思うこと 第31話 2005年4月13日
菅原文太氏に学ぶ
小学館文庫から出版した私の痛風闘病記の縁で、この度、ニッポン放送のスタジオでの菅原文太氏との対談に呼ばれた。対談に臨むにあたり、最近氏が助演男優賞を受賞された「わたしのグランパ」のビデオを観賞させてもらい、私は、心底感動した。氏の信条である「無欲」「潔さ」がこの映画の祖父役のイメージそのもので、まさに文太氏そのものを感じた。私はさらにインターネットで菅原文太氏に関する情報を集めることにし、 Yahoo Japan で菅原文太で検索したところ、何と 50,298 件出てきたのには驚いた。さすが一世を風靡された菅原文太氏なればこそ、とまずこの数字に感嘆したのであった。 ちなみに森繁久弥で検索したところ丁度この半分の 25,125 件であった。 しかしながら、 50,298 件の中から自分のほしい情報をさがすのには、それら全てを開いて探そうものならそれだけで数ヶ月かかるので、 菅原文太に飛騨高山のキーワードを重ねることにより、菅原文太氏による「朝日新聞万博フォーラム〜五感豊かな街をめざして」での基調講演「私が都市にすまないわけ」を探し出し、さらに、菅原文太と文子夫人の二つのキーワードによる検索から、日刊スポーツ掲載の菅原文太氏の長文のインタビュー記事「欲を捨て身軽になれ」の全文を発見したのであった。 この2つのお話は、ぜひとも皆さんに読んでいただきたいと思い、どちらもリンクを張っておきました。 菅原文太氏は文子夫人とともに、今から約7年前の4月、東京・麻生のマンションを手放し飛騨の山里(岐阜県大野郡清見村)に移り住まれた。 四季折々の変化を肌で感じながら、文子夫人手作りの野菜を毎日食べ、寒くなれば「自分の山の木を薪にすればいいだけだよ。 あとはみそとしょうゆを買ってくればいい。 山から一歩も出なきゃ、月に10万円もかからないよ、本当に」と語っておられる。 私は衝撃を受けながら読ませていただいた。 というわけで、このような予備知識を持って、わくわくしながら、有楽町の目抜きにあるニッポン放送に行ったのであった。 菅原文太氏にお会いし、氏が腰にタオルをさげておられたことに、まず感動した。 私も、医学部の学生時代、最初の2カ年間はバリカンで自分で髪を坊主頭に刈り、風呂敷ずつみに書籍をくるんで通学した質素な経歴が自慢であったので、銀座のど真ん中での腰のタオルには、ただただ感動したのであった。 対談のテーマは「日本人の底力」であったが、話が盛り上がり、時間のたつのも忘れ、気がついたら予定の60分が経っていた。これを30分番組用に編集して放送する予定であったが、菅原文太氏は、カットするのはもったいないので、30分番組2つに編集してくれと指示をだされた。 番組のスタッフによると、このシリーズでこれまでに100回ほどの対談があったなかで、このような指示が出たのは4人目とのことで、これまた感激であった。
その、これまでの100回ほどの対談の中から、24人との対談集「6分の侠気4分の熱」が今年の4月5日付けで出版されたとのことで、菅原文太氏から署名つきのその本をいただいた。 対談の相手は、田中康夫氏、綾小路きみまろ氏、野中広務氏、佐治忠信氏、亀井静香氏、堀江謙一氏など超知名人が並んでいたのにも驚いてしまった。
2度とない折角の機会なので、用意してきた色紙にサインまでいただいたのであった。
帰りの飛行機が名古屋の近くを通った時、遠くにかすむ山陰を見ながら、何時の日か菅原文太氏の住んでおられる飛騨の山里を散策してみたいと思うことであった。