第3章−トーキー創世記(1)
お楽しみはこれからだ〜トーキーの誕生〜
 



「ジャズ・シンガー」(1927年米)
アル・ジョルスン
(「アメリカ映画200」71ページ)
 

 
 
 ついにこの「映画史探訪」もトーキー(発声映画)の時代に入る。
 19世紀末に映画が発明されて以来今日まで、様々な技術的な発展があった。トーキー(音声)に始まり、カラー、ワイドスクリーン、CG、3D…今なお様々な技術革新は続いている。そんな中で、映画においてどうしても欠かすことの出来ない技術を1つだけあげるとすれば、それはトーキーだろう。たとえカラーが無かったとしても、数々の名作映画は生まれていたに違いない。だが、映画に音声がなかったとしたら…果たして名作の多くは生まれていたかどうか、僕には甚だ疑問である。
 
 
  トーキーへの歩み  
 



エジソンによるキネトフォンの実験光景
Wikipedia:The Dickson Experimental Sound Film
 

 
   
 映像と音声を一致させようとの試みは、それこそ映画の発明と同時にあった。映画の父トマス・A・エジソン(1847〜1931)は、自身が発明したキネトスコープとフォノグラフ(蓄音機)を合わせたキネトフォンを1895年に発明している。同様の発明は、フランスのリュミエール兄弟やジョルジュ・メリエス(1861〜1938)といった同時代の他の発明家や映画人によっても様々に試みられている。また、レオン・ゴーモン(1864〜1946)も1900年のパリ万博においてオペラやバレエといった音の出る映画の実演をした。ドイツでは1910年にオスカー・メステルが、「緑の森」という音入り映画を発表し、エジソンも1912年に15分の短編ミュージカル「マザー・グース物語」 を製作している。しかしながら、当時の技術では映像の動きと音声を完全に同期させることは難しく、音量・音質面でも様々な問題があった。
 
 
 



ヴァイタフォンの実験室
(「トーキーは世界をめざす」19ページ)
 

 
 
 電話を発明したグラハム・ベル(1847〜1922)のベル・テレフォン社の資本系列会社ウェスタン・エレクトリック社は1924年、映像と音声を同期させる「ムービーフォン」を発表した。さっそくこの装置はパラマウントの社長アドルフ・ズーカー(1873〜1976)のもとに持ちこまれたが、パラマウントを始めとした大手の映画会社は、莫大な費用が必要であることを理由に、この申し出を断ったのであった。結局、「ムービーフォン」に投資したのは、当時破産の危機に陥っていた中小映画会社のワーナー・ブラザーズだけであった。ワーナー・ブラザーズは「ムービーフォン」に80万ドルを投資し、“ヴァイタフォン”として特許を取得した。
    
 
  ◆トーキー第1作「ドン・ファン」  
 



「ドン・ファン」(1926年米)
ジョン・バリモア(左)
 

 
    
 ヴァイタフォンを用いて製作された長編映画が「ドン・ファン」 (1926年米)である。「ドン・ファン」は映画史上初の本格的トーキーとして1926年8月6日公開された。
 「ドン・ファン」には、本編の物語に先立って、8つの短編映画が挿入されている。冒頭では米映画製作配給協会のウィル・H・ヘイズ会長(1879〜1954)が挨拶と、映像と音響の狂い無き同調への賛辞を述べる。続いて、ニューヨーク・フィルの「タンホイザー」 の演奏を皮切りに、ミッシャ・エルマン(1891〜1967)のバイオリン演奏によるヒューモレスクとガヴォット。ロイ・スメック(1900〜94)のギター、ウクレレ、バンジョー演奏。プリマドンナのマリオン・タリー(1906〜83)の「リゴレット」。エフレム・ジンバリスト(1889〜1985)のバイオリンとハロルド・バウアー(1873〜1951)のピアノによるベートーベンの「クロイツェル・ソナタ」。ジョヴァンニ・マルティネッリ(1885〜1969)のオペラ「道化師」。アンナ・ケイス(1888〜1984)のオペラ「ラ・フィエスタ」と続く。
 なるほど、かなり豪華な顔ぶれである。公開当時この映画を観た観客は、間違いなくこの映像と音楽の同期にかなり満足したであろう。例えば、演劇界の大女優だったサラ・ベルナール(1844〜1923)は自らの姿を永遠に残すために創世記の映画に積極的に出演している。しかしながら、当時の映画はサイレントであったため彼女の「silvery(銀の鈴)」や「golden bell(黄金の鈴)」
(*1)と称された伝説的な声は、少なくとも映像と同期した形では残っていない。そう考えるとトーキーの発明は映画界のみならず大きな影響を与えたのである。

