第2章−サイレント黄金時代(14)
芸術映画の都
〜アベル・ガンスとフランス芸術映画〜



映画芸術の最高峰「鉄路の白薔薇」(1922年)
ゼヴラン・マルス
(「THE MOVIE 80」10ページ)
 


 高校生の頃、よく友人と展覧会を観に行った。通学の乗り換えに新宿駅を使っていたこともあって、小田急や伊勢丹といったデパートの美術館に学校帰り立ち寄ったものである。
 当時の僕は印象派の絵画が特にお気に入りだった。マネ、モネ、ドガ、ルノワール、ロートレック、ゴッホ、ゴーギャン…。考えてみれば彼らはみなフランスのパリを拠点に活躍した人たちである。それ以来、僕にとってフランスのイメージはまさしく“芸術の都”であった。

 19世紀の終りに現れた新興芸術“映画”。それは瞬く間に音楽、詩、舞踏、建築、彫刻、絵画に続く“第七の芸術”となった。当時芸術の都で活躍していた芸術家の中には、この映画に目をつけた人たちがいた。サルバドゥール・ダリ(1904〜89)を始め、マルセル・デュシャン(1887〜1968)、写真家のマン・レイ(1890〜1976)らはみな自身でも映画を製作するようになる。彼らの作った作品の多くは前衛的なもので、自主製作映画として作られている。この時期のフランスの前衛映画(アヴァン=ギャルド映画)の中には大変重要な作品が多いのだが、それについては次項で述べることにしたい。今回は、芸術の都フランスで商業映画(一般映画)として製作され、多くの人々の目に触れられてきた作品ついて見ていきたいと思う。

 芸術と商業はしばしば対立するカテゴリーと見なされる。映画が芸術の一種である以上、職人監督は芸術家監督よりも低く見られがちだ。だが、映画の製作には莫大なお金がかかり、利益を考えることなしに作られることはあり得ない。そして、利益を目的として生み出された映画が、芸術としても充分鑑賞に耐え得るものとなっているのだから面白い。



「ギーズ公の暗殺」(1908年)
(「フランス映画史の誘惑」41ページ)


 1900年代から1910年代。映画はアメリカにおいて“ニッケルオデオン”と呼ばれていた。文字通り、ニッケル(5セント)硬貨1枚で観ることができたのである。上流階級の人々のように演劇に高価な入場料を払うことのできなかった庶民にとって、映画は何よりも手ごろな娯楽であった。日銭を稼ぐ当時の労働者に、コメディやアクション、トリックなどといった肩を凝らずに楽しむことのできる映画が好まれたのは当然のことであろう。
 実を言うと、僕も社会人になった最初の頃は「ディープ・インパクト」(1998年米)や「アルマゲドン」(1998年米)といった娯楽大作ばかりを好んで観に行っていた。会社帰りの疲れた体では、難しい映画を観たら眠くなってしまう。一度などは、あまりの眠さに(作品がつまらなかったせいもあるのだが…)、空いてる映画館で立って観ることを余儀なくされた。その頃話題だったのは「イングリッシュ・ペイジェント」(1996年米)だったが、絶対に眠くなってしまうだろうと、結局観損ねてしまった。仕事帰りに難解な映画を観ても平気になったのは、社会人3年目くらいからだろうか。

 そんな“見世物小屋”的な映画から脱皮し、芸術としての映画を作り出そうという動きはまず芸術の都パリで起こった。1908年、若き映画興行主ピエールとポールのラファイエット兄弟は“フィルム・ダール(芸術映画)”と名づけたプロダクションを設立した。彼らの作った映画はアナトール・フランス(1844〜1924)やアンリ・ラブダン(1859〜1940)といったアカデミー・フランセーズの作家陣が脚本を書き、カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)が伴奏音楽を作曲。サラ・ベルナール(1844〜1923)らコメディ・フランセーズの俳優が出演するといった超豪華なものであった。そのため、普段映画を観に行かない上流階級や知識層が映画に注目することとなり、映画の社会的立場が向上するきっかけとなる。しかし、一流の芸術家が集まったからといって必ずしもいい映画が出来るわけではない。結局、舞台をそのまま映しただけの、お堅いばかりで退屈な作品となってしまったようである。音楽の使用権や俳優の出演料が高すぎるということもあって、フィルム・ダールはすぐに財政的にも破綻してしまう。だが、こうした古典劇や名作小説といった文芸作品を映画化するという動きは、その後世界各国に広がっていった。フィルム・ダールの作品では、最初に製作された「ギーズ公の暗殺」(1908年/写真上)や、ベルナールがエリザベス1世を熱演する「エリザベス女王」(1912年)が知られているが、僕はどちらも断片的にしか観ていない。
 僕が観た作品では、アベル・ガンス(1889〜1981)が監督した奇妙キテレツなコメディ「チューブ博士の狂気」(1916年)と「助けて!」(1923年)がフィルム・ダールの製作したものであった。何もお堅い作品ばかり作っていたわけではないようである。



