第2章−サイレント黄金時代(16)
超現実世界への招待
〜ダリとブニュエル〜



ブニュエル+ダリ「アンダルシアの犬」(1928年仏)
(「ヨーロッパ映画200」 59ページ)
 


 シュルレアリスム(超現実主義)の芸術家と言って誰が思い浮かぶであろうか。僕の場合、真っ先にスペイン出身のサルバドール・ダリ(1904〜89)を思い出す。中学時代、僕が最も気に入っていた芸術家が、このダリだった。彼の作品は素人目にも面白い。ありもしないはずのものが、ありもしない場所に存在している。例えば「記憶の固執」(1931年)という作品。ぐにゃりと溶けて柔らかくなった時計が木の枝にかけられていたり、無数の蟻が蠢いている。僕はすぐに彼のそんな芸術をシュルレアリスム(超現実主義)と呼ぶということを知った。

 ダリの場合、作品の斬新さもさることながら、その奇行によってよく知られている。まず思い出されるのが先を細長く伸ばした髭。一部には“ダリ髭”とも呼ばれる例の髭である(写真下)。どうやったら、あんな形に伸ばせるのだろうか。彼の伝記映画「ダリ/天才日記」(1990年西/伊)にも、彼の奇行はいろいろと紹介されていた。頭にフランスパンを乗せるといういでたちでアメリカに上陸したり、潜水服で講演して危うく窒息しかけたり…。
 余談だが、キャンデーの「チュッパチャップス」のロゴをデザインしたのがダリだということを、先日テレビ番組「トリビアの泉」で知った。



サルバドール・ダリ
(「週刊グレート・アーティスト10/ダリ」 3ページ)
 


 そんなダリが製作した映画であれば、常人には到底思いもつかないような奇妙な作品になっているであろうことは容易に想像がつく。そして、ダリの映画製作には、ルイス・ブニュエル(1900〜83)の存在を欠かすことはできない。
 1921年、美術学校進学のためにマドリードに出たダリは、「学生館」という下宿に入った。そこで出合ったのが4歳年上のブニュエルであった。ダリは後にこのブニュエルと協力して映画を製作することになる。当時「学生館」には後の大詩人であるフェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898〜1936)も在籍しており、3人は友好を深めている。

 ブニュエルは、1925年にパリへ出てジャン・エプスタン(1897〜1953/「芸術映画の都」参照)の助手となった。エプスタンの代表作「アッシャー家の末裔」(1928年仏)にもセカンド助監督として参加していたとのことだが、エプスタンと衝突した事が原因でスタッフから外されてしまった。その原因というのは、巨匠アベル・ガンス(1889〜1981)を批判した事だった
(*1)。確かに、ガンスとブニュエルの作風というのはまったく異なっている。「鉄路の白薔薇」(1922年仏)や「ナポレオン」(1927年仏)で壮大なる映像絵巻を堂々と描き上げたガンスに対し、当時のブニュエルの作品はあまりにも観念的すぎる。まるで叙事詩と抒情詩ほどに違う。ブニュエルは後に自伝で「『ナポレオン』には相当感銘をうけた」(*2)とも語っているのだが、アド・キルー(1923〜85)著「ブニュエル/現代のシネマ3」に収録された1927年に彼が書いた「ナポレオン」の批評では「こんなものは映画ではない」と まで述べている。そして彼は「もっともとるに足りないアメリカ映画でさえ、素朴な天衣無縫さ、フォトジェニックなまるごとの魅力、絶対的に映画的なリズムをはらんでいないことはない。」とアメリカ映画を絶賛しているのだ。しかし、ブニュエルがそのすぐ後に自ら撮った映画が果たしてアメリカ映画的なものであったと言えるのかどうか。少々首を傾げざるを得ない。

*1 ルイス・ブニュエル/矢島翠訳「映画、わが自由の幻想」 155〜156ページ
*2 同書 156ページ



「アンダルシアの犬」(1928年仏)
有名な剃刀で目を切る場面
(「映画100年STORYまるかじり/フランス篇」 25ページ)
 


