第2章−サイレント黄金時代(33) | ||
元祖!クールジャパン〜和製アニメーション誕生〜 | ||
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今年2017年は、日本のアニメが誕生して100年目の節目の年である。アニメーションの製作において、日本はフランスやアメリカに大きく遅れを取っていたが、それから100年経ち今や世界に誇れるものとなった。なんでも1917(大正6)年から2017年1月までの100年間に日本で製作・発表されたアニメーションは作品数1万1,918、エピソード数15万9,463話にも上るという(*1)。2002年のアカデミー賞において、日本の「千と千尋の神隠し」(2001年スタジオジブリ)が長編アニメーション賞を受賞。2013年以降は「風立ちぬ」(2013年スタジオジブリ)、「かぐや姫の物語」(2013年スタジオジブリ)、「思い出のマーニー」(2014年スタジオジブリ)、「レッドタートル/ある島の物語」(2016年日/仏/ベルギー)と4年連続でノミネートされている。日本のアニメは質・量ともに世界有数のものである。 しかしながら、和製アニメ100周年という記念すべき年にも関わらず、初期の和製アニメーション作品についてはあまり関心が持たれていないように感じる。例えば2017年に開催された「東京アニメアワードフェスティバル2017」でも、「アニメ100周年記念プログラム」と銘打ちながら、「1963年に日本のテレビアニメーションは、『鉄腕アトム』という1本の作品から誕生しました。(*2)」としている。確かに、手塚治虫(1928〜89)の「鉄腕アトム」(1963〜66年虫プロダクション)によって日本のアニメーションは画期的な発展を遂げたのは紛れもない事実である。だが、その手塚治虫も「桃太郎/海の神兵」(1944年松竹動画研究所)という戦前の和製アニメーションに大きな影響を受けている。現在の和製アニメーションの隆盛について語るためには、その背景として和製アニメーションの誕生についても知らなければならないだろう。 幸いにして国立近代美術館フィルムセンター(NFC)が、「日本アニメーション映画クラシックス」として、所蔵する初期の和製アニメーションをネットで公開してくれている。この項を書くに際して大いに参考になった。 *1 「アニメNEXT100」(http://anime100.jp/index.html#) *2 「アニメーション大国の誕生〜アニメーションが“アニメ”になった時代」(http://animefestival.jp/screen/list/2017special41/) |
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◆アニメーション日本上陸 | ||
国産アニメーションの歴史は、海外から輸入されたことに始まる。これまで日本で最初に公開されたアニメーションはパテ社製作の「ニッパールの変形」という作品で、それは1909(明治42)年東京・浅草帝国館でのことと言われてきた(*3)。ところが、この「ニッパールの変形」という作品の詳細について永らく不明であった。2003年になって、1912年にオーストラリアとニュージーランドで「The Nipper's Tranformation(ニッパーの変形)」なる作品が公開されていることが判明した。それはフランスのエミール・コール(1857〜1931)が1911年にエクリプス社で製作した「Les Exploits de Feu Follet(鬼火の冒険)」という作品のことである。もし「ニッパールの変形」がその作品であるとすると、1909年アニメーション初上陸という説は成り立たなくなってしまう(*4)。 それでは、どの作品が日本に初めて上陸したアニメーションなのであろうか。1910年に吉澤商店が発行した映画リストの中に、「不思議のボールド」という作品があるのだが、これはJ・スチュアート・ブラックトン(1875〜1941)が製作した「愉快な百面相」(1906年米)のことであるように思われる。1907年8月8日に横田商会によって東京・八千代座で公開された映画の中にある「奇妙なボールト」という作品がこの「不思議のボールド」と同一であると見做す意見もあるが、確証はない(*5)。 