沼津の中にある伊豆
狩野川に沿って
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◆ 天城湯ヶ島
狩野川の源流は天城山だという。天城湯ヶ島町を流れる狩野川、中伊豆町を流れる大見川、修善寺町を流れる桂川が修善寺橋で合流して沼津で駿河湾にそそぐ。また、狩野川は東海地方で唯一北流する河川だそうだ(以上は前掲『伊豆と黒潮の道』から抜粋した)。
天城山は、伊豆の陸上交通の障害になるとともに、木材やわさび・椎茸などの自然の恵みを与えた二面性をもっている。クルマでは何度も通り抜けたが、山登りも峠越えもしたことはない。伊豆を分断させているにせよ、大きな恵みを与えた山系に違いない。河津七滝や浄蓮の滝など落差の大きい滝が周辺にある。
私の祖母は信心深い人であった。足柄の道了山(大雄山)・熱海の伊豆山と天城湯ヶ島の明徳寺に欠かさず出向いていた。どんな関係で信じたかは知らない。祖母が持ち帰る天狗せんべいとか温泉まんじゅうが私の楽しみだった。でも、信心の一部は温泉に出向く理由だったような気がする。熱海の伊豆山と明徳寺の周りには温泉が多いからだ。
余談になるが、自分は姑使えを避けたわりに、母には厳しい姑であった。伊豆のイメージには、テレビドラマの影響で「嫁いびり」があったが、祖母は立派に姑役を演じていた。それでも、初孫の私には優しくて甘い祖母に違いなかった。
明徳寺には、私が何度か運転して出向いたから多少の信仰はあったのだろう。沼津からはクルマでも三時間以上かかったから生半可な信心ではなかったようだ。「便所の神様」がお寺というのも神仏混交の日本人らしい。見栄をはる祖母だから、死に臨んでも失禁を恥じていたところもいじらしい。
天城湯ヶ島周辺は、伊豆の中でも鄙びた雰囲気が残っている。山に入れば清閑で、神秘な場所もある。でも、決して人里離れた里でもない。沼津の住民がここまで出向くという繋がりが何なのかは私には分からない。温泉に入りに出向くというだけではなさそうだ。
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◆ 大仁(おおひと)
伊豆に金山があったのはよく知られている。土肥(とい)・瓜生野(うりうの)・縄地(なわじ)・持越(もちこし)などは、佐渡金山が減少したことに伴って江戸時代に開発されたようだ。修善寺から大仁にかけて狩野川の土手を走ると瓜生野の金山跡もある。
でも、江戸時代からなら鮎釣りも同じだ。狩野川は鮎の友釣りで有名だが、これは江戸時代からの漁法のようだ。伊豆でも鵜飼が行われていて、その延長になるというがピンとこない。仲間をおとりにして釣るのは、鮎になわばり(テリトリー)の習性があることを利用したものらしい。鮎が鮎を食べるわけではない。領土を主張して、噛み付く習性を使って釣る。おとりの鮎もかわいそうだが、釣られる鮎もとんだ災難だろう。
中学の頃、狩野川の河口に鮎が大量に流れてきたことがある。カーバイトを使った不届き者の始末で、河川管理者はさぞ迷惑したことだろう。臭くてとても食えたものではない。鮎は塩焼きも美味しいが、カーバイトの臭さはたまらない。
それはともかく、広い川幅に、釣り人が川に入って釣る姿は大仁温泉付近の季節の風物誌となっている。川釣りを好む人は哲学者だといわれるが、釣り人の根気はただならぬものがある。
沼津からは、口野や三津から大仁を経由し、亀石峠に抜けて伊東市に繋がる。江戸時代には、西浦の鯛を江戸に運ぶために田中山(大仁町)を越えて網代(熱海市)に抜けるルートもあったようだ。たぶん三津から大仁を経て、山伏峠を抜けたと思うが私にはよく分からない。
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◆ 韮山・狩野川放水路
韮山は、源頼朝が流された蛭が小島と執権政治をした北条氏の本拠地であるとともに、豊臣秀吉に滅ぼされた後北条氏の本拠地であった。江戸時代には江川氏が代官となり、開明派の江川英龍(太郎左衛門)が反射炉を作ったりいろいろ活躍した場所だ。
韮山は、古くから伊豆の政治・文化の中心地だった。沼津の西浦や内浦は韮山代官の支配下にあって、地縁・血縁も深い。韮山高校は伊豆の名門校だったという。
それはともかく、韮山から北は、田方平野の広がりの中で多様な農業が展開している。温泉だけでなくイチゴ栽培も盛んだ。