 さて、ダリとブニュエルの映画製作について見ていこう。彼らの製作した「アンダルシアの犬」(1928年仏)は、二人にとって初めての映画であった。製作のきっかけは、二人がお互いに見た夢について話をしたことにはじまる。ブニュエルの見た夢と言うのは、細い横雲が月をよぎり、かみそりが目を切り裂くと言うもの。一方のダリの夢は手のひらに蟻が群がっているものであった。「そこを出発にして、二人で映画をつくったらどうだい?」
(*2)と提案したのはダリの方であった。二人は、6日間かけてシナリオを完成させると、その後ブニュエルが15日間かけて映画を作り上げた。
 我々が夜見る夢というのは、それだけでも理屈や常識では理解できないようなものを多く含んでいるが、二人は出し合ったアイディアの中からさらに合理性や説明可能なものを出来る限り排除していったという。そういうわけであるから、完成した映画も到底我々には理解できるようなものではなくなっていた。だいいち、「アンダルシアの犬」と言いながらも、映画はアンダルシア地方とも犬ともまったく関係がない。

 「アンダルシアの犬」は若い女性が瞳を剃刀で切られるというショッキングな場面(写真上)で幕を開ける。そして、切り裂かれた目玉からは水晶体がどろりと流れ出す…。ブニュエルの夢に基づくこの場面、何度観ても正視に堪えない。さぞかし当時の観客の度肝を抜いたであろう。僕はこの映画を最初ビデオで観たのだが、その後何度か前衛映画の特集上映で観る機会があった。このシーンではきっとどよめきが起きるに違いないと、密かに期待して待っていた。ところが、まったくと言っていいほど反応がない。どうやら、こうした上映会に集まるような人は、この有名なシーンのことなぞ当然承知であったようである。それにしても、このシーンはどうやって撮影したのだろうか。まさか本当に目玉を切ってしまったわけではあるまい。よく見ると目玉がアップになる瞬間に、最初の女優と入れ替わっていることがわかるのだが…。ずっと疑問に思っていた。ブニュエルによれば、実際に切られたのは雌の子牛の目玉であったそうである。脱毛してメーキャップを施し、それを切ったのだ
(*3)。まさか生きた子牛ではあるまいが、それにしてもよくもまあこんな場面を撮ろうなんて思いついたものである。

*2 ルイス・ブニュエル/矢島翠訳「映画、わが自由の幻想」 177ページ
*3 トマス・ペレス・トレント、ホセ・デ・コリーナ/岩崎清訳「ルイス・ブニュエル公開禁止令」 35ページ
 



「アンダルシアの犬」(1929年仏)
掌を食い破る蟻
(「ダリ/岩波 世界の美術」86ページ)
 


 一方、ダリの夢のほうは、主人公の掌を食い破って蟻が出てくる場面(写真上)となった。ダリの作品には、しばしば蟻がモチーフとしてよく見られる。「記憶の固執」しかり。ひょっとしたらダリの幼少の頃の体験に基づいているのではないかと思っていたのだが、案の定彼の自伝にそれらしい記述を見つけた。5歳の頃、彼は従兄から蝙蝠をもらう。だが、翌朝その蝙蝠は生きたまま蟻の群れにたかられて食われてしまっていた
(*4)。また、7、8歳の頃には水浴びをしている赤ん坊の裸の尻に蟻の大群が群がっているのを目撃している(*5)

*4 サルバドール・ダリ/足立康訳/滝口修造監修「わが秘められた生涯」 23ページ
*5 同書 49ページ
    ただし、ダリ自身これは自分の中で作り上げた「偽記憶」ではないかとも述べている。
 



「アンダルシアの犬」(1929年仏)
冒頭に出演するルイス・ブニュエル
(「パリ1920年代」 57ページ)
 


