第2章−サイレント黄金時代(4)

ファースト・アクションヒーロー
〜快男児ダグラス・フェアバンクス〜




“快男児”ダグラス・フェアバンクス
「鉄仮面」(1929年)より


 2000年話題になったSFXアクション映画「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」(1999年米)。これまでかってぐらい「レイダース/失われたアーク」(1981年米)に良く似ていた。これまでにも「ロマンシング・ストーン/秘宝の谷」(1984年米)や、「キングソロモンの秘宝」(1985年米)など「レイダース」の亜流と思えるような作品はたくさんあったが、ここまで意識的に似せている作品はそうは無かったように思われる。それはともかく「ハムナプトラ」もまた、「レイダース」に負けず劣らず、観ていてハラハラさせられっぱなしの映画であった。次から次にヒーローにはピンチが訪れ、間一髪の所でそれを交わすとまた新たなピンチが彼を待っている。文字通り手に汗を握らされ、観終わった時には思わず疲れた気分にさせられる。
 ところで、こうした痛快アクション映画の原点は何であるかと考えると、1910年代に人気のあった「連続活劇」にまでたどり着く。

 連続活劇はまたの名をシリアル(Serial)と呼ばれる。これは、10分から20分の短いエピソードを毎週1話ずつ公開していき、数編から10数編で完結とするものである。言ってみれば今のテレビの連続ドラマの元祖みたいなものである。それは、1909年にフランスで製作された「ニック・カーター」シリーズに端を発している。続いて「ジゴマ」(1911年仏)、「ファントマ」(1913年仏)などと言ったシリーズが製作され、その後アメリカに渡ってヒロインを主人公に代えて「何がメリーに起こったか」(1911年米)や「ヘレンの冒険」(1912年米)、「カスリーンの冒険」(1913年米)などが製作された。



「ポーリンの危難」(1914年米)
パール・ホワイト(中央)
 


 なかでもパール・ホワイト(1889〜1938)はこうした連続活劇で一時代を築き、「シリアルの女王」と称された。彼女の代表作は1914年に製作された「ポーリンの危難」であるが、これは幸いにも部分的ではあるがビデオ化されている。オリジナルは全20話であるそうだが、ビデオに収録されているのはそのうちの5話である。パール・ホワイトが演じているのは名家の令嬢ポーリン。彼女は亡くなった後見人から莫大な遺産を相続するが、その条件というのが後見人の息子ハリー(クレイン・ウィルバー)と結婚するということ。ところがポーリンは、冒険がしたいがために結婚を引き伸ばしている。一方、彼女の相談役のケーナ(ポール・パーンツァー)は、彼女が死ねば遺産を相続できるため、彼女の命を狙おうとする…。
 こうしてケーナに狙われたポーリンは、気球に乗せられて空へ飛び上がり、インディアンの大群に追われ、船に爆弾を仕掛けられ、地下牢に水を流されるのである…。もちろん、ポーリンはいつもあと一歩のところで助かり、性懲りもなく新たな冒険に挑むことになる。

 その面白さ、冒険に継ぐ冒険といった興奮は、間違い無く「レイダース」にまで受け継がれている。1つのエピソードは必ず主人公のピンチで終わり、観客は翌週を心待ちにしていたという。しばしば崖に宙ぶらりんの状態で終わったことから、連続活劇は「クリフハンガー」と呼ばれた。今回僕が観たビデオ版の「ポーリンの危難」でも、最初の2話でポーリンが崖にぶら下がる“クリフハンガー”の場面が見られた。シルベスター・スタローン(1946〜)主演の「クリフハンガー」(1993年米)は、標高4000メートルのロッキー山脈を舞台とした、文字通り崖にぶら下がるスリル満載の映画であるが、連続活劇的スリルを再現しようとしていることは、その題名からも明らかである。
 


 しかし実際のところ、「レイダース」を製作したジョージ・ルーカス(1944〜)も監督のスティーブン・スピルバーグ(1947〜)も年齢的に言ってそれらの連続活劇を観ているとは思えないから、直接の影響は別のところにあるだろう。スピルバーグもルーカスも映画好きで知られているが、とりわけスピルバーグはその作品にしばしば往年の映画を挿入している。例えば「グレムリン」(1984年米)ではギズモにミニ・カーでクラーク・ゲーブル(1901〜60)主演の「スピード王」(1950年米)を再現させ、「E.T.」(1982年米)では酔っ払ったE.T.の超能力によってエリオット少年(ヘンリー・トーマス)はクラスメイトの少女を相手に「静かなる男」(1952年米)のラブシーンを演じてしまう。また、「グーニーズ」(1985年米)では、奇形の巨人スロース(ジョン・マツザク)が、テレビで海賊の映画を観ているシーンが出てくる。この時スロースが観ているのはエロール・フリン(1909〜59)主演の「海賊ブラッド」(1935年米)である。これこそが、スピルバーグのアクション映画の原点を探る上での重要なヒントになるだろう。ただし、スロースが後のほうで真似をするマストをナイフで切り裂きながら降りてくるシーンは、「海賊ブラッド」には出てこない。つまりそのシーンは別の映画の1シーンなのだが、それは何の映画かは不明である。