「狂熱」(1921年)
エレナ・サグラリ(左)とエーヴ・フランシス
(「ヨーロッパ映画200」17ページ)
 


 1920年代には映画理論が盛んに提唱された。この頃になると映画が芸術分野の一つとして認められたことの証しであろう。当時のフランスの映画人たちが好んで口にしたものに“フォトジェニー(photogenie)”がある。ジャン・エプスタン(1897〜1953)によれば、「映画的再現によって価値を与えられ、かつ美化されるような人間や物体の姿」
(*1)を指すのだというが、はっきり言ってかなり曖昧で良くわからない。浅沼圭司はそれを「具体的対象を映画的視覚的に還元することによって実現される美的なもの」(*2)と言い換えている。

 それでもよくわからないので、フォトジェニー理論に則って製作された作品を実際に観て考えることにしたい。ルイ・デリュック(1890〜1924)も、当時フォトジェニーを唱えた一人。デリュックはわずか6本の映画を製作しただけで、1924年若干33歳で亡くなっているが、その彼の代表作とされるのが「狂熱」(1921年)である。
 舞台はマルセイユの港町の酒場。女主人(エーヴ・フランシス
*3)が一人で店を切り盛りしている。そこへやってきた船員たち。その中には彼女とかつて愛を誓い合った男(エドモン・ヴァン・ダエル)も混じっていたが、彼の傍らには東洋人の妻(エレナ・サグラリ)が寄り添っていた…。わずか40分足らずの中篇である。まるでスケッチブックのように淡々と物語が積み重ねられ、ごくありふれた光景にも関わらず詩情を感じさせる。ただ、この「狂熱」という作品、理論ばかり先走っていて、あまり成功作していないのだという。僕は割とおもしろく感じたのだが、結局のところ実験作の域を出ていないというのは確かである。

*1 浅沼圭司「映画学」96〜97ページ
*2 同書 97ページ
*3 デリュック夫人。後にジャーナリスト、演劇学校の教授となる。
 



「アッシャー家の末裔」(1928年)
マルグリート・ガンス(左)とジャン・ドビュクール
(「ヨーロッパ映画200」57ページ)
 


 一方、エプスタンは「アッシャー家の末裔」(1928年)を発表している。エドガー・アラン・ポー(1809〜49)の短編小説「アッシャー家の崩壊」(1839年)を基に、そこに同じくポーの「リジイア」(1938年)と「楕円形の肖像」(1842年)のエッセンスを詰め込んだ作品である。ところで、僕がこの映画を最初に観たのは渋谷のイメージフォーラムで開催された「フランス・アヴァン=ギャルド映画」の特集上映の際であった。この時に上映されたフィルムはすべてフランス語字幕版。僕は大学時代2年間フランス語を第二外国語として勉強していたのだが、その後10年近くまったく勉強していなかったおかげで、すっかり忘れてしまっていた。だから、この映画も細部についてはまったく理解することができなかった。もちろん、その映像美には圧倒されたのだが…。最近になってDVDで観直し、ようやく内容を理解することができた。やっぱり語学の勉強は大切だな、と改めて思う。
 片田舎の広大に屋敷に妻マドリーヌ(マルグリート・ガンス
*4)と2人で住む貴族の末裔ロドリック・アッシャー(ジャン・ドビュクール)を、古い友人(シャルル・ラミ)が訪ねてくる。アッシャーは妻の肖像を描き続けているが、絵が精彩を帯びるにつれ、妻は生気を失いやつれていくのだった。やがて、彼が絵を完成させると同時に、妻は息絶えてしまう。妻を墓地に葬ったアッシャーだったが、息を吹き返した妻は墓場から抜け出し、夫のもとへ戻ってくる…。
 妖気立ち込めるもやに包まれた暗い沼地と屋敷。風に吹き上げられめくれるカーテン。ギターは突然弦を切らす。二重焼きやスローモーションが駆使され、映像の一つ一つが幻想的で美しい。それぞれの場面が、それだけで絵画となり得てしまうかのように感じられる。なるほど、こうした「美的なもの」こそがフォトジェニーなのであろうか。ずっと後にロジャー・コーマン(1926〜)が製作した「アッシャー家の惨劇」(1960年米)は、同じくポーの「アッシャー家の崩壊」を原作にしているものの、雰囲気はまったく違う。エプスタインの芸術的な色合いとは異なり、おどろおどろしいB級ホラーのテイストに溢れていた。