1910(明治43)年から福宝堂が浅草・帝国館で「凸坊新画帖」というシリーズものを上映しているが、これはコールの「ファンタスマゴリア」(1908年仏)に始まる「ファントーシュ」シリーズであったと言われる。ちなみに「凸坊」というタイトルの由来は、当時人気のあった漫画家・北澤楽天(1876〜1955)の漫画「茶目と凸坊」の登場人物凸坊にちなんだものである。その後アニメーションはコール作品に限らず、「凸坊」や「茶目」のタイトルが冠されるようになる。 いろいろと異論はあるものの1910年前後に海外のアニメーションが相次いで日本に輸入されたのは間違いない。1917年に日本で初めてアニメーションを製作した製作者たちもこれらの作品を観て影響を受けたのだろう。 *3 「日本アニメ―ション映画史」8ページ *4 フレデリック・S・リッテン「日本の映画館で上映された最初の(海外)アニメーション映画について」(2013年9月「アニメーション研究」15巻1A)27〜29ページ *5 渡辺泰「日本で世界初のアニメが公開された可能性についての考察」(2001年7月「アニメーション研究」3巻1A)19〜23ページ |
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◆3人の日本のアニメーションの父 | ||
アニメーションの発明者が誰というのかははっきりしない。というのも、アニメーションというものは映画同様、複数の人によってほぼ同時期に生み出されたものであるからだ。和製アニメーションも同様で、1917年に3人の作家が相次いで作品を発表した。1917年1月に下川凹天(1892〜1973)が「芋川椋三 玄関番の巻」(1917年天活)を、5月に北山清太郎(1888〜1945)が「猿蟹合戦(猿と蟹)」(1917年日活)、6月に幸内純一(1886〜1970)が「塙凹内名刀之巻(なまくら刀)」(1917年小林商会)をそれぞれ発表したとされている。 3人が作品を発表したのは数ヶ月以内の違いでしかなく、かつそれぞれが独自の表現方法を用いていたため、3人をそれぞれ「日本のアニメーションの父」とするのが一般的である。しかしながら、これらの作品のうち現存しているのは2008年に再発見された幸内の「なまくら刀」のみであり、他の作品はまったく残っていない。下川、北山に至っては製作した作品が1本も現存しておらず、幸内も「なまくら刀」の他にもう1本あるだけである。初期の和製アニメーションについてこれまであまり顧みられることがなかったのは、作品を観ることができないという理由もあるだろう。 本稿では文献資料等を参照し、出来る限り3人の「日本のアニメーションの父」の業績を振り返っていきたい。 |
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◆下川凹天 | ||
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現在のところ日本で最初にアニメーション映画を発表したとされているのは下川凹天(1892〜1973)である。名前の読み方は「おうてん」というのが正しいが、「へこてん」とも読まれている。一般的には漫画分野では「へこてん」、アニメーション分野では「おうてん」とされることが多い。下川は漫画家・北澤楽天(1876〜1955)の弟子であったが、「弟子のくせに『おうてん(王天)』とはなにごとか」と冷やかされたため、読みを「へこてん」に換えたのだという説もある。1917(大正6)年当時、漫画雑誌上では「おうてん」という振り仮名が振られているため、少なくともアニメーション製作に携わっていた時点では「おうてん」と名乗っていたのは確実である。 下川は北澤楽天に弟子入りし漫画家デビュー。1916(大正5)年頃、天然色活動写真(天活)よりアニメーション映画製作を申し込まれたのがきっかけでアニメーション製作に携わるようになる。月給50円とその他に歩合付きという破格の条件であったという(*6)。 下川が初めて製作したアニメーションは「芋川椋三 玄関番の巻」で、1917年1月に公開されたと言われている。もっともこれには異論もある。というのも、「芋川椋三 玄関番の巻」という作品が上映された記録が当時の雑誌等で確認できないからである。一方、2作目とされる「凸凹新画帳 名案の失敗」は1917年2月上旬に上映されたという記録が残っていることから、こちらを第1作だとする説もある。