年に姫路藩主の榊原政岑(1713〜43)が移ってきて、榊原氏のもとで幕末を迎える。 |
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林泉寺の本堂や山門は、寛永年間や1847(弘化4)年の火災で焼失している。現在の本堂は1997(平成9)年の開山500年を記念されて建立されたものである。
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境内に建つ碑は「春日山懐古」。幕末の儒者・大槻磐渓(1801〜78)によって謙信を偲んで詠まれた漢詩である。 |
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春日山頭晩霞(ばんか)に鎖(とざ)さる。
驊騮(かりゅう)嘶(いなな)き罷(や)んで鳴鴉(めいあ)有り。 平安城外の花を詠ぜざりしを。 |
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宝物館も訪ねてみた。上杉家を中心とした歴代藩主ゆかりの品を収蔵している。 |
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境内の公衆トイレに行ったところ、男女の性別の表示が面白かった。 |
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◆春日神社 | |||
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さらに春日神社にも行ってみた。春日山にある春日山神社と似た名前で紛らわしいが、こちらのほうが古く、春日山の名前の由来になっている。そもそも958(天徳2)年に春日大社の分霊を勧請して春日山山頂に建てられたが、その後上杉氏が春日山城を築城した際に、領内の守護として鬼門の地であるこの地に移された。 |
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もう遅いのでホテルにチェックインするとすぐに夕食へ。 日本酒〆張鶴を飲みながら日本海の海の幸を堪能した。 |
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旅の宿〜新潟県〜 | |||
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