 この映画にはブニュエルとダリも姿を見せている。冒頭のシーンで、煙草をくわえ剃刀を研いでいるのがブニュエル(写真上)。一方のダリは主人公(ピエール・バチェフ)が引っ張る紐につながれた2人の神学校の修道士の一人を演じている。修道士の後ろには2台のグランドピアノがつながれ、それぞれの上には腐敗しかけたロバの死骸が乗っている(写真下)。主人公は、それらのものを引きずりながら恋人(シモーヌ・マルイユ)を追いかけるのだが、当然のようになかなか彼女には到達しない。この腐敗したロバを作ったのはダリだそうだが、彼はロバを殺して目玉をえぐり出し、白い歯が剥き出しに見えるように口を切り裂いて加工した
(*6)
 その他のイメージに関してはどれがダリで、どれがブニュエルのものかははっきりしない。ただ、落ちている手首をもてあそぶ少女(ファノ・メザン)というのは、後にブニュエルの「皆殺しの天使」(1962年墨)に切られた手首が這う幻覚シーンのあることを考えると、ブニュエルのものかとも思える。だが、ダリの絵画にも「切られた手」(1927〜28年頃)というのがあり、確かなことは言えない。
 他にもショッキングな映像はいろいろ登場するのだが、シュルレアリスム映画をいちいち言葉で説明することほど無意味なことはないような気がするので、ここらでやめておこう。もっと詳しく知りたい方はアド・キルーの「ブニュエル/現代のシネマ3」にシナリオが掲載されているのでそちらを参照して欲しい。いや、それよりも映画そのものを観るほうがはるかに手っ取り早いだろう。「アンダルシアの犬」は何種類かのビデオが発売されているので、ぜひ観てみることをお薦めする。もし頭が混乱し、おかしくなったとしても当方一切責任は持ちませぬ。

*6 サルバドール・ダリ/足立康訳/滝口修造監修「わが秘められた生涯」 237ページ
 



「アンダルシアの犬」(1929年仏)
修道士のうち右の方がダリであろう
(「ダダとシュルレアリスム」 285ページ)
 


 「アンダルシアの犬」は大成功に終わり、これに気を良くしたブニュエルとダリの二人は、続いて「黄金時代」(1930年仏)を製作した。「アンダルシアの犬」が17分の短編であったのに対し、「黄金時代」は60分もの中篇。トーキーとして製作された。もちろんストーリーらしいストーリーはない。
 「黄金時代」もまた、斬新で画期的な映像に満ちている。例えば寝室のベッドの上に牡牛が寝ていたり、パーティー会場を飲んだくれの操る馬車が通っていったりする。だが、映像そのもののショッキングという点では「アンダルシアの犬」には及ばないように思える。しかし、この作品は前作以上のスキャンダルを巻き起こした。それは、キリスト教を冒涜しているとの理由であった。クリスチャンではない僕にはどうも今ひとつピンと来ないのではあるが、以下のシーンがそれに該当するのであろう。後半の、パーティ会場に乗りつけた乗客がリムジンから降りるシーン。ドアを開けると聖体顕示台がある。従者はそれを取り出して、主人たちの降車のために地べたに置く。また、主人公(ガストン・モド)は、2階の寝室の窓から枕を引き裂いた羽毛や燃えてるもみの木、キリンの剥製、そして大司教までも投げ落とす。さらに最後のシークエンスでは、マルキ・ド・サド(1740〜1814)の小説「ソドム百二十日」(1785年完成)の引用に続いて、中世風の城が現れる。この場面はそれまでのストーリー(?)ともまったく関係がない。城の中から現れる4人の男たちはサドの小説の主人公たちであるのだが、その中の一人ブランジー侯爵(リヨネル・サラン)は明らかにイエス・キリストを髣髴させる。その偽キリストは傷ついた少女を城の中へ連れ込む。中からは少女の悲鳴が聞こえてくる…。
 



ブニュエル+ダリ「黄金時代」(1930年仏)
(「ヨーロッパ映画200」 79ページ)
 


