日本一周第1回「いい日旅立ち」 

11日目「大都会〜山形県・東京都〜」
 

2006年7月7日(金)

 
 


 今回の東北旅行も一応の最終日を迎えた。今日のうちに東京に戻る予定であるが、最後の目的地である米沢へ向った。
  

 

 


9:35 山形 →(奥羽線)→ 米沢 10:20
 

 
  〈米沢〉  
 
 米沢駅に着いて案内図を見たところ、各名所はみな駅から程近いところにあるようだ。そこで、歩いて回ることにした。
    
 
  ◆堀粂之助墓所(竜泉寺)  
 



堀粂之助之墓所

 
 
 主な名所は駅の西側にある。駅前から続く通りをしばらく歩くと、竜泉寺があり、その境内に堀粂之助の墓を見つけた。堀粂之助は会津藩士。戊辰戦争時、堀は、同じ会津藩士の吉村寅之進と共に、米沢藩に援軍を求めるため、1866(慶応4)年8月23日会津を出発。9月3日に米沢に到着する。だが、すでに米沢藩では事情が変わっていたため、援軍を断られてしまう。君命を果たし得ず申し訳なく思った粂之助はその夜自刃して果てる。
 墓所の前の碑には彼の辞世の歌

  神かけて誓ひしことのかなはねば ふたたび家路思はざりけり

が刻まれている。
   
 
 



堀粂之助辞世の歌碑
 

 
  ◆米沢城址・上杉神社  
 



上杉神社
 

 
   
 さらに西へ500メートルほど進むと、左側に上杉神社がある。上杉家の居城・米沢城の跡地にあり、上杉謙信(1530〜78)に始まる歴代の上杉家当主を祀っている。
  
 
 



上杉謙信像
  


 正面の参道を入ると、右側に上杉家初代当主・謙信の像が出迎えてくれる。謙信といえば「越後の龍」と称された通り、越後(現在の新潟県)が本拠地。しかしながら、謙信の養子・景勝(1555〜1623)の時に会津120万石に転封。さらに関ヶ原合戦において西軍に組したことから、米沢30万石に減封される。謙信の魂もそうやって、この地までやって来たのである。こうして見る限り、謙信は米沢でも深い尊敬を受けているようだ。
  



上杉鷹山像
  


 正面の参道の左脇には米沢藩9代目藩主(上杉家10代目)・上杉鷹山(上杉治憲/1751〜1822)の像が立つ。日向高鍋藩主・秋月種美(1718〜87)の次男として生まれた鷹山は、米沢藩主・上杉重定(1720〜98)の養子となり1767(明和4)年16歳で家徳を継ぐ。当時破綻状態にあった米沢藩の改革を実施し、財政を立て直すことに成功した。そのため名君として知られ、ここ米沢では謙信と並ぶ尊敬を得ている。
   



上杉鷹山の歌碑
  


 鷹山像のそばには上杉鷹山の有名な

  なせば成るなさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり

の和歌が刻まれた碑も建っている。
  



伊達政宗生誕之地
   


 仙台藩初代藩主・伊達政宗(1567〜1636)は、現在でも仙台では神様として深い尊敬を受けている。その政宗は、1567(永禄10)年、米沢城内で生まれている。伊達氏と言えば仙台だが、そもそもの本拠地はここ米沢。政宗の先祖に当たる伊達宗遠(1324〜85)が、1385年に長井氏を滅ぼし、米沢城に入 っている。以来、政宗が1591(天正19)年に岩出山城に転封となるまで、約200年に渡って米沢は伊達氏の支配を受けてきた。
 旧米沢城址である上杉神社内には、その政宗生誕の地を示す碑が建っている。しかし、仙台市内での政宗の華々しい扱いに比べると、ほとんど無視されているようにも感じるほど。とにかく小さな扱いである。
   



上杉謙信公祠堂(御堂)跡
  


 政宗生誕の碑の近くにある「上杉謙信公祠堂(御堂)跡」のほうがよっぽど立派だけにそれを強く感じる。
 上杉謙信が1578(天正6)年3月13日に越後春日山城で亡くなると、遺骸は一度その地に葬られるが、上杉家が会津→米沢と移るに従い、米沢城二の丸のこの地に遺骸も移された。1876(明治9)年、謙信の遺骸は歴代藩主の眠る上杉家廟所に移されている。
  



