a soft kiss by a rose




前編

 その年、白い塔の都の公子たちは黄金館を訪れた帰途に、マークの東谷に立ち寄った。
主人のエオムンドが年若い青年たちを歓待し、数頭の馬を与えた。
夫人のセオドウィンはほっそりした美しい女性で、ロヒアリムよりゴンドールの姫君たちに似ていた。
彼らのあいだには子供が二人いて、女の子は母親に抱かれ、男の子の方はドレスの裾に隠れて執政家の兄弟たちを見上げていた。



 13歳になったばかりのファラミアは、はじめて兄の隣国行きに同行した。
そして丘の上の宮殿が、豪華な金箔に飾られ、陽光に輝くのを目にしたのだった。
かれは素朴で裏表のないローハンの人々が好きになり、エドラスでの日々を楽しんだ。
名残惜しく思いながら黄金館を去ると、つぎに兄弟は東マークの領主のもとで一夜を過ごすことになったのだった。

 翌朝はやく、ぱたぱた走り回る足音と、時折聞こえる甲高い歓声がファラミアの意識を揺り起こした。
目を開けると、窓の外が発光したように明るい。
かれは身体を起こして上着を羽織った。
空気は澄んで冷たく、吐息が白くなる。
窓のそばに立つと辺りは一面銀色に塗り換わっていた。

「初雪だ・・・」
雪の白さが目に眩しい。
そして白い大地を、男の子が喜びの声を上げながら走り回っている。
小さなロヒアリムは空に向けて大きく口を開けていた。
舞い降りてくる雪を食べようとしているらしい。
子供らしい姿に思わず微笑む。
初めての雪はなぜか人の心を浮き立たせるものだ。
ファラミアは夜着を着替えてブーツを履くと、階下に駆け下りていった。

 かれが姿を現したので、男の子がびっくりして立ち止まった。
「おはよう、エオメル殿」
人を逸らさぬ微笑みを浮かべて挨拶する。
昨夜は母親の後ろからかれを眺めていただけの東谷の跡継ぎは、ほっぺを赤くして「おはよう」と答えた。
瞳のぱっちりした可愛い子である。
「ねえ、あそんで!」
エオメルはファラミアを見上げて言った。もともと人見知りではないらしい。
18になるボロミアに比べたら弟の方はまだ少年で、遊び相手になると思ったのだろう。

「いいですよ」
ファラミアはうなづいた。朝食までまだ時間がありそうだ。
「何をしましょうか」
「うーんとね、ゆきでどうぶつをつくるの」
エオメルの提案に従い、二人は雪だるまを転がして形を整え、馬や兎を形作った。
熱中しているうちにかれらは笑いあい、打ち解けあった。

 雪の彫像を数個作り終えて一休みしていると、エオメルがかれをじっと見て「あおい目だねえ!」と言った。
「よそのくにの人なのに、マークのきしみたいだ。きしたちはみんな目があおいんだよ。おれはちがうけど・・・」
ロヒアリムはちょっとうつむき、語る語尾が小さくなった。
が、すぐに顔を上げて言う。
「でもセオドレドもおれとおんなじだからいいんだ」

 ファラミアはこの数日を一緒に過ごした、ローハンの王子の瀟洒な姿を思い浮かべた。
「そうですね。セオドレドさまとはエドラスでお会いしましたが、エオメル殿と良く似てらっしゃいました」
「うん!」
かれの言葉にエオメルが嬉しそうに笑う。
そして幼いロヒアリムはファラミアのマントを掴んで背伸びした。
かれが腰をかがめて顔を寄せると、相手は耳元でこっそり呟いた。
「あのね、いいものをみせてあげる」

 エオメルに手を引かれて、かれは館の裏に回り、谷の中に分け進んだ。
見落としてしまいそうな岩の裂け目にエオメルが入っていく。
そのあとをついていくと、清水が湧き出る小さな窪地に出た。
そして、そこを取り囲む岩肌は、青い透明なきらめきに覆われていたのである。

「これは・・・水晶・・・?」
ファラミアは感嘆のため息をもらした。
「ここはおれと母上しかしらないひみつのばしょだよ」
「美しいですね」
「ここのいしはさわっちゃいけないんだ。みるだけにしなさいって母上が」
「ええ。このままで充分に素晴らしいと思います」
「でもおちてるのをひろうのはいいんだ」
エオメルは足元を捜して、綺麗な水晶のかけらを拾い上げた。
「これ、あげるね」
澄んだブルーがファラミアの瞳と同じ色あいだった。

「ありがとう」
かれが礼を言うとエオメルはにっこり笑って手をつないできた。
ゴンドーリアンとロヒアリムはしばし佇んでその光景を眺めた。
クリスタルの壁の輝きは美しかったが冷たく、やがて冷気がファラミアの全身を震わせた。
かれがくしゅん、とクシャミを洩らしたのでエオメルが「さむいの?」とたずねた。
「少しだけ」
ロヒアリムはふうん、といって首をかしげた。ルーツが北方の部族なので寒さに強いのだろう。