当の下川は1934年に「第1回作品『芋川椋三玄関番の巻』他2本はキネマ倶楽部で封切りされました(*7)」と回想している。さらに、1917年の雑誌には「本年1月、天活がその第1回作品をキネマ倶楽部に上場(*8)」とあることから、「玄関番の巻」が第1作だと判断される。ところがドイツ・バイエルン州立図書館のフレデリック・S ・リッテン研究員(1964〜)の調査によると、「玄関番の巻」の公開は17年4月で、2月公開の「名案の失敗」の方が早かったということがわかったというのだ(*9)。また、 「活動写真雑誌」3月号によると、1月中の封切り作品として「▲滑稽『凸坊新画帖、芋助猪狩の巻』一巻(天活東京派撮影)欧米の所謂凸坊新画帖式のトリツク応用滑稽線画を研究して、我邦で最初の試みとして成功せるものか。(キネマ倶楽部)。」という記述があるという(*7)。下川の名前こそ記されていないが、最古の和製アニメーションは「凸坊新画帖 芋助猪狩の巻」という作品だったということになる。下川自身が「玄関番の巻」を第1作としている理由は、彼自身の記憶違いだとも考えられるし、一番最初に完成したのが「玄関番の巻」だった可能性もある。 その後下川のアニメーションは1917年4月28日に「茶目坊新画帳 蚤夫婦仕返しの巻」 が公開されている。リッテンの調査では「玄関番の巻」が公開されたのは4月だというから、「蚤夫婦仕返しの巻」は同じ作品なのだろうか? 当時は映画館によって同じ映画の題名を変えることは珍しくなかった。続いて5月中旬に「芋川椋三 宙返りの巻」、9月9日に「茶目坊主 魚釣の巻(芋川椋三 釣の巻)」を発表している。下川の製作した作品は5ないし6作ということになる。しかしながらこれらの作品はいずれもフィルムはおろか、スチール写真も現存しておらず、どのような内容であったのかはまったくわからない。ただ、本人が書き残しているところによると、黒板にチョークで描き、撮影が終わると少しずつ消しながら描いて撮影を繰り返すという方法と、背景画を3種類程度数千枚印刷しておいて背景画を部分的にホワイトで消して、消した部分に動画に相当する人物や動物を直接描くという方法であったそうだ(*10)。最初の和製アニメーションは、J・スチュアート・ブラックトンの「愉快な百面相」を彷彿させる作品だったのではないだろうか。「宙返りの巻」と「 魚釣の巻」との間だけ多少期間が開いているので、印刷背景に作画する手法が用いられたのは「魚釣の巻」だけなのかもしれない。 下川は自身の作品の出来栄えについて、「なにしろ総てが眼分量でブッつけて行るので歩いてる人間がピョンピョン兎みたいにとんだり此方で想像もつかない歩きっ振りをして反って可笑しくってお客に拍手されたり幼稚極まりないものでした(*6)」と語っている。しかし下川は、1年間天活に所属していただけでアニメーション製作からは手を引いてしまった。木製の暗箱を作って中に電灯をつけ、箱の上の部分を絵の大きさだけガラス張りにして電灯の光で絵が引き写しになるようにするという撮影法を用いていたというが、それが原因で目を傷めてしまったのが理由だという(*6)。下川は再び漫画執筆に戻り、戦後まで活躍。1973年、81歳で亡くなった。 *6 山口且訓、渡辺泰/プラネット編「日本アニメーション映画史」9ページ *7 渡辺泰、大徳哲雄、木村智哉 「国産商業アニメーション映画第1号に関する調査レポート」(http://anime100.jp/series.html) *8 津堅信之「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」(2002年「アニメーション研究」3巻2A)10〜11ページ *9 日本アニメ史:新説、「最古」は下川凹天の別作品」(https://web.archive.org/web/20130712072946/http://mainichi.jp/enta/news/20130708dde018040067000c.html) *10 津堅信之「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」(2002年「アニメーション研究」3巻2A)11ページ |
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◆北山清太郎 | ||