 しかしながら、今日の目で観ると「ドン・ファン」にはかなりの違和感がある。というのも、冒頭の音楽の演奏は延々1時間近く続き、なかなか本編のストーリーが始まらないからだ。当時の二枚目スター、ジョン・バリモア(1882〜1942)主演のドラマ部分は賞味2時間もない。

*1 「成城ふじ村:サラ・ベルナールとアール・ヌーボー・ジュエリー」(http://www.seijo-fujimura.jp/jewels_01.html
  
 
 



「ドン・ファン」(1926年米)
エステル・テイラーとジョン・バリモア
(「スクリーン・ヒーロー20’s〜80’s」17ページ)
 

 
 
 待たされたあげくいよいよ、「ドン・ファン」本編が始まる。しかしながら、物語本編のセリフはすべて字幕によって表現されている。音楽と効果音だけが加えられたサウンド版なのである。効果音も、ドアをノックする音と、剣戟の音が後から加えられているだけだ。
 もちろん「ドン・ファン」は、二枚目スター・ジョン・バリモアの魅力が目一杯に発揮された一級の娯楽作ではあるのだが、結局のところ、サイレント映画の範疇でしかなく、本格的なトーキーとは到底言い難い。
 
 
  ◆シドニー・チャップリン「ベター・オール」  
 



「ベター・オール」(1926年米)
シドニー・チャップリン(左)
 


 
 
 「ドン・ファン」の成功で自信を得たワーナー・ブラザースは、次いで「ベター・オール」(1926年米)を公開した。「ベター・オール」は、シドニー・チャップリン(1885〜1965)の代表作。シドは喜劇王チャールズ・チャップリン(1889〜1977)の異父兄に当たる。小柄な弟と異なり、大柄な風貌で、豊かなヒゲを蓄えている。チャーリーほどの鋭敏さは無いが、どこかとぼけたキャラクターでなかなか人気があったそうだ。
 この「ベター・オール」はミュージカル舞台の映画化である。第一次大戦中のフランスを舞台に、シド演じる英国軍の万年二等兵のビル親爺が引き起こす騒動を描く。ドイツ軍に占領された村に取り残されたビル親爺が孤軍奮闘する様子は、弟チャーリーの代表作「担え銃」(1918年米)を彷彿させる。この「ベター・オール」は「ドン・ファン」同様に音楽と一部の効果音が加えられたのみのサウンド版である。慰安芝居の劇場の場面において兵士たちの掛け声は録音されているものの、セリフに関してはすべて字幕による。ミュージカル舞台の映画化だけに、冒頭の塹壕のシーンでビル親爺 とジャック・アックロイド(1890〜1962)演じる相棒のアルフが歌うシーンがあるのだが、そこでも歌詞の字幕と音符で示されるだけ。
   
 
  ◆「お楽しみは、これからだ」  
 



「ジャズ・シンガー」(1927年米)
アル・ジョルスン
(「トーキーは世界を目指す」より)
 

 
 
 「ドン・ファン」にしても「ベター・オール」にしても、現在の僕らが観るとトーキーとしてはかなり物足りない。本格的なトーキー作品の登場は、翌年の「ジャズ・シンガー」(1927年米)の登場を待たなければならない。

