思うこと 第94話           2006年5月22日 記       

この父ありてメイヨー兄弟あり

 メイヨークリニックとメイヨー兄弟については、今回のロチェスター訪問( 第86話 )をきっかけに、シリーズで話してきたが ( 第87話、 第88話、 第90話、 第91話 )、メイヨー兄弟という類稀なる2人の医師の歴史を理解するには、その父、Dr. William Worrall Mayo ( 1819〜1911 )(左写真) を知る必要がある。 右写真は、私が皆さんに是非読んでほしいと思っている本の表紙であるが、この表紙の人物こそは兄弟の父・メイヨー氏(以後ウォーラルの愛称で呼ぶ)が馬で往診に出かけようとしている写真である。 詳しくは、この本を読んでいただきたいのだが、 この本の中で、メイヨー兄弟の兄ウイルは、メイヨーの奇跡的な栄光の歴史が実現できた理由を聞かれたのに対して、次の様に答えている、『そう、率直に言って、弟と私はたくさんのことをやり遂げたと思います。しかし、それも私達にチャンスが与えられたからですよ。よき時代に、恵まれた両親のもとで育てられたからです。よほどの天才でもなければ出来ないような大仕事を、私達兄弟がやれたのも、もちろん、一生懸命努力もしましたが、父から学んだことが大きいのです。百姓の子供が田んぼの中で大きくなるように、私達は医学の中で育てられたのです。』。
 ウォーラル(父・メイヨー氏)は1819年に英国のマンチェスターの名士であった両親の3人の子供の末っ子として生まれた。当時としてはかなりのレベルの教育を受け、有名な科学者ジョン・ダルトンから個人授業まで受けている。医師を志し、ロンドンとグラスゴーの病院で医師見習いの研修を受け、26歳の時、星雲の志のもと、単身新天地アメリカに渡った。苦学の末、31歳でインディアナ医学校を卒業し医師免許証を手にし、インディアナで勤務医としてスタートするとともに、ルイーズと結婚。その後ミズリー大学医学部解剖学教室で助手を勤め、34歳で博士号を取得。35歳にミネソタに移り、開業を模索する。しかし、当時、この地域は人口は少なく、開業しても生計を立てることは難しく、むしろ有能で活発な妻ルイーズの経営する帽子洋服点(ニューヨークに2人で仕入れに出かけ、妻が販売、結構繁盛した)が2人の生計をささえていたようである。ウォーラルは冒険が好きで、医業そっちのけで未開発のインディアンしか住んでいない地方の探検に出かける事が多く、単身の冒険旅行が9ヶ月に及んだこともあった。そのうち、ノースウエスト開発会社から鉱脈調査を依頼され、ますます冒険旅行に明け暮れる。37歳の時、冒険旅行の中で気に入った土地(ミネソタ谷)を見つけ移住、開業する。開業といっても患者は多くなく、牛を飼い、畑を耕し、蒸気船の操縦などの副業など、何でも積極的に手を出していたようである。新聞発行にも手を出し、医業の傍ら政治活動も始めた。この政治活動のおかげで、メイヨー先生の名前はミネソタ谷に知れ渡り、患者も増え始めた。そして、ごく短期間のうちに、メイヨー先生はミネソタの名士の一人となった。メイヨー先生が42歳、1862年の夏、スー族の反乱があり、メイヨー先生も義勇兵の医療班として参戦、負傷者救護にあたった。翌年1863年には南北戦争に向け徴兵制が布かれ、メイヨー先生は第一ミネソタ地区徴兵局の医官に任命された。この徴兵局はミネソタ州の南半分を管轄し、徴兵局の本部はオルムステッド群の県庁所在地であるロチェスターに置かれることになったので、メイヨー先生は単身赴任した。この翌年、1864年、メイヨー先生はロチェスターに永住を決意し、町の中心部に土地を購入し診療所を建てた。そして、その年、長男チャールスが誕生したのである。メイヨー先生の診療所は繁盛した。メイヨー先生は医業の傍ら、市の発展にも貢献し、市立図書館の建設に力を尽くし、それが完成するや、多数の図書を寄付してその充実を図った。新聞発行も再開した。66歳となった1885年にはには市会議員に選ばれ、市の発展に尽力した。