「あっためてあげる」
エオメルはかれのマントの下に入り込んで抱きついてきた。
ぎゅっとくっつかれてファラミアの心が高揚する。
幼児の無邪気な好意はかれの内部を暖かさで満たした。
ゴンドーリアンは片膝をつき、マントでロヒアリムをくるんだ。
そのまま抱き合っていると「いいにおいがするねえ」とエオメルが言った。
「そうですか」
「うん。とってもいいにおい・・・母上ともちがう・・・」
柔らかい頬がかれの顔にこすりつけられる。

 ファラミアはロヒアリムの顎に指を添え、そっと口づけた。
「なあに?」
瞳を見開く相手に笑いかけながら、かれは「水晶を頂いたお礼です」と囁いた。そして、もう一度唇を重ねる。
エオメルは大人しくされるがままになっていた。
甘いキスだった。舌が忍び込み、優しく探る。
唇を離すと、エオメルの大きな双眸に自分の幸福そうな顔が映っていた。


***


 兄弟はその日の昼過ぎに、父エオムンドの館を辞去して国に帰って行った。
夜、ベッドに横たわったエオメルは、胸を昂ぶらせながら客人の青い瞳を思い返していた。
青い青い、マークの空のような瞳。
そして抱きしめられたとき、うっとりする香りに包まれた。
唇を何度もくっつけたことは多分誰にも言ってはいけないのだろう。
かれは幼いながらに心得ていた。
その夜のロヒアリムはずっとどきどきし続けて、なかなか眠ることができなかった。



 晴天の空に、鷹が舞う。
エオメルは15になっていた。数年後には亡きエオムンドの後をついで東谷の領有を許されることが決まっている。
マークの草原に騎士たちの掛け声が響いていた。
馬上で長槍を繰りながら、槍術訓練に汗を流していると、数台の馬車を引き連れた一隊が街道の東より進んでくるのに気づいた。
ミナス・ティリスに招かれていたセオドレドが故国に戻ってきたのだ。

 訓練を終えて黄金館に入ると王子が荷物を開いているところだった。
大きな箱を妹が覗いている。
父母を失ったエオメルとエオウィンをセオドレドは気にかけ、可愛がっていた。他国に出かけた従兄が持ち帰るお土産が兄妹の楽しみだった。
王子は細工の施された小箱をエオウィンに見せた。
「ゴンドールの香料だよ」
蓋を開けると、あでやかな芳香がひろがった。

(この香りは)
思わずエオメルは足を止めた。
「嫌、くさい」
「こら。これは最高級の薔薇のエッセンスから作られているんだぞ。好みの香りを身に纏うのが姫君たちの嗜みだそうだ」
「馬の匂いのほうが好きだわ」
従兄と妹の側に、我に返ったエオメルが歩み寄る。
そして「良い香りですね」と言いながらセオドレドが手にした小箱をのぞく。

 中には薄紅色の練り物が詰まっていた。
それを指でひと撫でし、そっと嗅ぐ。
姫君は肌にすりこんで使うが、男性は香炉に入れて火でくゆらせ、衣服に香りを移して楽しむそうだとセオドレドが説明する。
隣国にはなんと典雅な人々がいるのだろう、とエオメルは思った。
(あの方は、そのゴンドールの公子だったのだ・・・)
「ゴンドールの殿方はみんなこんな匂いをさせているの?やあだ」
エオウィンが鼻に皺を寄せて言う。

 生意気盛りの妹は、宝石やドレスより乗馬と剣術に夢中なのだ。
セオドレドはやれやれと肩を竦めた。
そして目を細めて香りを味わうエオメルを不思議そうに見た。
(妹に劣らず泥まみれで馬を駆けさせてばかりの従弟だが、意外に洒落っ気があるのだな)
「じゃあこれはエオウィンにと思っていたけど、エオメルにあげることにしよう。きみはこの香りの良さが判るようだから」
かれが差し出された小箱を受け取ろうとすると、エオウィンが「だめ」と言って横から手を出した。

「わたしに下さるって言ったもの」
「エオウィン」
セオドレドが呆れてたしなめる。
いつも兄の後をついてまわり、真似をしたがる妹である。
かれが興味を示したので、急に惜しくなったのだ。
「いいですよ、それはわたしには似合わないから」
エオメルは穏やかに言った。
(その香りが一番似合う方が誰か、わたしは知っている)
そして従兄にメッとにらまれ、イーッと舌を出す妹を見て笑い声を上げた。