 「ジャズ・シンガー」は、当時のブロード・ウェーの大スターで世界最高のエンターティナー(The World's Greatest Entertainer)と称されたアル・ジョルスン(1886〜1950)の主演作である。彼が黒塗りの黒人メイクで悲しげに歌う姿(写真上)を見たことある人も多いだろう。
    
 「ジャズ・シンガー」の原作はサムスン・ラファエルスン(1894〜1983)の小説「贖罪の日」(The Day of Atonement)。筆者のラファエルスンは1917年にジョルスンのステージを見て感銘を受け、1922年に彼をモデルとした小説を書き上げた。ジョルスンもラファエルスンも共に、ユダヤ人移民の子であった。
 つまり「ジャズ・シンガー」という作品はジョルスンなくしては生まれ得なかったのだ。1925年に舞台化された際、ジョルスンは他の舞台で多忙であったため、主人公を演じたのはやはりユダヤ移民のジョージ・ジェッセル(1898〜1981)であった。映画版も当初ジェッセルが主演する予定であったが、撮影開始直前に突如降板した。理由は、トーキーとして製作されることになったため出演料の増額を要求したが拒否されたとも、トーキー映画に不安を感じたためとも、両親役にユダヤ人でない俳優を起用したことを嫌ったためともいわれている。そこで急遽モデルであったアル・ジョルスンが主演することとなった。
 
 
 



「ジャズ・シンガー」(1927年米)
(左2人目から)メイ・マカヴォイ、アル・ジョルスン、
オットー・レダラー、ユージニー・ベッセラー
(「世界映画全史12」352ページ)
 

 
 
 「ジャズ・シンガー」の物語は、ジョルスン自身の半生とも二重写しになっている。ユダヤ教のハッザーン(聖歌隊長)の一人息子として生まれたジャッキー・レビノヴィッツが、父の跡を継ぐことを嫌って家を飛び出し、ジャック・ロビンと名前を変えてショービジネスの世界へ飛び込む。やがてジャックは成功を納め、ブロードウェーの舞台に立つことになる。
 そんな彼の元へ、父(ワーナー・オーランド)危篤の報が入る。ユダヤ教の贖罪の日、母(ユージーニー・ベッセラー)はジャックに父の代わりに聖歌を歌って欲しいと懇願する。 しかしその日は彼のブロードウェイの舞台の初日であった…。
 
 
 



「ジャズ・シンガー」(1927年米)
(「世界映画全史12」352ページ)
 

 
 
 僕はこの「ジャズ・シンガー」を、記念すべき最初のトーキーということで、期待を持って観たのだが、映画が始まってすぐにがっかりしてしまった。というのも、音楽はあるのだが、登場人物のセリフはすべて字幕。結局のところ、映画のほとんどがサイレントなのである。
 トーキー部分は全体の1/3も無いだろう。その大部分は歌の場面である。映画開始後すぐ少年時代のジャッキーが酒場で歌う「My Gal Sal」と「Waiting for the Robert E. Lee」のシーンを皮切りに、ジャッキーの父が歌う賛美歌「コルニドレ」など、全部で8つのシーンで歌が披露される。
 
 この映画の歴史的に重要な場面は、映画開始14分後。ショービジネス界に入ったジャックがナイトクラブで歌う場面である。彼はまず「Dirty Hands, Dirty Face」を歌う。拍手喝采を浴びるジャックは、それを制止してこう語る。
 “Wait a minute! Wait a Minute! You ain't heard nothin' yet. Wait a minute, I tell ya, you ain't heard nothing ! ”
 そして次の曲「Toot, Toot, Tootsie」を歌い出す。この時の彼の台詞「You ain't heard nothin' yet.」が「お楽しみはこれからだ」と翻訳されている。イラストレーター・映画監督の和田誠(1936〜2019)の映画の名セリフを集めたエッセイのタイトルにも使われている。その後のトーキー映画の発展と合わせて考えても、蓋し名訳だといえるが、もともとはジョルスンの半生を映画いた映画「ジョルスン物語」(1940年米)の中でこの台詞が再現された際の翻訳字幕だった。
 セリフのシーンはもう1つ、20年ぶりに故郷に帰ったジャックが母親の前でピアノを弾き語り「Blue Skies」を披露する場面。ここではジャックの台詞以外にも、母親や父親の台詞も聞くことができる。しかし、歌が終わると突如サイレントに戻るのでなんとも不思議な感じがする。
     