 クレジットによれば「黄金時代」はブニュエルとダリの共同脚本ということになっているが、実質的にはブニュエル単独の作品と見なしてよいようだ。ダリを嫌い、彼を「金目になる技倆(メチエ)向きの浮薄さを示していた」
(*7)とまでこき下ろすアド・キルーにいたっては「(ダリの)名前が依然としてタイトルにあるとすれば、それはブニュエルの《やさしさ》のためだ」(*8)と言い切っている。ダリもまた、ブニュエルが「わたし(注・ダリ)の協力を求めることなく(「黄金時代」は)完成の運びとなった」(*9)と語り、関与をほとんど否定する。完成した映画に対しても「私はひどく失望した。それは私の着想の単なる戯画化でしかなったのだ(*10)と述べる。一方のブニュエルによれば、ダリは「いくつかのアイディアを手紙に書いて(ブニュエルに)寄越し(略)その中のひとつは、映画の中に入っている」(*11)そうである。そのシーンとは、頭に石を乗せた男が、同じように頭に石を乗せた彫像のすぐ脇を通るシーンであった。さらにブニュエルによれば映画を観たダリはとても好きになって、こういった。『アメリカ映画だといってもおかしくないぞ』」(*12)とあるこの辺り当事者二人の食い違いが見えて面白い。実際のところ、ダリがどれだけこの作品に関与したのかはわからないが、当時のブニュエルに大きな影響を与えていたのは確かなことである。したがって間接的には多大な貢献があったと見なしても差し支えないであろう。

 いずれにせよ確かなのは、二人がこの作品を最後に別れてしまい、以後はそれぞれの道を歩むことになるということである。その原因として、ブニュエルは、ダリが夫も子もある女性ガラ・エリュアール(1894頃〜1982)に溺れてしまったことをあげている。その結果、「黄金時代」の製作に際し「二人の意見は何から何まで食い違った」
(*13)。ガラは後にダリと再婚。彼女はダリにとっての妻、モデルであっただけでなく、インスピレーションの源であった。その証拠に、1982年にガラが亡くなるとダリはその創作活動を止めてしまう。

*7 アド・キルー/種村季弘訳「ブニュエル」 19ページ
*8 同上 23ページ
*9 サルバドール・ダリ/足立康訳/滝口修造監修「わが秘められた生涯」 307ページ
*10 同上 313ページ
*11〜*13 ルイス・ブニュエル/矢島翠訳「映画、わが自由の幻想」 196ページ
 



「黄金時代」(1930年仏)
(「ダリ/世界の美術」 99ページ)
 


 「黄金時代」を最後に、ブニュエルは映画の道、ダリは絵画の道でそれぞれ才能を発揮していくことになる。故国スペインや、亡命先のメキシコで積極的に映画を発表したブニュエルについては、またこの後にも取り上げる機会があるであろう。また、ダリの絵画における業績も目にする機会は多いかと思われるので、ここでは彼の映画製作を見ていくことにしたい。