*4 後で述べるアベル・ガンスの夫人。
 



「人でなしの女」(1924)
マレ=ステヴァンによるセット
(「世界映画全史9」134ページ)
 


 「アッシャー家の末裔」と同様、この頃のフランスでは他にも娯楽的かつ芸術的に高い水準で、大きな成功を収めた作品が数多く製作されている。こうしたフランス映画の作品群を映画史家のジョルジュ・サドゥール(1904〜67)は「フランス印象派」と呼んだ
(*5)。もちろん絵画の「印象派」に準えてのことであろう。ここではそれらのいくつかを観ていくことにしたい。

 ドイツ映画「カリガリ博士」(1919年)が、ドイツ表現主義の芸術と深く結びついていたのと同様に、マルセル・レルピエ(1890〜1979)が監督した「人でなしの女/イニューメン」(1923年)は、アール・デコの芸術と強い関わりを持っている。ストーリーは、世界的名声を持ち、周りの男達をみな虜にしてしまう歌姫クレール(ジョルジュット・ルブラン)と、彼女に思いを寄せる若き技術者ノールセン(ジャック・カトラン)の恋を描く。ヒロインのクレールを演じたジョルジュエット・ルブラン(1869〜1941)は高名なオペレッタ歌手で、「アルセーヌ・ルパン」を生んだモーリス・ルブラン(1864〜1941)の妹。「青い鳥」を書いたメーテルリンク(1862〜1949)と当時恋愛関係にあった
(*6)。また、求婚者の一人ジョラを演じたフィリップ・エリア(1898〜1971)は後に作家として活躍している。
 この映画の見所は、ストーリーなどではなく、その華麗な美術にある。例えば、美術はアルベルト・カヴァルカンティ(1897〜1982)、衣装はポール・ポアレ(1879〜1944)、建築物はロベール・マレ=ステヴァン(1886〜1945)、家具はピエール・シャロー(1883〜1950)、庭園はクロード・オータン=ララ(1903〜2000)、実験室のセットはフェルナン・レジェ(1881〜1955)といった具合で、アール・デコのオールスターキャストとも言うべき様相を帯びている。このうちカヴァルカンティ、オータン=ララ、レジェの3人は後に監督としても活躍している。とりわけ、前半のクレールの豪邸と、後半のノールセンの実験室の美術が素晴らしい。豪邸の壁や床にはまるで幾何学模様のようなデザインがなされ、実験室は円やカーブ、振り子や光によって構成される。それにしても、セットについてここでどう説明しようと、うまく伝えることはできそうもない。ぜひとも映画そのものを観てもらいたいと切に願う。1986年に復元された染色サウンド版がビデオ・LD化されている。

*5 ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、村山匡一郎、小松弘訳「世界映画史9」 69ページ
*6 メーテルリンクが他の女性と結婚したことによってジョルジュエットの恋は実らなかったのだが、「世界映画全史 9」他多くの資料は、彼女とメーテルリンクが結婚していたと述べている。それだけ二人の仲が親密であったということであろうか。
 



「女優ナナ」(1926年)
カトリーヌ・エスラン
(「ジャン・ルノワール自伝」より)
 