 
 



「ジャズ・シンガー」(1927年米)
アル・ジョルスンの記念すべき第一声
「お楽しみはこれからだ」
(「トーキーは世界を目指す」30ページ)
 

 
 
 有名なジョルスンが黒塗りで歌うシーンは、彼が出演することになったブロードウェイの舞台の場面。彼の代表曲でもある「My Mammy」を哀愁たっぷりに歌い上げる。
 ジョルスンの黒人メイク。今日なら人権擁護団体が騒ぎそうである。日本でも1980年代末から1990年に絵本「ちびくろサンボ」が絶版になったり、黒人をあしらったカルピスのロゴが変更されたりしたようなことがあった。顔を黒塗りした黒人メークで歌う鈴木雅之(1956〜)率いるボーカル・グループ、ラッツ&スターが1996年に紅白歌合戦に出演した際も、アメリカの放送ではその出演場面がカットされたそうだ。もちろん、公開当時のアメリカは公民権法施行(1964年)前でもあり、それほど問題は無かったと思われる。ジョルスンがショービジネス界で活躍し始めた1910年代には、黒塗りの扮装は“ミンストレル・ショー”としてポピュラーな演目であった。ひょっとすると、今日この「ジャズ・シンガー」が比較的顧みられることが少ないのは、この辺の事情もあるのかもしれない。

 最後ジャックは、ブロードウェイの舞台の初日を蹴って家に戻り教会で賛美歌「コルニドレ」を歌う。それを聞きながら、父親は息子を許し息を引き取る…。原作の題名は「贖罪の日」 とあり、そもそもショービジネスの世界に入った主人公がユダヤの伝統に触れることで安らぎを得るといった内容のもので、ここで終わっていたそうである。だが、映画はこの後、ブロードウェイの舞台に立ったジャックが客席の母親に向かって「マイ・マミー」を歌うシーンで幕を下ろす。ジャックがその後、ショービジネス界のスターになっていくことを予感させるエンディングであるが、そもそもこの映画はアル・ジョルスンの半自伝なのだから、当然なのかもしれない。また、それがいかにもアメリカン・ドリームを体現しているように思える。日本であれば、長谷川一夫(1908〜84)と山田五十鈴(1917〜2012)が共演した「鶴八鶴次郎」(1938年東宝)のラストで、相方・鶴八(山田五十鈴)の幸せを願う鶴次郎(長谷川一夫)が、芸の世界での成功を捨てて身を引くような形で終わっているのとは大きな違いである。

 この「ジャズ・シンガー」という題材は、アメリカ好みであったらしく、 その後何度も映画化された。ジョルスン自身の主演でラジオドラマ化されたこともある。また、ジェリー・ルイス(1926〜2017)主演でテレビドラマ化された。1953年にはダニー・トーマス(1912〜91)主演で再映画化。1980年にはニール・ダイアモンド(1941〜)主演で3度目の映画化がなされた。
 このうち、僕は1980年版の「ジャズ・シンガー」を観る機会があった。ロック歌手のニール・ダイアモンドが主人公のジェスに扮する。基本的なストーリーはオリジナル版と同じだが、ジェスがロックシンガーを目指すなど、全体的に現代的な味付けがなされている。“Coming to America”“Hello Again”“Love on the Rocks”といったダイアモンドの歌う曲がふんだんに挿入され、ロックミュージカルとしても見ごたえがあるので、「ジャズ・シンガー」というよりは「ロック・シンガー」といったタイトルのほうがふさわしい。ちなみにニール・ダイアモンドは、この作品でゴールデングローブ賞の主演男優賞にノミネートされたが、その一方で「最低」の映画を表彰するゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)の主演男優賞も受賞するなど、賛否が真っ向から対立する評価を受けた。また、ジェスの父に名優ローレンス・オリビエ(1907〜89)が扮し、重厚な演技を見せている。オリジナル版での父は主人公の讃美歌を歌うのを聞きながら息を引き取るが、リメイク版では主人公を許し受け入れ、最後は彼のコンサートの客席に姿を見せる。
    