 ダリはその後も積極的に映画製作に関わっている。画家であったから、美術デザインを担当することが多かったのは当然のこと。その代表的なものはアルフレッド・ヒッチコック(1899〜1980)が監督した「白い恐怖」(1945年米)。記憶を失った主人公(グレゴリ―・ペック)が見る夢のシーンの美術セットを担当している。巨大な目玉が幾つもついたカーテン。それを切り裂く巨大な鋏。女の脚のついたテーブル。斜めになった屋上の上に落とされた歪んだ車輪などなど。ヒッチコックによれば、ダリはとても映像化できそうにないアイディアを次から次に考え出したという。例えば、彫像にひびが入り、その亀裂から無数の蟻が這い出し、イングリット・バーグマン(1915〜1982)の顔を黒く覆ってしまうというシーンであるとか
(*14)。もちろん、そうでなくとも十分に鮮烈な印象を残すのだが…。このヒッチコックの発言は、ダリの企画した映画で未完成に終わったものが多いこととも関係しているようだ。当時は彼の発想に映画の技術がとても追いつかなかったのだろう。
 また、ヴィンセント・ミネリ(1903〜86)が監督した「花嫁の父」(1950年米)の美術にも参加している。彼が担当したのは、娘(エリザベス・テイラー)の結婚式を翌日に控えて不安な父親(スペンサー・トレイシー)が見る悪夢のシークエンス。教会の通路を進もうとするが、床に足を取られ、服も剥ぎ取られなかなか前に進めない。しまいには床はトランポリンのように弾み彼を翻弄する。
 一説によれば「ミクロの決死圏」(1966年米)においても、ダリは美術を担当しているという。ミクロサイズに縮小された人々が入っていく体内の美術。血漿の中を赤や黄色の血球が漂い、神経細胞が森のように張り巡らされ、幻想的な小宇宙を思わせる。だが、残念なことにこの作品をダリが手がけたという確かな資料には出会えなかった。当然映画のクレジットにも名前は出てこない。
 1975年には「モンゴル奥地への旅/レーモン・ルーセルへのオマージュ」を製作しているが、残念なことに僕は観ていない。

*14 アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー/山田宏一、蓮見重彦訳「ヒッチコック映画術」 155ページ
 



「白い恐怖」(1945年米)
夢のシークエンス
(「ヒッチコック」 159ページ)
 


 1936年、ダリはマルクス兄弟の次男ハーポ(1888〜1964)と知り合い親交を結んでいる。映画の中で一言も喋らず、オーバーの中から次々と物を取り出すハーポのナンセンスなギャグは、なるほどシュルレアリスティックと言える。ハーポはハープの演奏を得意としたが、ダリはそんな彼に有刺鉄線を巻きつけたハープを贈った。そのハープに腰掛けたハーポの姿を描いた肖像画が残されている(写真下)。そして1937年、兄弟のために「馬の背のサラダに乗るキリン」のシナリオを執筆した。ダリ自らが監督する予定であったが、結局製作はされなかった。その映画には「オーケストラ全員をイカダに乗せて海に浮かべた」
(*15)シーンがあったようだが、このエピソードは後に「マルクス兄弟珍サーカス」(1939年米)に活かされている。貧乏サーカス団を売り出そうとするマルクス兄弟が、晩餐会で演奏するオーケストラ一行の乗り込む船の艫綱を切ってしまい。オーケストラは音楽を演奏したまま沖へ流されてしまう。そうしておいて、代わりに晩餐会の出し物としてサーカスを披露するのである。

*15 「週刊グレート・アーティスト10/ダリ」 9ページ
 



「ハーポ・マルクスの肖像」(1937年)
(「ダリ全集 第2巻」 210ページ)
 


 1946年にはウォルト・ディズニー(1901〜66)と協力してアニメ映画「デスティノ(Destino)」の製作を企画する。この作品は6分程の長さで、「ファンタジア」風の長編アニメ
(*16)の一挿話となる予定であった。一人の若い娘と、時の神クロノスが登場し、両者の関係はバレエに通じる。二人の間に生まれた怪物たちは原初の水の中に消えていく、というのがそのストーリーであった(*17)。ダリがこの映画のために描いたデッサンが残っている。オブジェと化した人間、野球選手や踊る人物、潜水夫の格好をした画家や、川に変化する手(写真下)などが描かれている。ダリとディズニー、この取り合わせがどのようなものを生み出すのか、まったく想像がつかないが、さぞかし幻想的な映像になったことであろう。もっとも、「ダンボ」(1941年米)で酔っ払ったダンボが見るピンクの象の幻覚のようなキュートなものではなく、きっとグロテスクな、悪夢を思わせるイメージであっただろうが。
 それにしても、表現に限界のある実写と異なり、イメージを自由に飛躍させることが可能なアニメは、シュルレアリスムの表現には適していると思われるのだが、実際に製作された作品はほとんどない。やはり、手間や時間の問題があるのだろう。もっとも、具体的な映像を拒否するダダイスムの場合は、さほど手間がかからないせいか、リヒターやフィッシンガーによって多くの作品が作られている(前項参照)。それだけに、余計にこの「デスティノ」への期待は高まるのだが、残念なことに財政的な問題から未完成に終わってしまう。ディズニーは1957年にもダリと「ドン・キホーテ」の映画化の企画を進めるが、これも結局中止となった。
 ところが、今年(2003年)に入って、この「デスティノ」が57年ぶりに完成したというニュースが入ったのである
(*18)。ディズニーの甥ロイ・エドワード・ディズニー(1930〜)と、当時ダリのアシスタントを努めた95歳のジョン・ヘンチ(1908〜2004)が、 当時作られた18秒のテスト映像とダリのデッサンを元にCG処理を施し、6分半の作品として仕上げた。すでにメルボルン国際映画祭の最優秀短編賞と、ロードアイランド国際映画祭最優秀アニメ賞を受賞。早く日本でも観られることを願うばかりである(*19)