 日々を送るうちに、かれはいくどか執政家の公子たちの姿を目にした。
ゴンドールに請われて送る兵の中にエオメルも参加し、隣国の武将たちと共に剣を振るうことになった。
整列してロヒアリムを迎える友邦の軍隊を初めて見たとき−−まるで光が当たったように、かれはファラミアを見分けた。
あの雪の日に見上げた、繊細な顔立ちの少年が今はゴンドールの大将となって指揮を取っていたのだ。
その兄と共に、執政家の兄弟は美貌と優雅な振る舞いで、観る者全ての視線を奪っていた。

 エオメルは身分がら名乗ることも、話をする機会もなかった。
その時のかれはまだ年若く、一介の騎士に過ぎなかったからだ。
冑を深く下ろして仲間の間にまぎれれば、どれほど熱心に見つめようと相手にはわからない。
それに、遠い昔に一度会っただけの子供のことなど、ファラミアは記憶に留めていないだろう。
やがていつもいつも相手を眺めるうちに、かれは気づいた。
巻き毛の弟君が愛を込めて見つめるのは、兄のボロミアだけだということに・・・。

「どっち?」
その日はアノーリエンで野営することになった。
地べたに座って茶を飲んでいると、セオドレドがかれの肩に手をかけて尋ねた。
「なんですか」
ローハン王子が顎をしゃくる。その先にはゴンドールの兄弟の姿があった。
「どちらを見てるのかな」
「別に、見てないです」
エオメルは少し頬を染めて視線を落とした。まったく従兄はカンが鋭い。
「ふーん」
意味ありげに鼻声を出し、セオドレドがかれの肩をぽんぽんと叩く。

「かれらは二人だけで完結してるからね。割り込むのは難しいぞ。ま、ボロミアにしてもファラミアにしても、きみは趣味がいいよ」
エオメルは答えようがなく黙っていた。
あの高貴な兄弟に近づくことなど望んでいない。
ただ、ファラミアの整った白い貌を盗み見てときめくこと、そして少しだけ悲しい気持ちになることで自分は満足なのだ。
するとセオドレドがかれの金髪を指に巻きつけた。
それをひっぱりながら囁く。
「ところで、いつもわたしが見ているのは誰か、きみは気づいているのかな・・・」

 ほどなくしてエオメルは第三軍団長を任ぜられた。
東谷の領主の地位を確立し、ローハン軍ではセオドレドに次ぐ身となったのだ。
一部隊を預けられることになったかれと、執政の公子たちとの距離がようやく縮まった。
国境に展開するローハン=ゴンドール連合軍の作戦本部の席で、エオメルはローハン代表としてゴンドールの将軍たちの前に立った。
隣国の指揮官はファラミアである。

「マークの軍団長を拝命しております、エオメルです。お見知りおきを」
かれがそう告げると、相手は白皙をほころばせて答えた。
「ゴンドールのファラミアと申します。お初にお目にかかりますエオメル殿」
差し出された手を力強く握る。
やはりファラミアのほうは、エオメルのことなど忘れているようだ。
そっとキスをかわした日から、二十年もの月日が過ぎている。
エオメルは憧れ続けた青い瞳を間近に見ても、動揺しない自分に安堵していた。

 続く食事の席でかれらは隣り合わせた。
「今回は、ボロミア殿がご一緒ではないですね」
エオメルが尋ねる。
「ええ。兄はオスギリアスの攻略戦を任されていますので」
「そうですか」
「兄をご存知なのですか?」
「いや、時々遠くからお姿を拝見していただけです」
(−−そしてボロミア殿の傍らにはいつもあなたが)
ゴンドールの美しい兄弟は、一対の彫像のように、共にいるのが似合っている。

 ファラミアはロヒアリムに視線を向けた。
「ところで、セオドレドさまもいらっしゃらないようですね」
「殿下はこのところ西マークの警護にかかりきりなのです」
「王子殿下にお会いできなくて残念でした。ファラミアがご健勝を祈っていたと伝えてください」
「わかりました」
かれは頷いた。
「ですが、今回はあなたとお話できる機会に恵まれて嬉しく思います、エオメル殿」
意外な言葉にエオメルが相手を見やる。

「セオドレドさまに寄り添う、若い騎士殿をわたしも兄も気にかけていたのですよ。実に見事に馬を操るものだと感嘆していました。あなたの馬術はローハン軍でも特に素晴らしいものです」
「いや、そんな、身に過ぎたお言葉です」
思いがけない賞賛を告げられてかれはうろたえた。顔が高潮する。
その様子にファラミアが微笑む。
「ずっとそのことを伝えたいと思っていたのです。でも、王子殿下はあなたを独占して、一度も紹介してくださらなかった。だから遠慮せずこちらから交友を求めることにします。エオメル殿、今後は是非親しくして頂きたい」
「よ、喜んでファラミア殿」
額に汗を滲ませながらエオメルは応えた。

 執政の次男の頬には、いつもの白い笑みが浮かんでいた。



++後編