 画家オーギュスト・ルノワール(1841〜1919)の名前を知らない人はいないだろう。何しろ喫茶店の名前にまでなっているぐらいだ。余談だが、この「ルノアール」(正確には「銀座ルノアール」)には営業マン時代大変お世話になった。なんせ、いつまでいても平気なのだから、時間つぶしには最適である。風邪気味なのに無理して出社した時だとか、台風や大雪の時には、何時間も店で粘ったものである。さて、この店が名前を画家のルノワールから取っているということは、店内に彼の絵の複製が飾られていることからも明らかであろう。ジャン・ルノワール(1894〜1979)は、そのルノワールの次男として生まれている。父オーギュストの作品にも幼き日の彼の姿を見ることができる。
 そのルノワールのサイレント期の代表作とされるのが、エミール・ゾラ(1840〜1902)原作の「女優ナナ」(1926年)である。主人公は女優から娼婦に身を堕したナナ(カトリーヌ・エスラン)。彼女は自分の愛人とした男達を次々と破滅させ、最後は自らも天然痘の為に若い生命を散らす。ちょっと後であれば、グレタ・ガルボ(1905〜90)やマルレーネ・ディートリヒ(1901〜92)が演じるような、そんな“悪女もの”である。
 この映画は少々難解である。実は僕も最初観た時は人物関係がほとんどつかめなかった。そこで、ゾラの小説を読んでから、改めて観直し、その芸術性の高さに感心させられたのだが、案の定公開当時は興行的に失敗であった。
 たとえストーリーは理解し辛くとも、この作品の持つリアリズムと退廃的な雰囲気はよく伝わってくる。ルノワールはシュトロハイム(第2章(7)参照)の「愚なる妻」(1922年米)を観て触発され、この映画を製作したという。「人でなしの女」で庭園のセットを担当し、後に監督として「肉体の悪魔」(1947年)などを撮ることになるクロード・オータン=ララが美術を担当しているが、彼の製作した絢爛豪華なセットは、そうした色合いをものの見事に伝えてくれる。「カリガリ博士」(1919年独)で主人公を演じたヴェルナー・クラウス(1884〜1959)が、ナナの愛人の一人ミュファ伯爵を演じているが、映画自体もドイツの撮影所で製作された。なるほど、ドイツ映画を思い起こさせるような様式美を持っている。そして、その大胆な画面構成は充分に絵画的で、「フォトジェニック」を感じさせるが、ここはむしろ、父オーギュストゆずりの美的感覚の表れと言うべきだろうか。
 



オーギュスト・ルノワール「浴女たち」(1918〜1919年)
(「グレイト・アーチスツ別冊/印象派の魅力」45ページ)
 


 映画の中のナナは、その才能よりもお色気によって、絶大な人気を得ていたが、彼女を演じたカトリーヌ・エスラン(デデ/1900〜79)の独特の美貌もまた印象に残る。「水浴の女たち」(写真上)などでオーギュストの晩年のモデルを務めていた彼女は、オーギュストの死後ルノワールと結婚した。カトリーヌはルノワールのデビュー作以降、「マッチ売りの少女」(1928年)など初期の作品のほとんどでヒロインを務めている。二人の間には長男アランが生まれているが、彼は後にルノワールの「ゲームの規則」(1939年)他でアシスタントを務めている。そもそも、カトリーヌが「女優になりたい」と言ったため、ルノワールは陶芸家になるのをあきらめ、映画監督になったそうである。だから、ルノワールが、トーキー第1作「牡犬」(1931年)のヒロインに、プロデューサーに押し切られる形でジャニー・マレーズ(1900〜31)を選んだ時点で、二人の夫婦生活は破綻を迎える運命にあった。
 



「鉄路の白薔薇」(1922年)
ゼヴラン・マルス(中央)とガブリエル・ド・グラヴォーヌ(右)
(「ヨーロッパ映画200」27ページ)
 


 さて、数年前のある日のことであった。僕は大学図書館のAVルームでとある映画を観ていて、思わず声をあげそうになった。なぜなら、その映画はまさに芸術を意図して作られていたからである。それはアベル・ガンス (1889〜1981)監督の「鉄路の白薔薇」(1922年)であった。僕は映画が第七の芸術となったその瞬間に立ち会ったような錯覚を覚えた。
 「鉄路の白薔薇」は、鉄道の煤に汚れた「黒の交響曲」と、モンブランの雪山を舞台にした「白の交響曲」の2部から構成される。緩やかなリズムのカメラワークに、冒頭の列車事故のシーンに見られるようなめまぐるしいほどのフラッシュ・バックが挿入される。その構成は文字通り、交響曲を思い起させる。いや、映像による叙事詩といったほうが良いだろうか。まさしくこれは、映画でなくては表現し得ない新しい芸術の形であった。
 主人公は、鉄道機関士シジフ(ゼヴラン・マルス)。永遠に終らない労働を課せられ苦悩するギリシア神話の神シジュフォスを思い起させる名前である。この映画はシジフの苦悩をテーマとしている。
 「黒の交響曲」。シジフは、列車事故で孤児となった娘ノルマ(アイヴィ・クローズ)を、実の娘として育てているが、いつしか彼女のことを愛するようになっていた。彼の実の息子エリー(ガブリエル・ド・グラヴォーヌ)もまたノルマを愛している。ノルマはやがて、鉄道技師のエルサン(ピエール・マニエ)と結婚し、彼の元を去っていくが、彼女への思いを断ち切れないシジフは「ノルマ号」と名づけた機関車を暴走させる…。
 「白の交響曲」。事故が原因で失明したシジフは、モンブランの山頂でエリーと静かに暮らしている。そこにノルマがやってきて、エリーの思いは再燃する。エリーに嫉妬したノルマの夫エルサンはエリーと争い、二人は崖から落ちて死んでしまう。ノルマはシジフの元で暮らし始める。年に一度の祭りの中、シジフはひっそりと息を引き取った…。 
 