 
  ◆「シンギング・フール」  
 



シンギング・フール(1928年米)
アル・ジョルスンとデビー・リー
主題歌「Sonny Boy」を歌う場面
(「トーキーは世界を目指す」25ページ)
 

 
 
 「ジャズ・シンガー」の成功がいかに映画界に衝撃をもたらしたかは、サイレント末期からトーキー時代の映画界を描いたミュージカル映画「雨に唄えば」(1952年米)を観ても明らかである。しかしながら、「一夜にしてサイレントは過去のものとなった」などと言われたりするのは、少々大げさかもしれない。もちろんすべての映画が一瞬でトーキーになったわけではない。また、それまで30年以上に渡って築き上げられたサイレント映画の美学というものも存在しており、トーキーに反対する映画人も少なからずいた。代表的なのはチャールズ・チャップリンだが、他にもキング・ ヴィダー(1894〜1982)、ルネ・クレール(1898〜1981)、F・W・ムルナウ(1888〜1931)、アベル・ガンス(1889〜1981)らがトーキーに反対している。
 しかし、映画が音を持つということは、時代の趨勢であったのだろう。大衆はトーキーを圧倒的に支持し、1929年には映画の1週間の入場者数はトーキー前の2倍にも達したという。

 そんな中、「ジャズ・シンガー」の勢いを買って再びアル・ジョルスンが主演した映画が「シンギング・フール」(1928年米)である。
 しかし、この「シンギング・フール」も、全編トーキーというわけではなく、半分程度が字幕によって台詞を表現している。もちろん、「ジャズ・シンガー」よりはトーキー部分ははるかに多いのではあるが、あまりに頻繁にトーキーとサイレントのシーンが切り替わるので面食らっていまう。当時の観客は違和感を感じなかったのだろうか。
 物語は、ウェイターのアル・ストーン(アル・ジョルスン)が、音楽家として成功を収めるが、妻に去られ愛する息子に先立たたれ失意の底に陥るも、再び立ち直るまでを描く。親子の確執という重いテーマを描いた「ジャズ・シンガー」に比べると、シンプルな作品だが、その分歌のシーンは多い。「ジャズ・シンガー」に登場した名台詞「お楽しみはこれからだ(You ain't heard nothin' yet)」も、2曲目の「There's a Rainbow 'Round My Shoulder」を歌う場面をはじめ、何回か登場することからもわかるように、結局は「ジャズ・シンガー」の二番煎じといった印象を受ける。 エンディングも、「ジャズ・シンガー」同様に黒塗りのジョルスンが歌う「Sonny Boy」である。
 エンターテイナーとしてのジョルスンの魅力を十二分に発揮した作品で、興行成績は550万ドルの大ヒットとなった。これは、「風と共に去りぬ」(1939年米)が登場するまで破られない記録だったという。主題歌「Sonny Boy」も300万枚を売り上げる映画初のヒット曲となった。日本では「ジャズ・シンガー」よりも「シンギング・フール」のほうが先に公開されたため、「ジャズ・シンガー」への驚きはアメリカほどではなかったそうだ。
 
 
 



「シンギング・フール」(1928年米)
ジョセフィン・ダンとアル・ジョルスン
 

 
 
 サイレント部分が無く全編トーキーのオールトーキー作品としては、「シンギング・フール」と同じ1928年に製作された「紐育の灯」(1928年米)が最初であるが、残念ながら僕は観る機会がない。「ドン・ファン」、「ジャズ・シンガー」、「シンギング・フール」、「紐育の灯」はいずれもワーナー・ブラザースの作品だったが、これらの成功を見て他の映画会社も次々とトーキー映画を発表していった。ハリウッド最後のサイレント映画は1929年8月公開の西部劇「West Point」であった。
    