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北山清太郎(1888〜1945)は、大下藤次郎(1870〜1911)が主催する日本彩画会に入会し1911年その大阪支部を結成し、水彩画家としてスタートした。同年5月頃上京し、1912年日本洋画協会を設立している。 1916年、日本洋画協会での活動を停止していた北山は映画館通いをするうちに海外のアニメーションを見て強い興味を持ち、翌1917年日本活動写真株式会社(日活)に自ら製作を持ちかけたという。 試行錯誤を繰り返しながらも、北山は「猿蟹合戦」を完成させ、1917年5月に公開された。そして翌1918年には「夢の自転車」「花咲爺」「舌切雀」など10作品、1919年には「浦島太郎」「桃太郎」「太郎の番兵」など12作品を精力的に発表していった。北山は30作品以上を製作しており、3人の日本アニメーションの父の中ではもっとも多作である。彼は「国の誉」「乃木将軍」(共に1918年)で実写の中にアニメーションを挿入するという当時としては画期的な手法をも生み出している。さらに1922年には、日本最初のアニメーション製作専門スタジオ「北山映画製作所」を設立。1923年の関東大震災でスタジオが壊滅するが、その後は拠点を大阪に移し1937年までアニメーションを製作した。山本早苗(山本善次郎、戸田早苗/1989〜1981)、金井喜一郎(金井木一郎/1901〜61)、北村白山らのアニメーション作家が北山映画撮影所から巣立っている。 北山のアニメーションは“稿画式”と呼ばれる手法で作られた。これは、背景から人物までをすべて1枚の絵に描くもので、いわゆる“ペーパー・アニメーション”である。ウィンザー・マッケイの「恐竜ガーティ」(1914年米)など、セルが発明されるまで主流だった手法である。後には切抜式(切り絵アニメーション)の手法も用いている。 |
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精力的にアニメーションを製作した北山であったが、残念ながら彼の作品は現存していない(*11)。これまで2007年に幸内純一の「なまくら刀」と同時に発見された浦島太郎を描いたフィルムが彼の「浦島太郎」(1918年日活)であると考えられていた。それは2分程のフィルムで、浦島太郎と思しき少年が小舟で釣りに出ると、船が転覆し海の底へ沈んでしまう。亀に助けられた浦島太郎は乙姫のいる竜宮城へ連れてこられる。地上に戻った浦島太郎はお爺さんになっていた…。「浦島太郎」の物語とは微妙に違う内容を、切り絵アニメで表現している。ところが2017年になって、雑誌「幼年時代」1918年3月号に北山の「浦島太郎」のスチール18枚が載っていることがわかったのだが、そのいずれもが現存の「浦島太郎」とは違うものであった。つまり現存の「浦島太郎」は残念ながら北山の作品ではなかったのである(*12)。現存の「浦島太郎」がどのような作品なのかわからないため、日本アニメーション映画クラシックスでも、現在では「浦島太郎(仮)」となっている(*13)。 ただ、彼の門下である山本早苗が1924年に北山映画製作所で製作した「教育お伽漫画 兎と亀」が現存している。切り絵アニメーションの手法で作成され、シンプルな絵だがテンポよく、楽しめる作品となっている。童謡「兎と亀」のミュージック・クリップともいうべき作品で、兎と亀が口から音符を吐き出して歌うなど、トーキーを意識しているかのようである。北山の作品には「浦島太郎」を始め、お伽話に材をとったものが多いから、あるいは彼の作品もこういった雰囲気だったのかもしれない。 *11 「太郎の番兵 潜水艇の巻」(1918年日活)の一部が現存しているという説もある。(津堅信之「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」13ページ) *12 「北山清太郎制作『浦島太郎』の 新資料発見について」(http://www.momat.go.jp/fc/wp-content/uploads/sites/5/2017/08/NFC132_p12.pdf) *13 「日本アニメーション映画クラシックス:浦島太郎(仮)[デジタル復元版][白黒ポジ染色版]」(http://animation.filmarchives.jp/works/view/72126) なお「wikipedia: 浦島太郎」に載っている「浦島太郎」の映像は北山作品ではなく、宮下万蔵製作の1931年日活作品である。 |