「鉄路の白薔薇」
ゼヴラン・マルス(左)とアイヴィ・クローズ
(「THE MOVIE 63」73ページ)
 


 現存する「鉄路の白薔薇」には欠落部分が多いとされる。おそらく分量からいって第2部の「白の交響曲」に多いのだろう。「ヨーロッパ映画200」によると、エリーがノルマに宛てた手紙を発見したエルサンが、エリーを訪ねて争いとなるくだりが欠けているとある
(*7)が、僕が観たLDにはこのシーンはあったので、その後に発見された部分もあるようだ。欠落があるにもかかわらず、上映時間は3時間半近い。ぶっ通しで観ていて、すっかりくたびれてしまった。オリジナルはもっと長く6時間を超えていたというからまったく驚きである。しかし、案外短くなっているがゆえに、ここまで感動できる作品になっているのかもしれない。完全版はきっと観ている途中で飽きてしまうのではないか、そんな気すらする。こう考えると、それも怪我の功名なのだろう。

*7 「映画史上200シリーズ/ヨーロッパ映画200」 27ページ
 



「ナポレオン」(1927年)
アルベール・デュードネ
(「ヨーロッパ映画200」49ページ)
 


 さて、アベル・ガンスと言えば、そのライフワークとも言うべき「ナポレオン」(1927年)を避けて通るわけにはいかない。「ナポレオン」はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821)の若き日の姿を描いた歴史スペクタクル。ややもすると冗長になりかねなかった「鉄路の白薔薇」と異なり、娯楽的にも充実しており、文字通り映画による歴史絵巻となっている。
 撮影だけで一年半、完成するまでに4年の歳月を要した。製作費用は1500万フラン。150以上のセットが作られ、軍服8000着、銃4000挺、無数の軍旗が用意されたという。建築技師や弾薬製造家などの専門スタッフが常時200人以上も雇われ、シーンによっては6000人ものエキストラを用いたというからスケールの大きさは計り知れない。
 後の天才軍師としての才能を発揮させた兵学校時代のナポレオン少年(ウラジミール・ルーデンコ)の雪合戦のエピソードに始まり、青年将校となったナポレオン(アルベール・デュードネ)が、フランス革命の騒乱を乗り越え、イタリア遠征軍司令官として出撃するまでを、ドラマチックに描いている。フランス革命下の様々な人間模様が魅力的に描写される。シュルレアリスムの詩人アントナン・アルトー(1896〜1948)が、革命家マラーを演じているのも注目だが、ガンス自身も元舞台俳優の経験を活かしサン=ジュストを演じている。
 「ナポレオン」もまた、革新的な映像技術を様々に用いている。特にカメラは視点を変え、自由自在に動き回る。走る馬の鞍の上に、あるいは気球に括りつけられて。国民議会のシーンでは、カメラは議場の上を振り子となって揺れ動く。さらに、雪合戦では、雪玉となって飛んでいくのだ
(*8)。またクライマックスは、「ポリヴィジョン」と呼ばれる3面のスクリーンによって構成される。3面いっぱいに巨大な映像を映し出すこともあれば、それぞれに別々の映像を映すこともある。当時劇場で観ていたらさぞかし迫力があっただろう。僕が観たLDでも、後半20分だけだが、このポリヴィジョンが納められていた。もっとも相当小さくなってしまっていて迫力は半減、いや10分の1になってしまっているだろう。こればかりは、劇場で観るしかなかったと諦めるしかない。
 オリジナルは6時間を超えていたというが、現存するのは4時間弱である。興行的にも惨敗に終わり、全部で6部作
(*9)として製作するつもりでいたガンスの意図は適わなかった。ガンスはその後、第1部だけでもより良くしようと、何度も撮り直し、再編集。ステレオ音響によるサウンド版、トーキー版、部分色彩版などを製作していった。1971年には、クロード・ルルーシュ監督(1937〜)の資金援助によってガンス自身による最後の編集作業が行なわれているが、これらのバージョンは、つぎはぎだらけの不完全なもので、オリジナル版の感動からはむしろ遠のくばかりであったという。 
 1981年、ガンスを敬愛するフランシス・フォード・コッポラ(1939〜)は、映画史家のケビン・ブラウンロウと共にガンス自身の協力を得て「ナポレオン」を復元。オーケストラの演奏と共に世界各都市で公開、大成功を収める。1月23日、ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージック・ホールでの最初の上映の観客の大喝采を、病床にあったガンスは国際電話で聞き、「Finalment(やっと)…」と呟いたという。明らかに時代を先取りしていたガンスの業績がようやく認められつつある中、11月10日、彼は肺水腫のため92歳で息を引き取った。