招魂碑
  


 祠堂碑の奥にある招魂碑は、戊辰戦争(1868〜69)年で戦死した米沢藩士280余名と、西南戦争(1877年)に従軍して戦死した米沢藩士52名の霊を慰霊するために、1878(明治11)年建てられた。その後、日清・日露戦争で亡くなった兵士の霊も合祀された。
 戊辰戦争では米沢は会津・仙台と共に最後まで新政府軍に抵抗している。そう考えると、米沢は歴史の大舞台となった場所なのだと、しみじみと感じられる。
      



上杉神社一の鳥居
奥に二の鳥居も見える
  

 



上杉神社本殿
 

 
 
 さて、米沢が、「忠臣蔵」の重要な地の一つであることをご存じであろうか? 忠臣蔵の仇役・吉良上野介義央(1641〜1703)の妻・富子(1643〜1704)は、米沢藩2代藩主・上杉定勝(1604〜45)の娘。その子・綱憲(1663〜1704)は、伯父にあたる3代藩主・綱勝(1639〜64)に子が無かったため、養子となり上杉家4代藩主となっている。さらに、綱憲の子・義周(1686〜1706)が祖父にあたる吉良上野介の養子となっている。吉良上野介が権勢を奮った背景に、上杉家との結びつきがあったと考えられ ている。
 上杉神社境内には「赤穂事件殉難追悼碑」が立っている。1702(元禄15)年12月14日の赤穂浪士の吉良邸討ち入り当時、吉良邸には上杉家から派遣された家臣もいたのである。そのうち、新貝弥七郎(〜1702)が討ち死にしている。また、山吉新八郎(1671〜1753)の奮戦も目覚ましかったとされる。
   
 
 



赤穂事件殉難追悼碑
 

 
 
 上杉神社に併設する松岬神社も見ておきたいところ。上杉景勝、上杉鷹山の両藩主の他に、鷹山の師・細井平洲(1728〜1801)、直江兼続(1560〜1620)、竹俣当綱(1729〜93)、莅戸善政(のぞき・よしまさ/1735〜1804)の計6人が祭神となっている。
 神社の創建は1902(明治35年)。
    
 
 



松岬神社
 

 
 
 こちらにも鷹山公がいらっしゃった。ただしこちらは、座像である。
  
 
 



上杉鷹山公之像
 

 
 
 鷹山は1786(天明5)年、養子の治広(1764〜1822)に家督を譲って隠居。その際に、治広に申し渡した3条からなる家訓「伝国の辞」も有名である。

  
 
    一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
   
 



伝国の辞
 

 
 
 松岬神社には、その伝国の辞の碑も立っている。伝国の辞は、幕末に至るまで、上杉家の家訓として伝承された。
  
 
  ◆千勝院(HP  
 



千勝院
 

 
 
 上杉神社から西へしばらく行くと、歴代上杉家の御祈願所である千勝院がある。
 なるほど、上杉家の「毘」の軍旗がたなびいている。この軍旗のもと、千回戦えば、千回勝つという信念から「千勝院」という名前がつけられたという。
  
 
 



千勝院本堂
 

 
 
 もともとは、上杉謙信が越後高田に創建した「千手院」が始まりとのこと。その後上杉家と共に、会津を経て、米沢にやってきた。
  
 
  ◆上杉家廟所  
 



上杉家廟所
 

 
 
 上杉家の歴代当主の霊の眠る廟所は、千勝院のすぐ北にある。
 うっそうとした木立の中にある落ち着いた場所だ。
   
 
 



初代・上杉謙信御廟
 

 
 
 まず廟所の中央にあるのが、初代・上杉謙信公の御廟。もともとは上杉神社内にあったが、1876(明治9)年にここへ移ってきた。
  
 
 

2代・上杉景勝公御廟
 


10代・上杉鷹山公御廟
 
 
 2代目・上杉景勝以下の歴代米沢藩主の御廟も当然、ここにはある。景勝から9代・重定までは火葬に付されたが、10代・鷹山の以降は土葬となっているとのこと。
  
 
 



5代・上杉綱憲公御廟
 

 
 
 「忠臣蔵」の主要人物の一人、5代・綱憲の御廟ももちろんある。
 14代(米沢藩13代藩主)茂憲(1844〜1919)の時に、明治維新を迎える。茂憲は明治政府では沖縄県令(県知事)をも務めた。
  