*16 「メイク・マイン・ミュージック」(1946年米)もしくは「メロディー・タイム」(1948年米)のことであろう。
*17 ロベール・デシャルヌ/日高達太郎、巌谷国士訳「ダリ全集 第3巻」 289ページ
*18 Wired News (http://www.wired.com/news/digiwood/0,1412,60385,00.html)
*19 2004年のアカデミー賞においても短編アニメ賞にノミネートされたが、惜しくも受賞は逃している。受賞したのはアダム・エリオット監督の「ハーヴィ・クランペット(Havie Krumpet)」(2003年豪)。
 



「デスティノ」のためのデッサン
(「ダリ全集 第3巻」 311ページ)
 


 別々の道を歩んでいくダリとブニュエルであったが、その後の二人の作品にはお互いに影響の跡が見られるそうである
(*20)
 ダリは絵画にイエス・キリストを数多く描いているが、ブニュエルも「銀河」(1969年仏/伊)などでイエスを繰り返し映画に登場させた。「ナサリン」(1958年西)の主人公ナサリン(フランシスコ・ラバル)は、様々な奇跡を起こしながら巡礼の旅を続けていると言う点でやはりイエスを彷彿させる。
 1951年にダリが絵画「十字架の聖ヨハネのキリスト」を発表すると、ブニュエルはそれを映画「それを暁と呼ぶ」(1955年仏)の中に引用している。警察署のシーンの壁にダリのその絵画がかけられている場面があるそうなのだが残念なことに僕は観ていない。ダリはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)の絵画「最後の晩餐」を、「最後の晩餐の秘蹟」(1955年)でパロディ化しているが、ブニュエルも「ビリディアナ」(1961年西)で13人の乞食に同じ場面を演じさせた。ダ・ヴィンチの絵画では、なぜテーブルの片側にしか人がいないのかの説明はなされていないが、ブニュエル作品では記念写真を撮るために集まったのだということになっている。もっとも、イエスの時代にカメラはなかっただろうが…。
 また、ダリはジャン=フランソワ・ミレー(1814〜75)の絵画「晩鐘」(1857〜59年)に興味を持ち、しばしば自身のモチーフとしている(写真下)。「アンダルシアの犬」のラストシーンでも、目を潰された男女が砂に半身を埋められたという形でパロディ化して出現させた。ブニュエルもやはり「昼顔」(1967年仏)に「晩鐘」を引用している。“昼顔”と呼ばれるヒロイン(カトリーヌ・ドヌーブ)の見る夢の中で、農夫の格好をした彼女の夫(ジャン・ソレル)とその友人(ミシェル・ピッコリ)は、遠くで鐘が鳴りだすとうつむき祈り始めるのだった…。

*20 アグスティン・サンチェス・ビダル/野谷文昭、網野真木子訳「ブニュエル,ロルカ,ダリ...果てしなき謎」 385〜411ページ
 



「ミレーの建築的晩鐘」(1933年)
(「ダリ/岩波 世界の美術」 163ページ)
 