*8 雪玉の主観ショットを撮るためにカメラをほうりなげたという伝説があるが、「それではあまりに高くつきすぎる」と後にガンス自身がが否定している。
*9 8部作の予定だったという説もある。
 



「ナポレオン」
ウラジミール・ルーデンコ
(「映画100年STORYまるかじり」21ページ)
 


 このように、サイレント期のフランスの芸術的な映画をいくつか見てきたが、それらは今日での高い評価とは裏腹に、発表された当時は必ずしも万人に受け入れらるものではなかった。「人でなしの女」や「女優ナナ」は興行的に失敗しているし、アベル・ガンスの場合も作品はズタズタにカットされ、以後は思うように映画が撮れなくなってしまう。シュトロハイムもそうであったが、芸術と興行とを同時に成功させるというのは極めて困難なのであろう。
 それなら、端から興行を無視してしまえばいい。そうすれば、作家は思うような映画が撮れるに違いない。だいたい僕が、このエッセイで好き勝手なことを書いていられるのも、もとより損得勘定ぬきでやっているからに他ならない。何らかの利益が絡んだらそうはいかないだろう。
 サイレント期に映画を撮っていたのは、映画人ばかりではない。すでに他の分野で成功を納めた芸術家たちが当時数多く映画製作に乗り出している。先にも少し紹介したが、画家のデュシャンやレジェ、ダリ、写真家のマン・レイや詩人のアルトー、ジャン・コクトー(1889〜1963)といった多彩な顔触れは、当時きそって映画に手を染めていた。彼らの作った映画のほとんどは自主製作映画として作られ、その自由な発想から、常人にはとても理解できないような、実にユニークなものとなっている。それらもまた、芸術の都が生んだ芸術映画の一種には違いない。それらの前衛映画(アヴァン=ギャルド映画)については、次回見ていくことにしよう。
  

(2003年8月6日)


(参考資料)
飯島正「フランス映画史」1950年10月 白水社
岡田真吉「フランス映画のあゆみ」1964年1月 七曜社
「世界の映画作家29/フランス映画史」1975年10月 キネマ旬報社
ジャン・ルノワール/西本晃二訳「ジャン・ルノワール自伝」1977年7月 みすず書房
飯島正「映画のあゆみ―世界映画史入門」1988年8月 泰流社
浅沼圭司「映画学」1994年1月 紀伊国屋書店
村山匡一郎「映画100年STORYまるかじり/フランス篇」1994年11月 朝日新聞社
渡辺淳「パリ・1920年代/シュルレアリスムからアール・デコまで」1997年5月 丸善ライブラリー
ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、村山匡一郎、小松弘訳「世界映画全史9/無声映画芸術の成熟」1998年9月 国書刊行会
山田宏一「山田宏一のフランス映画誌」1999年9月 ワイズ出版
野崎歓「ジャン・ルノワール/越境する映画」2001年4月 青土社
中条省平「フランス映画史の誘惑」2003年1月 集英社新書

「グレイト・アーチスツ/印象派の魅力」1990年11月 同朋社出版

エドガー・アラン・ポオ/阿部知二他訳「ポオ小説全集T、V」1974年6月 創元推理文庫
エミール・ゾラ/山田稔訳「ナナ/世界文学大系37ゾラU」1980年11月 河出書房新社
 

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