 エロール・フリンは1930年代に活躍したアクション・スターである。年齢的にいってスピルバーグは彼の主演映画をおそらくテレビで観ているのだろう。
 


 さて、このエロール・フリンの映画に影響を与えたと思われるアクション・スターが存在する。それは、ハリウッド最初のアクション・スター、ダグラス・フェアバンクス(1883〜1939)である。とりわけ、先にあげたフリンの主演作「海賊ブラッド」がフェアバンクス主演の「ダグラスの海賊」(1926年米)を意識しているのは間違いないところ。マストをナイフで切り裂きながら降りるシーンというのも「ダグラスの海賊」にはある。また、フリンは「ロビン・フッド冒険」(1938年米)で義賊ロビン・フッドを演じたが、フェアバンクスもまた「ロビン・フッド」(1922年米)で同じ役を演じている。僕は残念ながらフェアバンクス版の「ロビン・フッド」は観ていないのだが、フリンの演じるキャラクターは、フェアバンクスが演じたキャラクターに近いところがある。だいたいフリン自身口ひげを生やしているころに、フェアバンクスをかなり意識していることがうかがえる。
 



ダグラス・フェアバンクス(本人)
 



エロール・フリン
「ロビン・フッドの冒険」より
 




フェアバンクスに扮した
ケビン・クライン
「チャーリー」より
 


 喜劇王
チャールズ・チャップリン(1889〜1977)の伝記映画「チャーリー」(1992年米)にも、このフェアバンクスは登場する。演じているのはケビン・クライン(1947〜)であるが、口ひげを生やしたその容姿は、なるほどフェアバンクス自身によく似ている。映画の中でチャーリー(ロバート・ダウニー・ジュニア)がフェアバンクス家でのパーティを訪ねると、折しも彼によるアトラクションが開催されている。フェアバンクスは敵と剣の切っ先を合わせ、2階からロープを伝って降りてくる…。まるで彼の映画を思わせるような1場面であるが、監督のリチャード・アッテンボロー(1923〜2014)が幼少時代に熱中した大スターへオマージュを捧げる意味があったのかどうかは知るよしもない。だが、そう思わせるほどまでにフェアバンクスの人気は絶大であった。
 

 フェアバンクスは1883年にコロラド州デンバーの裕福な家庭に生まれた。ハーバード大学に通った後、演劇界に入り、1914年頃には演劇界で人気スターとなった。1915年にはD・W・グリフィスの所属していたトライアングル社と週給2000ドルで契約し、映画界に入る。1916年の「イントレランス」の「古代バビロニア篇」にも端役で出演しているとのことである。
 フェアバンクスが映画界入りしたばかりの頃、グリフィスは彼にこんな悪戯をした。グリフィスは調教済みのライオンをフェアバンクスにけしかけたのである。さすがのアクションスターもすっか肝を冷やして近くの物置の中へ逃げ込んでしまったと、リリアン・ギッシュ(1896〜1993)は回想している
(*1)
 その後1916年に彼はフェアバンクス映画社を設立して独立している。

*1 リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝」 202〜3ページ
 



「三銃士」(1921年)
 


 フェアバンクスは1920年の「奇傑ゾロ」を手始めに、いわゆる「時代劇」のヒーローを多く演じるようになる。「奇傑ゾロ」ではタイトル・ロールの義賊ゾロを、その続編「ドンQ」(1925年米)ではゾロとその息子ドンQを2役で演じた。また、「三銃士」(1921年米)と続編「鉄仮面」(1929年米)では銃士ダルタニャンを、「ロビン・フッド」(1922年米)ではロビン・フッドを…。彼はどんな困難にも大胆かつ不敵に立ち向かっていく。もちろん、冒険の合間には美女とのロマンスも忘れない。強引に美女に近づいてはハートを射止めてしまう。現実生活でも、「アメリカの恋人」と称されたメアリー・ピックフォード
(1893〜1979)を手に入れたのは前項で述べた通り。彼のキャラクターはまさしく“快男児”と呼ぶにふさわしい。そういえば彼のデビュー作はグリフィス脚本の「快男子」(1915年米)であったそうな。
 最近の映画では主人公だからと言って必ずしも不死身ではなくなったが、彼の場合はそんな心配はまったく不要。だから僕らは安心して彼の映画を観ていられる。その点ではインディ・ジョーンズやリック・オコンネル(「ハムナプトラ」)と同じなのだ。
 