 
 



上杉家廟所
 

 
 
 上杉家の菩提寺・法音寺は上杉家の廟所に隣接している。法音寺は737(天平9)年、聖武天皇の勅命により、越後に建立されている。その後、上杉家の帰依寺となり、やはり会津、米沢と上杉家と行動を共にしている。
  
 
 



法音寺
 

 
  ◆米沢上杉博物館(HP  
 



米沢上杉博物館
 

 
 
 再び上杉神社のほうへ戻ってきた。すぐ近くにある上杉博物館を訪ねた。古墳時代から、伊達氏支配時代などを経て、主に上杉氏を中心とした米沢の歴史を紹介する博物館である。
 ここで印象的だったのが、名君とされる上杉鷹山を紹介するミニ・ドラマ。鷹山に扮するのが西村和彦(1966〜)で、姉さん女房の側室・お豊の方(1741〜1822)に紺野美沙子(1960〜)という豪華なキャストであった。
    
 
 



置賜の庭 行屋
 

 
 
 上杉博物館には、置賜の庭という庭園が造られている。そこには建物・行屋(ぎょうや)が復元されている。米沢を含む置賜(おきたま)地方では、かつて山岳信仰が盛んで、13〜15歳の男子は成人の儀式として、出羽三山に上る習わしがあった。行屋は、その際に身を清めるために用いられた。
  
 
 



米沢牛ステーキラーメン
 

 
 
 そろそろ昼食を食べよう。米沢で何を食べるか、朝米沢に着いた時から悩んでいた。
 米沢といえば何と言っても米沢牛が有名。その一方で、米沢ラーメンというものもある。どっちも食べたい。
 そうしていたところ、何と米沢牛ステーキラーメンなるものを見つけたので、迷わずそれを食べることにした。ラーメンは鳥がら醤油味。そこに辛みそを乗せて…。米沢牛の焼肉が5枚乗って、それで1600円であった。
    
 
  ◆千坂兵部の墓(日朝寺)  
 



千坂兵部の墓のある日朝寺
 

 
 
 米沢が「忠臣蔵」の舞台の一つであることはすでに述べた通りだが、上杉博物館から駅に戻る途中に千坂兵部(1638〜1700)の墓があるというので、寄ってみた 。
   
   
 
 



日朝寺の千坂家墓所
 

 
 
 千坂兵部高房は上杉家の江戸家老。「忠臣蔵」の物語では、吉良方随一の知恵者として、大石内蔵助(1659〜1703)と知恵比べを演じる。取り分け、赤穂浪士の襲撃を知った藩主・綱憲が、援軍を出そうとするのを押し止め、上杉家取りつぶしを防ごうとする場面が見せ場になっている。ところが、どうも真相は違うようなのである。赤穂浪士の討ち入りは1702(元禄15)年。ところが、千坂兵部自身はすでに1700(元禄13)年にはこの世を去ってい る。こうした誤解は、そもそも大仏次郎(1897〜1973)が「赤穂浪士」(1929年)の中で千坂兵部を登場させたことから生まれたようなのだ。なお、討ち入り当時の千坂兵部は兵部高房の息子・兵部尚親(1674〜1747)で 、国家老の職にあった。最近の映画やドラマでは討ち入り当時の江戸家老・色部又四郎(1664〜1741)が綱憲を押し止める役回りを演じること になっているものも多い。
       
 
 



千坂家墓所
 

 
 
 日朝寺には、兵部高房や兵部尚親ら、千坂家代々の墓がある。
  
 
 



山形名物さくらんぼ
 

 
 
 いよいよ旅の終わり。
 米沢から東京へ向かう新幹線に乗った。あまり荷物を持ちたくなかったので、お土産はあまり買わなかったが、それでも北海道の「白い恋人」と秋田の「もろこし」。山形ではさくらんぼを買った。
 そして心にはたくさんの想い出を…
   
 
     
 


14:29 米沢 →(つばさ)→ 東京 16:48
 

 
 
 久しぶりに見る東京の町が、空気が、なんだか懐かしかった。じとっとした湿気さえもが…

 日本一周旅行もとりあえずこれで小休止。しかし、まだまだ終わったわけではない。しばらくしてから、西に向きをかえて、また新しいスタートを切るつもりでいる。
  
 
 

さくらんぼ〜山形県〜

悲しい色やね〜大阪府〜  
 


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