思うこと第36話

「守離破(しゅりは)」と「守破離(しゅはり)」

去年の5月、思うこと第14話で、私は「守離破(しゅりは)」の奥義の話をした。その概要をくりかえすと、『私にこの「守離破」の奥義について教えてくださったのは、かねて私が尊敬していた剣道の達人の方であった。剣道の道は、まず「師の指導を守り学ぶこと」すなわち「守」、次に「師の教えを守り修行を重ねる中でその教えから発展的に離れてゆく、あるいは師のもとを離れ武者修行を行うなかで自分独自のものを得る」すなわち「離」、そして最後に「師の教えを超える境地を開く」すなわち「破」、の「守離破」の奥義』というものであった。最近、縁あって、私に奥義を教えてくださったその方にお会いし、ゆっくりお話を聞く機会があった。そこで私は「守離破」の奥義を教えていただいたことにお礼を申し上げたところ、意外な返事がかえってきた。曰く、『私が話したのは「 守破離(しゅはり)」であって、「守離破(しゅりは)」ではありません。まず守り、そして破り、最後は離れるというのが剣道における教えです。師から離れて始めて自立するということの大切さを教える言葉だと思います。 そして離れることが何よりの師への恩返しと説いています。」 なんと私はとんでもない記憶違いに基づいて、思うこと第14話を書いてしまったことになる。 あの時は、記憶違いに基づいていたとはいえ、インターネットで 守離破を検索し、武道、茶道の先生が「守離破」を語っておられる内容も勉強してから書いたのであった。今、もう一度念のために、「守離破(しゅりは)」で検索してると、71件が出てきた。この中には、やはり茶道先生や、武道の先生も「守離破(しゅりは)」について、上記の赤文字で書いた内容をのべておられた。したがって、「守離破(しゅりは)」も実際にこれらの道でつかわれてはいるようである。しかしながら、「 守破離(しゅはり)」で検 索したところ、何と約100倍の6827件出てきて、やはりこちらが本来の言葉と合点した次第である。
私はこれを機会に、「 守破離(しゅはり)」について、検索で出てきた文章を読みながら勉強してみた。
読ませていただいたネット上の文章を拾い書きすると;
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「 守破離(しゅはり)」の言葉をはじめて使ったのは、室町の三代将軍足利義満の時代に、「能」を育て上げた観阿弥、世阿弥親子だったとのことです。現在は能だけでなく、歌舞伎や狂言といった日本の伝統芸能、剣道や居合道、空手など武道の世界でも守破離という言葉が広く使われているわけです。
どの道においても、同じようない意味合いで使われています。
すなわち;
その道を極める為の成長段階を示した言葉で、道を極める成長段階は、文字通り守・破・離の三つの段階に分けられます。
   
…ひたすら教えを守り、学ぶ
   
…教えの言葉から抜け出し、真意を会得する
   
…型に一切とらわれず、自在の境地に入ること
です。

それぞれについてわかりやすい解説を書いてくださっている文もありましたので、そのまま、紹介しましょう。

 
。この段階は、ひたすら師の教えを守っていきます。多くの話を聞き、師の行動を見習って、師の行動を自分のものへとします。全てを習得できたと感じるまで、師の指導を繰り返します。そのうち師から「疑問を感じたら、私に頼ることなく自分自身で解決するんだ」などと言われるようになります。こうなると守の段階は終了、次の段階へと進む事になります。

 
。この段階は言葉通り、既存の概念を破る事です。疑問解決の為に、師の教えを守るだけではなく独自の工夫を重ね、師の教えにはなかった方法などを試していきます。意識的に師の教えを崩し、次第に発展し…独自の方法を築き上げていく事になります。

 最後、
の段階。この境地まで達すると、師のもとを離れていきます。破と違うのは、「一切のこだわりを捨て、自由に、思うままに考え、自然に身を置いて行えば、言わば合理の極致としておのずから至芸の境地に至る」事ではないかと思います。離はいわば理想の段階ですが、その「道」を学ぶ者ならば、離の段階に入っていかねばならないのです。
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さて、話をもとにもどすが、私は第14話のなかで、医学の修行の道も、「守離破(しゅりは)」の姿勢は大切であると説いて、
「医学部を卒業後しばらくは先輩医師からの教えに従い修行し(守)そのうち出張や留学などを通じ次第にそれぞれの持ち味を出し(離)そのうち、ある分野においては師を超えた活躍をするようになる(破)。」と述べたのであった。これは、今読み返しても、極めて道理にかなっており、これはこれでいいと思う。では、「 守破離(しゅはり)」を、医学の修行の道に置き換えるとどうなるであろうか。「医学部を卒業後しばらくは先輩医師からの教えに従い修行し(守)そのうちじぶんでも創意工夫し、努力を重ねる中から、臨床でも、研究でも次第にそれぞれの持ち味を出し、師を超えるものを身につけ(破)その後、独立して、開業医の道や、専門医として病院でその分野をとりしきったり、教授や病院長として独自の活躍に羽ばたくようになる、あるいはまた、“全ての”患者さんから神様のように敬われるほどの医術の極地に到達する(離)。」ということになろうか。やはり、「守離破(しゅりは)」より、「 守破離(しゅはり)」のほうが、奥義への道をより的確に語れそうである。