 フェアバンクス映画の魅力は何といってもその軽快なアクションにある。例えば、「ダグラスの海賊」では、海賊の頭となったフェアバンクスが、単身商戦に乗り込むと、マストによじ登り、ロープを伝って別のマストに飛び移る…。「バグダッドの盗賊」(1924年米)でも、魔法のロープを使って高い壁をひとっ飛び…。まるでアクロバットを思わせる。
 そして、剣戟の華麗さにも見所がある。ゾロも、ダルタニャンも、味方の何倍もある敵に敢然と立ち向かう。「縦・横・蜘蛛手・十文字…」、その活躍ぶりは「平家物語」の描写がしっくりと来る。実際、彼の出現によって日本の時代劇にも変化が現れたと考えられている。
 初期の時代劇映画は、歌舞伎の影響が強く、斬り合いの最中に敵同士の2人が、カメラを向いてポーズを取ったり、見得を切ったり、何とも不自然である。日本映画最初のスーパー・スターと言われる尾上松之助(1875〜1926)。今日現存している数少ない彼の主演作「渋川伴五郎」(1922年日活)などを観るとまさしくそうなのである。それが、1920年代も半ばになると、例えば阪東妻三郎(1901〜53)主演の「雄呂血」(1925年阪東妻三郎プロダクション)に見られるよりリアルな剣戟へと変化を遂げている。それはちょうどアメリカでのフェアバンクスの全盛期と一致している。
 

 フェアバンクス映画のもう一つの魅力は時代劇ならではの絢爛豪華なコスチューム・プレイにある。その点では「アラビアン・ナイト」の世界を映画化した「バグダッドの盗賊」(1924年米)を第一にあげなくてはなるまい。
 物語の舞台はバグダッドの都で幕を開ける。折しもカリフの美しい姫(ジュラン・ジョンストン)の婿選びが始まろうとしている。婿候補としてペルシア、インド、モンゴルの王子が王宮へやってくる。姫を一目見てその虜となったバグダッドの盗賊(フェアバンクス)もまた、
王宮へと乗り込んできたのだった。
 姫は7ヶ月以内に、世にも珍しい宝を探して戻ってきた王子と結婚をする発表する。それを聞いた盗賊もまた、宝物を探す旅に出る。
 
 盗賊は森の奥で火を吹くドラゴンと戦ったり、深い沼の底に潜ったりと困難な冒険の末に、身を隠す衣と魔法の箱を手に入れる。だがその頃、モンゴルの王子(上山草人)は、自分の軍隊で王宮を攻め落とし、姫を手に入れようと画策していたのだった…。
 



「バグダッドの盗賊」(1924年)
左はジュラン・ジョンストン
 


 フェアバンクス映画の持ち味であるところの剣戟は出てこないし、アクションシーンも少々物足りない。だが、スケールの大きさや、特殊効果、美術の絢爛豪華さにおいては、彼の他の作品をはるかにしのいでおり、なかなかの見応えがある。
 森の中での冒険やドラゴンとの死闘、そして身を隠す衣が重要な小道具として機能する点は、ドイツ映画の傑作「ニーベルンゲン」(1924年独)の第1部「ジークフリート」と共通していることが注目される。

 また、モンゴル王子の役で上山草人(かみやま・そうじん/1884〜1954)が出演しているのも特徴である。上山は大正初期に早川雪洲(1889〜1973)や後に監督となる栗原トーマス(1885〜1926)らと同様にアメリカで活躍した日本人である。彼は、文豪・谷崎潤一郎(1886〜1965)とも交流があり、後に谷崎が映画製作に進出するきっかけを作っている。
 ハリウッドでは主に悪役として活躍。トーキーの到来と同時に日本に帰国した。その後は伊丹万作(1900〜46)監督の「赤西蠣太」(1936年片岡千恵蔵プロ)に按摩師安甲役で出演したり、「金色夜叉」(1937年松竹)で高利貸しを演じたりしているが、今イチぱっとしない。異様な風貌で存在感はあるが、セリフ回しに癖があり、演技が上手いとはどうも思えないのである。おそらく、そうしたことが没落の原因だったのだろう。黒沢明(1910〜98)の名作「七人の侍」(1954年東宝)では、冒頭の木賃宿の場面に盲目の琵琶法師役で出演している。遺作となったのが稲垣浩(1905〜80)監督「宮本武蔵」(1954年東宝)。ここで彼が扮するのは「老人一」という端役。武蔵(三船敏郎)の故郷・宮本村の老人を演じているのだが、セリフはたった一言しかない。この作品はアカデミー特別賞を受賞した名作ではあるが、往年のスターの出演に気づいたアメリカ人が果たしていたのだろうかと考えると、何だか哀しく感じてくる。
 