 
  ◆「ジョルスン物語」  
 



「ジョルスン物語」(1940年)
ラリー・パークスとイヴリン・キース
(「トーキーは世界を目指す」30ページ)
 

 
 
 「ジャズ・シンガー」「シンギング・フール」のヒットにより映画スターとして成功を収めたアル・ジョルスンは、 「マミー」(1930年米)、「カジノ・ド・巴里」(1935年米)などその後1930年代にかけて数多くの映画に出演している。彼自身がアメリカンドリームを体現した人物であった。もっとも、彼の主演作は今日ではほとんど忘れられしまっており、僕も最初にあげた2本以外は観たことがない。しかしながら、1946年には彼の半生を描いた「ジョルスン物語」(1946年米)が製作されているから、人気がいかに大きかったがわかる。
 「ジョルスン物語」でジョルスンに扮したのはラリー・パークス(1914〜75)。なるほど、ジョルスンに雰囲気もよく似ている。当時はまだジョルスン自身も存命中で(4年後の1950年に死去)、歌のシーンは本人が吹き替えている。
 
 「ジョルスン物語」では、ハッザーンの息子として生まれたエイサ(演:スコッティ・ベケット)が、親の反対を押し切ってショービジネス界に入り、アル・ジョルスンと名乗って成功を収める様が描かれる。まさに「ジャズ・シンガー」の物語と同じである。「ジャズ・シンガー」はジョルスン自身の物語でもあったのだ。ただ、「ジャズ・シンガー」とは違い、エイサの父はすぐにエイサのことを認め理解する。
 「Swanee」「My Mammy」「Toot, Toot, Tootsie」といった「ジャズ・シンガー」でも歌われた曲をはじめとして25曲が挿入されている。ただ、「ジャズ・シンガー」について は話題として触れられるだけで、映画のシーンそのものが再現されることがないのが物足りない。

 もちろん映画と史実では異なる部分もある。例えば、映画の中でジョルスンは駆け出し女優のジュリー・ベンソン(演:イヴリン・キース)と結婚する。ジュリーのモデルはジョルスン3番目の妻ルビー・キーラー(1910〜93)である。映画を観る限り、ジョルスンにとって初めての結婚のようなのだが、実際にはそれ以前にも2度結婚していた。また、ルビーとの間には息子のアル・ジュニア(1939〜)を設けているが、映画にはまったく現れない。映画の中にも描かれていたように、ルビーはやがてジョルスンの元を去る。その後、ジョルスンはアール・ギャルブレイス(1922〜2004)と4度目の結婚し、彼が亡くなるまで添い遂げることになる。
  
 
 



「ジョルスン物語」(1940年米)
ラリー・パークス
(「週刊THE MOVIE68」226ページ)
 

 
 
 「ジョルスン物語」のジョルスンは、妻のジュリーと共に芸能界を引退し、平穏な生活を過ごそうとする。だが、訪れたナイト・クラブで楽しそうに歌うジョルスンの姿を見たジュリーは、彼のもとから去っていく。そのジョルスンのカムバックの姿を描いたのが続編「ジョルスン再び歌う」(1949年米)である。再び、ジョルスンにラリー・パークスが扮し、ジョルスン自身が歌声を当てている。ジョルスンは翌1950年に64歳で亡くなった。
 「ジョルスン再び歌う」では、前作「ジョルスン物語」撮影の背景が詳細に描かれているのが興味深い。 劇中でアル・ジョルスンに扮するラリー・パークスと、アル・ジョルスンを演じるパークス本人を演じるパークスが対面するというシーンがあるのも面白い。 
  
 
  ◆和製トーキー「マダムと女房」  
 



「マダムと女房」(1931年松竹)
田中絹代と渡辺篤
(「日本映画200」45ページ)
 