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◆幸内純一 | ||
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最後に幸内純一(1886〜1970)である。彼の名前は「こううち・じゅんいち」と読むが、名前は「すみかず」だという説もある。というのも、彼が1923年に立ち上げたスタジオが「スミカズ映画創作社」というからである。 1905(明治38)年、水彩画家の三宅克己(1874〜1954)に師事し、翌年、太平洋画会の洋画研究所に入る。1907年、北澤楽天の主催する「東京パック」に入り政治漫画家としても出発した。同じ北澤門下ということで、下川凹天とは兄弟弟子ということになる。1916年、幸内は小林商会に依頼されアニメーション製作に乗り出す。小林商会は、下川がアニメーションを製作していた天活から1916年10月に分離独立したばかりの会社であった。 幸内の第1作「塙凹内 名刀の巻」は1917年6月に公開された。この作品は別名「なまくら刀」。幸いにして今日ほぼ完全な形で現存している。2007年7月、映像文化史家の松本夏樹(1952〜)が大阪・四天王寺の骨董市で玩具映写機と共に可燃性染色プリントのフィルムを発見。幸運にもメイン・タイトルが残っていたため「なまくら刀」であることが確認された。この時発見されたフィルムは約2分間の後半部分のものであった。その後2014年に前半部分を含むフィルムが発見され、ほぼ完全な形で復元することができている。 「なまくら刀」の内容は次の通り。メイン・タイトルに続いて、主人公の侍が刀を弄繰り回している。「なまくらや」なる刀剣屋で金貨4枚で刀を買った侍。刀を鞘に納めるのに悪戦苦闘するなど、剣の腕前はどうも怪しい。川岸を歩く侍は、刀を抜き試し斬りをしたいと考えている。按摩の後ろから近づくが、打ち負かされてしまう。次いで飛脚に斬りかかるも、叩きのめされ踏みつけられ侍は思わず「人殺し〜」。刀もすっかり曲がってしまい、侍は刀を投げ捨てる…。 「なまくら刀」は、切り抜き式いわゆる切り絵アニメーションとして製作されている。これは人物などを切り抜いて背景画の上に置き、切り抜き画を少しずつ変えながら撮影するという方法である。「なまくら刀」は、主人公の侍が豊かな表情を見せるなど、かなり完成度が高い。今日の和製アニメーションの隆盛の萌芽が早くも見て取れるといっても過言ではない。下川や北山の作品が残っていないので断言は出来ないのだが、当時の雑誌には「殊に小林商会の『ためし斬り』は出色の出来栄えで、天活日活のものに比して一段の手際である。(*14)」とあるように、3人の中でも最も優れていたようだ。実際、この後の日本のアニメーションをリードしていった村田安司(1896〜1966)や木村白山も切り絵アニメーションを駆使し、ペーパー・アニメーションで出発した北山も後になって切り絵アニメーションを取り入れている。おそらく幸内は当時の海外のアニメーションを研究し尽くしていたのだろう。 *14 大城&吹u下川凹天研究(2)」(1995年「沖縄キリスト教短期大学紀要」24)65ページ |
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幸内は「なまくら刀」を発表した1917年には「茶目坊 空気銃の巻」、「塙凹内 かっぱまつり」の2作品を発表するが、小林商会の経営難でいったんアニメーション製作をやめてしまう。その後1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、「人気の焦点に立てる後藤新平」(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに10作品を発表した。 「人気の焦点に立てる後藤新平」は、当時の東京市長・後藤新平(1857〜1929)を主人公とした伝記映画であったようだ。後藤は晩年「政治の倫理化」を唱え、1926年には同名の著書も出している。その「政治の倫理化」をアニメーション映画化した「映画演説 政治の倫理化 後藤新平」(1926年スミカズ映画創作社)が幸いなことに現存している。