 友情は失われても、芸術家としてお互いに影響を受けあい、それぞれの分野で才能を競い合う…。まるで、武者小路実篤(1885〜1976)の小説「友情」(1919年
*21)を思わせるではないか。ずっと後になって、二人は再び少しだけ歩み寄ったかに見える。1966年、ダリはブニュエルに「アンダルシアの犬」の続編を二人で製作しないかと持ちかけた。SF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」(1968年米/英)が製作されるのはこれからほんの数年後のこと。特殊効果の技術は、二人が映画を合作していたころとは比べ物にならないほど発達している。二人の発想はより容易に映像化されたに違いないのだが、結局それは実現しなかった。
 その後、1979年のダリ回顧展に際して、ブニュエルは彼の所持するダリの描いた肖像画を貸し出したばかりか、祝宴に出席することも考えたようだが、「それでは画家(注・ダリ)との“和解”を示す正式の写真をジャーナリズムに提供することになる」ということで、取りやめになった。また、彼はあるインタビューで「死ぬ前にダリとシャンパンを酌み交わしたい」と語り、ダリはそれに対し「わたしもだ、だがわたしは今は酒を飲まないのだ」と答えた
(*22)という。
 ブニュエルは1983年、ダリは1989年にこの世を去った。二人の巨匠が天国で和解していることを願いたい。いや、ダリは相変わらずガラに夢中なのだろうか。

*21 脚本家の野島は杉子のことを愛し、親友の作家・大宮にそのことを打ち明ける。だが、杉子が愛しているのは大宮であった。恋に破れた野島は、仕事の上で大宮と決闘しようと誓う。と、いうあらすじ。
*22 アグスティン・サンチェス・ビダル/野谷文昭、網野真木子訳「ブニュエル,ロルカ,ダリ...果てしなき謎」 413ページ


(2003年11月13日)

 
(参考資料)
アド・キルー/種村季弘訳「ブニュエル/現代のシネマ3」1970年2月 三一書房
「世界の映画作家7/ショトジット・ライ編ルイス・ブニュエル編」1970年11月 キネマ旬報社
ルイス・ブニュエル/矢島翠訳「映画、わが自由の幻想」1984年7月 早川書房
トマス・ペレス・トレント、ホセ・デ・コリーナ/岩崎清訳「ルイス・ブニュエル公開禁止令」1990年4月 フィルムアート社
渡辺淳「パリ・1920年代/シュルレアリスムからアール・デコまで」1997年5月 丸善ライブラリー
アグスティン・サンチェス・ビダル/野谷文昭、網野真木子訳「ブニュエル,ロルカ,ダリ...果てしなき謎」1998年7月 白水社

サルバドール・ダリ/足立康訳/滝口修造監修「わが秘められた生涯」1981年3月 新潮社
アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー/山田宏一、蓮見重彦訳「ヒッチコック映画術」1981年12月 晶文社
ロベール・デシャルヌ/日高達太郎、巌谷国士訳「ダリ全集 全3巻」1985年10月〜1986年1月 講談社
筈見有弘「ヒッチコック」1986年6月 講談社現代新書
イグナシオ・ゴメス・デ・リアーニョ/佐和瑛子訳「サルヴァドール・ダリ/現代美術の巨匠」1988年5月 美術出版社
「週刊グレート・アーティスト10/ダリ」1990年4月 同朋舎出版社
マシュー・ゲール/巌谷国士、塚原史訳「ダダとシュルレアリスム/岩波 美術の世界」2000年9月 岩波書店
ロバート・ラドフォード/岡村多佳夫訳「ダリ/岩波 美術の世界」2002年7月 岩波書店

「サルバドール・ダリの世界」(http://www3.ocn.ne.jp/~salvador/

武者小路実篤「友情」1947年12月 新潮文庫
 

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