国際的日本人スター上山草人
「バグダッドの盗賊」より
 


 さて、とにかく痛快なフェアバンクスの映画であったが、そんな彼にも欠点はあった。彼はゾロを演じる、ダルタニャンを演じる、ロビン・フッドを演じる。だが、どの映画でもそこにいるのはダグラフ・フェアバンクスその人なのだ。結局僕らにとって問題なのはそこにフェアバンクスがいるかどうかであって、彼が何を演じているかではない。逆に言えばだからこそ安心して観ていられるのではあるのだが。
 言葉による説明のいらないサイレント映画の時代であるなら、単純明快であることが許されていたのかもしれない。だが、1920年代末となり、時代がトーキーとなると、そうもいかなくなった。
 「じゃじゃ馬ならし」(1929年米)、「ロビンソン・クルーソー」(1932年米)などでフェアバンクスはトーキーに挑戦している。とりわけ前者は愛妻メアリー・ピックフォード(1893〜1979)との唯一の競演作でもあるのだが、これらの作品はお世辞にも成功作とは言いがたい。それらの原因は、やはりフェアバンクスがフェアバンクスであったからではないか。結局のところ、フェアバンクスはフェアバンクスという自分自身の殻からの脱皮に失敗してしまったのだ。
 

 1919年にフェアバンクスはピックフォード、チャップリン、グリフィスと共にユナイテッド・アーチスツを設立。1927年にはアカデミー協会(映画芸術科学アカデミー)の初代会長にも就任している。彼の人望を物語るところである。永年彼と親交のあったチャップリンは彼の死に際して次のように語っている。「ほんとに友だちになれた俳優というのは、ダグラスひとりだった。」
(*2)

 フェアバンクスと最初の妻との間の子であるダグラス・フェアバンクス・ジュニア(1909〜2000)もまた俳優として活躍している。
 父を少々細くしたような端正な顔立ちで1920年代後半から俳優として活躍している。1931年の「犯罪王リコ」では単なる添え物的な甘い二枚目にすぎなかったが、1937年の「ゼンダ城の虜」で憎々しい悪役を演じ、ロナルド・コールマン(1891〜1958)を向こうに激しい剣戟を見せた。また、1941年の「コルシカの兄弟」では、切り離されたシャム双生児を一人二役で演じ、その豪快なアクションぶりは父親を彷彿させた。

 
*2 チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝」(1966年11月新潮社) 460ページ
 



ダグラス・フェアバンクス・ジュニア
 


 それにしてもダグラスの息子だからダグラス・ジュニア。欧米では子が親と同じ名前をつけることができるとは言え、少々安易ではないか。
 実を言うと僕は高校時代の世界史で、彼らのような同じ名前の親子に混乱させられた記憶がある。例えばフランスの太陽王ルイ14世は、ルイ13世の子で、その後を継いだのがひ孫のルイ15世。さらにその孫にはルイ16世とルイ18世がいる、といった具合。また、現在まで続くイギリスの王朝ハノーヴァー家も、初代から4代目まではいずれもジョージという名前なのである。その点日本の天皇家は全員が異なった贈り名を持っているのだからわかりやすい。
 ハリウッドの俳優でも、父親と同じ名前の息子が「ジュニア」をつけて活動することがまれにある。ジョン・バリモア・ジュニア(後のジョン・ドリュー・バリモア/1932〜2004)、チャールズ・チャップリン・ジュニア(1925〜1968)などがそれに当たるが、さすがに父親と肩を並べるほどの活躍をした人は少ない。逆に父親以上に有名になったのが、ロバート・ダウニー・ジュニア(1966〜)やサミー・デイビス・ジュニア(1925〜90)あたりだろう
(*3)。その点、ダグラス・フェアバンクス父子はどちらもそれなりに有名になったという稀少な例ではないだろうか(*4)

*3 参考までにロバート・ダウニー(1937〜)は「ヒューゴ・プール」(1996年米)などを撮った映画監督。サミー・デイビス(1900〜88)はボードビリアンで「ベニイ・グッドマン物語」(1955年米)にフレッチャー・ヘンダーソン役で出演している。なお俳優エフレム・ジンバリスト・ジュニア(1918〜)の父エフレム・ジンバリスト(1889〜1985)は世界的に有名なバイオリニスト。
*4 他にはロン・チャニー(1883〜1930)とロン・チャニー・ジュニア(1906〜73)がいる。
    他の分野では作家のアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ/1802〜70)とアレクサドル・デュマ・フィス(小デュマ/1824〜95)、政治家のジョージ・ H・W・ブッシュ元アメリカ大統領(1924〜2018)とジョージ・W・ブッシュ前アメリカ大統領(1946〜)などがいる。
 

(2002年6月14日)

(参考資料)
チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝」1966年11月 新潮社
三田照子「ハリウッドの怪優 上山草人とその妻山川浦路」1996年12月 日本図書刊行会
*著者の三田は上山の息子竹三郎の妻
 

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