 
 
 続いて、日本におけるトーキーの試みを見てみたい。「サウンド・オブ・サイレンス」でも簡単に紹介したが、 日本ではかなり早くからトーキー製作の取り組みがなされていた。1909(明治42)年には早くも、浅草オペラ館で「発声活動写真」が公開されているが、これはレコードに吹き込んだものを映画に合わせて再生するといったものであった。1913(大正2)年に設立の映画会社「日本キネトフォン」がエジソンのキネトフォンを使用し製作した「カチューシャの唄」(1914年)もよく知られている。1914年3月に上演された芸術座の舞台「復活」の舞台装置を利用し、松井須磨子(1886〜1919)が歌う「カチューシャの唄」のシーンを撮影したものである。
 1925年、アメリカでリー・ド・フォレスト(1873〜1961)のトーキー・システム“フォノフィルム”の権利を得た皆川芳造が昭和キネマ発声映画協会を設立。“ミナ・トーキー”と銘打って大森の撮影所でトーキー映画の製作を開始した。そうして完成したのが小山内薫(1881〜1928)監督「黎明」(1927年昭和キネマ)と、松本金太郎(後の11代目市川團十郎/1909〜65)監督「素襖落」(同)であ った。「黎明」は新劇を、「素襖落」は歌舞伎をそのまま同時録音で撮影したものである。しかしながらこれらの作品は短編であった上に、帝国ホテルで試写会が行われただけにすぎず、発声装置を常備した映画館もなかったため、機械を携行して希望先で映写するという形だった。昭和キネマはその後、発声映画社と改名し、「大尉の娘」(1929年)を製作。これが本格的な和製トーキー第1号だと言われている。
 その後もテナー歌手の藤原義江(1898〜1976)の歌を聞かせる「藤原義江のふるさと」(1930年日活)、「仮名屋小梅」(1930年発声映画社)、「中山七里」(同)、「もの言わぬ花」(1931年同)といった作品がミナ・トーキーを利用して製作された。
 今名前をあげた作品は大半がフィルムは残っていない。唯一、「藤原義江のふるさと」だけは現存しているが、残念ながら僕は観ていない。そのため、これらの作品のクオリティがどの程度であったのかはわからないのだが、「焼けトタンを叩いたような声」
(*2)であったとの評価があるように、必ずしも評価が高いものではなかったようである。


 そんな中、「最初の“本格的”トーキー」
(*2)と称される「マダムと女房」(1931年松竹)が公開されるのである。
 「マダムと女房」は現存しているばかりか、ビデオ化もされており、僕も観る機会に恵まれた。以下、簡単に内容を紹介したい。
 舞台はとある郊外。田舎道にキャンバスを据えて文化住宅を写生する画家(演・横尾泥海男)がいる。そこに口笛を拭きながら近づいてくる劇作家の芝野新作(演・渡辺篤)。冒頭に聞こえるチンドン屋の音。そして口笛ではフランス映画「巴里の屋根の下」の主題歌が吹かれる。犬の鳴き声に、トラックのクラクション。さっそく、音響が効果的に用いられている。松竹鎌田の撮影所長の城戸四郎
(1894〜1977)はトーキーの導入に積極的で、1931年に土橋武夫・土橋春夫兄弟が開発した土橋式トーキーを利用してこの「マダムと女房」を全編同時録音で撮影した。カットの変わり目で音が途切れないように、3台のカメラを同時に回して撮影したという。
 その文化住宅に女房(演・田中絹代)、長女(演・市村美津子)、赤ん坊の次女と越してきた芝野。仕事に取りかかろうとするが、屋根裏のネズミや赤ん坊の泣き声に悩まされる。隣家からジャズの演奏が聞こえてくるのでたまりかねて文句を言いに勇んで出かけていくと、洋装マダム(演・伊達里子)にメロメロになってしまう。「藤原義江のふるさと」が藤原義江の歌を聞かせるのが主目的であったように、ここでも帝国舘ジャズバンドの 演奏で伊達里子が歌う主題歌「スピード時代」などの楽曲も見どころの一つとなっている。
 女房の焼きもちで一時は険悪な雰囲気になった芝野夫婦だったが、最後は無事仲直り。ラストは親子4人で田舎道を散歩している。飛行機が頭上を大きな音を響かせ飛んでくる。隣家から聞こえるジャズ「私の青空(My Blue Heaven)」。「あれを聞くと昔のことを思い出すな…」と芝野は女房にこっそり耳打ちし、二人は笑いあう。
 もちろん、80年以上前の映画だけに音が途切れたり、雑音が混じったりするのは仕方がない。製作当初のタイトルは「隣の雑音」だったが、「なるほど、『隣の雑音』なら、どんなにノイズが入って、台詞や歌が満足に聞き取れなくても、言いわけがきくからね」と冷やかす者があって、「マダムと女房」に改題されたのだという
(*2)。しかし、音声は比較的クリアーで、聞き取れないようなこともない。日常の音声が見事に物語とマッチしている。そればかりか、ラストでは耳打ちして敢えて音を聞かさないという粋な演出すら見られる。