「映画演説」とタイトルにあるように、後藤の主張が作品の中心となっている。サイレント映画であるため、演説内容は文字によって示されるのだが、その大半が絵ではなく文字だというのが、今日のアニメと比べると異質に思える。文字の横に矢印のマークが現れ、読むべきところを示しているのだが、これが現在のパソコンのカーソルそっくりだというのも面白い。後藤新平の絵が画面に描かれると、それが実写の後藤新平となる。アニメーションの後藤新平が「政治の倫理化」と書かれたものを掲げ、そこから出る雷で、「選挙ブローカー」や「投票買収」といった擬人化された政治問題をやっつけていく…。幸内は晩年には新聞社で風刺漫画を描いていたというが、あるいはこういった風刺を持ち味としていたのかもしれない。 幸内は1930年の「ちょんぎれ蛇」を最後にアニメーションから離れている。彼の弟子には、後に千代紙アニメーションで成功する大藤信郎(1900〜61)がいる。幸内は1970年に84歳で亡くなった。 |
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◆最古のアニメーション?「活動写真」 | ||
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さてここまで、1917年に日本最古のアニメーションを製作した3人の作家について述べてきたのだが、実は日本のアニメーション製作はそれよりも10年遡るという説がある。 それは、映画史研究家の松本夏樹が2005年1月に発掘した、いわゆる「活動写真」と呼ばれる作品である。松本が京都の古物商から映写機3台とフィルム11本を購入。その中に1本の和製アニメーションのフィルムが含まれていたのである。 このフィルムは、赤と黒のインクを用い、セルロイドのフィルムに型紙を使って絵を印刷する合羽版と呼ばれる手法で製作されている。50コマで、上映時間はわずか3秒。セーラー服を着た少年が、背後の壁に「活動写真」との文字を書き、振り返って帽子を取るというだけの内容である。繰り返し上映するために元々はループ状につないであった。 「活動写真」のフィルムと一緒に見つかった映写機は1900年製で、同時に1902年のドイツ製アニメーション「酒呑み」のフィルムも見つかっている。また、このようなループ状アニメーションは明治20年代後半から販売が始まり、大正中期以降に映画館での上映済みや再編集のフィルムが販売されるようになると販売されなくなったそうである。したがって、「活動写真」は明治末期に製作された作品だと推測される(*15)。 フレデリック・S・リッテンは、製作は1905年以降1912年で、1907年頃ではないかと推測している(*16)。前項で紹介した欧米のアニメーションでいえば、J・スチュアート・ブラックトン(1875〜1941)の「愉快な百面相」(1906年米)やエミール・コール(1857〜1931)の「ファンタスマゴリア」(1908年仏)とほぼ同じ時代ということになり、世界最古のアニメーションである可能性すらある。少なくとも、この「活動写真」の作者は外国のアニメーションを知らずに独自にその技術を開発したということだ。 ただ、この「活動写真」を果たしてアニメーション“映画”と見做していいのかどうか多少の疑問が残らないでもない。1895年にフランスのリュミエール兄弟が映画を発明したと見なされているのは、それが客の前で入場料を取って上映したからである。「活動写真」は家庭内で楽しむという類のもので、興行という形を取られたものではなかったようだ。少なくとも、製作されてから100年もの間、その存在は忘れられていた。一方、下川、北山、幸内の3人の作品は、映画館で上映され、多かれ少なかれ後世のアニメーションに影響を与えているのである。 「活動写真」の詳細が今後明らかになろうとも、1917年こそが日本のアニメーション産業の始まりであることは揺るがない。 *15 松本夏樹「映画渡来前後の家庭用映像機器/幻燈・アニメーション・玩具映画」(岩本憲児編「日本映画の誕生」所収)115〜117ページ *16 Frederick S. Litten「Japanese color animation from ca. 1907 to 1945」 15ページ |