1890年、71歳で合衆国の上院議員に当選し、そして74歳で政界から身を引いた後も、政界の顧問として後進の指導にあたった。メイヨー先生はこの様に忙しい政界の任を果たしながら、本業の医業も精力的にこなし、診療所は繁盛し続けた。単に繁盛しただけではない。問題はメイヨー先生が追い求めた医療の中身である。メイヨー先生は、当局と患者の家族の承諾が得られると、病理解剖を行って自分の診断を確かめ、病理標本を顕微鏡で調べた。病理組織診断まで自分でやれる医師は当時ミネソタの開業医にはおらず、メイヨー先生はミネソタではすば抜けた存在であったのである。化学分析にも興味を持ち、診療所の一部には実験室も備えていた。手術にも興味を持ち、患者に必要となると、当時誰もが手をつけなかった開腹手術も行い、みごと成功した記事が当時の新聞にも載っている。1869年の秋、50歳の時、自分の手術手技を磨くために、診療所を一冬の間閉じ、ニューヨークのベルビュー病院に一般外科と婦人科学の勉強に出かけたのであるが、繁盛していた診療所を一時閉じたこのことこそが、メイヨー先生の真骨頂といえる。その後も手術にさらに創意工夫をこらし、メイヨー先生の一般外科医と婦人科外科医としての名声は高くなり、診療所はますます繁盛した。幼いウイルとチャーリーはメイヨー先生の、当時としては画期的な大手術をドアの陰からこっそり覗く事もあったという。まさに兄弟は、お父さんの後姿に感嘆しながら育っていったのである。1883年、メイヨー先生が64歳の頃には、先生の診療所はミネソタ州の3大診療所の一つとして数えられ、南ミネソタ一で一番患者が多い診療所になっていた。これだけ繁盛していたのだから常識的には経済的に豊かなはずだが、実際には決して豊かではなかったという。これは、先生が患者に診療費を請求するのがきらいで、患者の任意にまかせ、貧しい人からは受け取らず、少しでもゆとりが出ると市や教育委員会などに寄付し、勉学のためには本代を惜しまず、高額の顕微鏡を買い換えるのに多額の借金をし(この返済に10年もかかったとのこと)、このようなわけで、いつも借金に追われていたという。彼は、子供を役に立つ人間に育てようと思い、怠けるのを許さなかった。一家には雇い人がいないので、洗濯や掃除は2人の仕事である。水汲みや薪割りももちろんである。チャーリーが鋸で木を切れば、ウイルが斧で割るのである。バターつくりも彼らの仕事であった。父親の手術の助手もさせられた。この様な中で、2人はたくましく育ち、2人とも医学部に進学し、医師となり、さまざまな研修を経てやがて父親の元に返ってきた。そして、そこから、メイヨー兄弟の奇跡的足跡が始まったのである。兄と弟は、代わる代わる勉強に出かけ、片方が診療所に残って診療にあたった。新しい麻酔法の話を聞くと、かならずどちらかが習いに出かけた。手術法もしかりである。そして、いいものはどんどん取り入れていった。その勢いはものすごく、瞬く間に全米の医学界を震撼させていった。医療関係者もメイヨー兄弟の病院に見学に押しかけるようになったが、兄弟は見学しやすい環境整備にも力を入れた。一緒に診療をしたい、あるいは、勉強させてほしいという若い医師も集まってきた。評判を聞いて、患者が遠方からも集まってきた。それでも、兄弟は、交代で勉強しに出かけ続けた。少しでもいい手術手技、麻酔法を求め続けた。いつの間にか、技術も、症例数も、他の病院を圧倒していった。そして、メイヨークリニックの基が築かれていったのである。
 この章の冒頭で、メイヨー兄弟の兄ウイルが、メイヨーの奇跡的な栄光の歴史が実現できた理由を聞かれたのに対して答えた言葉をもう一度紹介して、この章を閉じるーー『そう、率直に言って、弟と私はたくさんのことをやり遂げたと思います。しかし、それも私達にチャンスが与えられたからですよ。よき時代に、恵まれた両親のもとで育てられたからです。よほどの天才でもなければ出来ないような大仕事を、私達兄弟がやれたのも、もちろん、一生懸命努力もしましたが、父から学んだことが大きいのです。百姓の子供が田んぼの中で大きくなるように、私達は医学の中で育てられたのです。』。