*2 「日本映画200」44ページ
 
 
 



「マダムと女房」(1930年松竹)
市村美津子、渡辺篤、田中絹代
(「週刊THE MOVIE52」54ページ)
 

 
 
 この「マダムと女房」の内容そのものは当時のありきたりのナンセンス喜劇ではあるが、和装の女房・田中絹代(1909〜77)の可憐さと、洋装のマダム・伊達里子(1910〜72)の妖艶さがコントラストとなり魅力を発揮している。歴史的な意義はさておき、肩の力を抜いて気楽に楽しめる一篇である。こうしたことから、この作品が当時の観客にとってセンセーショナルであったことは想像に難くない。キネマ旬報ベスト10では見事に1位を獲得した。

 
 
  トーキー世界を駆け抜ける  
 
 以上、トーキーの誕生についてアメリカ、日本を中心にいろいろ紹介してきた。その他の国でもやはりトーキーは瞬く間に普及していった。1929年1月のドイツ映画「奥様お手をどうぞ」がヨーロッパ最初のトーキーだったが、6月にはアルフレッド・ヒッチコックが「恐喝(ゆすり)」 をイギリス最初のトーキー映画として製作。10月にはフランス初のトーキー「三仮面」が製作されたが、1930年にルネ・クレールが製作した「巴里の屋根の下」が大ヒットし、本格的なトーキー時代に突入した。ソ連でも1931年に「人生案内」が製作されている。もっとも、1930年代中ごろまでは地方の映画館ではトーキーの設備が不十分であったため、どこの国でも映画はトーキー版とサイレント版の2バージョンを製作するような状況であった。活動弁士の伝統があった日本の場合、トーキーの普及が他国よりも遅かったということは「サウンド・オブ・サイレンス」でも述べた通り。
 1930年代、世界各国でトーキーならではの音を活かした作品が次々と生み出されていった。最初のトーキー「ジャズ・シンガー」からしてそうだったが、音楽を全面に押し出したミュージカル映画というジャンルが生まれた。コメディの世界でも、従来のスラプスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)から、台詞の面白さを重視したコメディが生まれ、マルクス兄弟らが人気を博した。「映画史探訪」では、これからそういった名作の数々を紹介していこうと思う。
  
 
 

(2015年7月11日)

 
   
(参考資料)
岡田晋「映画の世界史」1974年10月 美術出版社
D・J・ウェンデン/横川真顕訳「映画の誕生」1980年4月 公論社
NHK“ドキュメント昭和”取材班編「トーキーは世界をめざす/ドキュメント昭和4」1986年9月 角川書店
井上一馬「米国映画の大教科書(上)」1998年3月 新潮社

和田誠「お楽しみはこれからだ」1975年6月 文藝春秋

「wikipedia:トーキー」(https://ja.wikipedia.org/wiki/トーキー
 
 


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