隣の伊豆長岡町から沼津市口野まで放水路が作られ、国道四一四号が並行して走り、沼津から伊豆の中央部に抜けるクルマが多数走る。
この放水路は、一九五八(昭和三三)年九月の「狩野川台風」が中伊豆を襲い、死者三三一人・家屋流出一〇四四戸の被害を出した後に作られたものだ。一九六五(昭和四〇)年に完成するまで、台風が接近するたびに緊張した思い出も私にある。
千本松原を吹き抜けるヒューヒューという不気味な風きり音とか、遠くから打ち寄せる高波の重低音に加え、側溝の増水とか堤防の決壊を気にしながら、電気の消えた暗闇の中で眠れぬ夜を迎えたものだ。
台風が通過する経路にあたる静岡県でも、伊豆はとりわけ被害が多い場所だった。増水に伴う被害は上流だけでなく、河口の沼津にも影響を与えたことは忘れてはなるまい。
東京や横浜に住んでいると他人事に映る台風は、伊豆や沼津では、昔から騒がれている地震よりも、今でも身近な災害に変わりがない。沼津は、西海岸はもとより狩野川流域と似たような風土性を持っているようだ。
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◆ 諸流の合流
駿東郡清水町まで北上してきた狩野川は、香貫山(一九三米)を巻いて南下し、山ケ下から沼津市に入る。
余談になるが、清水町は沼津市と三島市に挟まれた裕福な町だ。富士山の豊富な水を利用した工場の進出により早くから財政的にゆとりがあったようだ。有名な「柿田川湧水」は富士山の伏流水であり、天城を源流としていない。
柿田川は山ケ下の上流で狩野川に合流する。富士山を源流とする黄瀬川(きせがわ)も山ケ下の下流で狩野川に流れ込む。
厳密にいえば、沼津に流れ込む狩野川は、天城水系と富士山水系(呼び名は不正確かもしれない)が混合している。狩野川の河口は駿河国と伊豆国の混ざり合う場所だ。それは、沼津の町の性格を反映しているのかもしれない。
黒瀬橋は、台風の増水でたびたび決壊したものだ。木造の橋だったこともあるが、狩野川に合流する水量に耐えられなかったのだろう。河口に架かる橋の中でも異常に高く作られているのも増水を見込んだからだろう。
黒瀬橋の下流には、三園橋・御成橋・永代橋・港大橋がある。一番早く鉄橋化した御成橋が一番古い鉄橋になったのも時代の流れだろう。御用邸に向かうために作られた橋だが、既に下田に移転してしまった。御成橋と永代橋の間を使って、昔から七月末の週末に花火大会が開催される。墓参りは忘れても、生家に兄弟が集まる機会だ。
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◆ 香貫山(かぬきやま)
私が沼津を出てから、香貫山にあった天文台は撤去された。城の形を真似た白壁の天文台がなくなったのも寂しい。見慣れた風景になっていただけに、何の理由で撤去されたかは別にして、間抜けな感じがする。
香貫山は、幼い頃の私には冒険の場所だった。登山道を使わず、霊山寺の墓から直登するのが近所の仲間のしきたりだった。年が違う者同士が、手をつないで助け合って登った。度胸試しに夜に天文台に出向いたこともある。沼津の町の広がりを一目でつかめる場所でもあった。生家から登山口までは、子供の足で歩いて一時間ぐらいかかった。「川向う」に出向くというので、仲間同士が結束して行動したのも懐かしい。
数年前の正月に、二十年ぶりで香貫山に登った。妻も息子も一緒だったが歩くのを渋ったので、娘と山頂まで歩いた。公園は整備中だった。富士山は少し霞んでいた。歩きながら沼津の歴史を娘と話したが、横浜で生まれ育った娘にはピンとこないようだった。
展望塔に登り、沼津の景色を見せると娘はようやく私の説明が理解できたようだ。遠くは、清水市から富士市に大きく駿河湾が食い込んで海岸線がカーブを描き、沼津の河口を経て、静浦・内浦・西浦から大瀬崎に繋がる海岸線に感激していた。眼下に広がる市街の中を狩野川が大きく蛇行して駿河湾に注いでいた。
それは、二十数年前に渋る父母を誘って、クルマで香貫山に登ったときに似ていた。毎日観ている香貫山に母が初めて登ったというのも意外だった。「こんなに見えるなんて」と母が呟いたのを思い出す。
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