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◆パイオニアの遺産 | ||
以上のように、ちょうど今から100年前で日本において試みられたアニメーション製作についていろいろと見てきた。ひょっとしたら世界最古かもしれない「活動写真」を引き合いに出さなくとも、現在残されている「なまくら刀」を見る限り、そのレベルは相当高かったことがわかる。3人のパイオニア達の切磋琢磨の賜なのかもしれない。 しかし、3人のパイオニア達はその後まもなくしてアニメーション製作から手を引いてしまう。下川凹天はわずか1年でアニメーション製作をやめている。幸内純一は1930年までアニメーションを製作したが、実質的には8年間しかアニメ―ションを作っていない。北山清太郎だけは1937年まで20年にも渡ってアニメーション製作に携わったが、最後の10年間はニュース映画や実写の教育映画が主で、アニメーションは少なかったという。 だが、彼らがアニメーション界に残したものは計り知れないほど大きい。その1つが後進の育成であった。唯一、下川だけは後進を育てていないが、これは彼の製作スタイルが撮影スタッフと2人でこじんまりと行うものであったためである。一方、幸内が雑誌に掲載した映画論を読んだ大藤信郎は1924年に彼に弟子入りしている。大藤は戦後になって「くじら」(1953年)でカンヌ国際映画祭短編部門2位。「幽霊船」(1956年)でベネチア国際記録映画祭特別奨励賞を受賞するなど国際的に高い評価を獲得。現在毎日映画コンクールにはアニメーションを表彰する大藤信郎賞が設けられている。北山も1930年に「線映画の作り方」を発表し、自身の技術を積極的に残そうとした。そして彼の北山映画製作所からは山本早苗、金井喜一郎らを輩出している。中でも山本は、戦後に東映動画(現在の東映アニメーション)設立に関わるなど、戦後の和製アニメーションの隆盛に大きな功績があった。 大正末から昭和にかけて和製アニメーションの製作はますます盛んになっていくが、その中でもめざましい活躍を見せたのはパイオニアの直弟子に当たる山本早苗と大藤信郎であった。さらに、山本の弟子の村田安司が1920年代末から1930年代にかけて多くの作品を発表した。和製アニメーションのパイオニア達の思いは紛れもなく現在の“アニメ”にまで受け継がれてきているのである。 |
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(2017年12月22日) |
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(参考資料) 山口且訓、渡辺泰/プラネット編「日本アニメーション映画史」1977年 有文社 大城&吹u下川凹天研究(1)〜(3)」(1994〜97年「沖縄キリスト教短期大学紀要」23〜26) 渡辺泰「日本で世界初のアニメが公開された可能性についての考察」(2001年「アニメーション研究」3巻1A) 津堅信之「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」(2002年「アニメーション研究」3巻2A) 松本夏樹、津堅信之「国産最古と考えられるアニメーションフィルムの発見について」(2006年「映像学」) 松本夏樹「映画渡来前後の家庭用映像機器/幻燈・アニメーション・玩具映画」(岩本憲児編「日本映画の誕生」所収)2011年 森話社 フレデリック・S・リッテン「日本の映画館で上映された最初の(海外)アニメーション映画について」(2013年「アニメーション研究」15巻1A) Frederick S. Litten「Japanese color animation from ca. 1907 to 1945」 (http://litten.de/fulltext/color.pdf) 渡辺泰「北山清太郎制作『浦島太郎』の 新資料発見について」(http://www.momat.go.jp/fc/wp-content/uploads/sites/5/2017/08/NFC132_p12.pdf) 渡辺泰、大徳哲雄、木村智哉 「国産商業アニメーション映画第1号に関する調査レポート」(http://anime100.jp/series.html) |
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