6 北山修の詩 
フォークのことあれこれ


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目次
 ●花と愛の詩
 ●愛とあなたのために
 ●フォークル以後
 ●愛唱詩
 ●気恥ずかしい唄
 ●教訓めくが



(1)花と愛の詩

 関西フォークは政治や社会に積極的に立ち向かう側面を多く持っていたが、音楽はそれのみでは成り立たぬはずである。同じように関西フォークと呼ばれる歌い手たちにも彼らの独自性がある。フォーク・クルセイダーズ(フォークル)は岡林信康たちと別の音楽性があったと僕は思う。詩の側面に限ってみても大きな相違を感じる。

 北山修の詩は、関西フォークに《フォークル以後》と呼ばせる内容を象徴している。吉田拓郎などの生活派フォークとは別のニアンスを含んでいるのも事実である。彼の詩はやはり関西フォークに近い。しかし、表現方法に差がある。《花》や《愛》を新たに取り上げ、「美しい」イメージをかもし出す詩を提示し、人間の原初的(原始ではない)かつ素朴な感情を基調とした社会のとらえ方を可能にさせたのは北山修であった。

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愛とあなたのために

 岡林信康の詩は、直接的に社会や政治へ訴えかけようとするボブ=ディラン風の香りがただよっていた。たとえば、次の詩はその香りが強く打ち出されている。

       私達の望むものは 生きる苦しみではなく
       私達の望むものは 生きる喜びなのだ
       私達の望むものは 社会のための私ではなく
       私達の望むものは 私達のための社会なのだ
 ♪
              (岡林信康作詞、『私達の望むものは』前節)

 なになに「なのだ」という押し付けがましい語尾に当時の香りを感じるものの、「社会のための私ではなく、私達のための社会なのだ」という主張は関西フォークに貫徹したものだったはずである。もろん、これと似た主張を含みつつ表現を異にする詩を北山修は作っている。次の詩はジローズが唄ったものだが北山らしさを僕は感ずる。

       
 愛とあなたのために わたしは
       この世に生きているの わたしは
       二人でみつけた この幸せよ
       いつまでも 変わらないで
       愛とあなたのために わたしは
       この世に生きているの わたしは
 ♪
            (『愛とあなたのために』最後部)

 この2つの詩を比較すれば、岡林が社会と自分たちを結びつけ力強く自分たちを押し出すのに対し、北山は「わたし」と「あなた」を結びつけ社会から逃避しているかのように映る。しかし、表面的には逃避しつつも、そこには強固な自我(あるいは主体性)が打ち出されているのだ。
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フォークル以後

 このような迂回的な表現をすることにより、あなた=わたしの視座によって、政治性を薄めつつ社会性と個人の世界を強固なものとしたのは北山修ならではとはいえないだろうか。関西フォークにあった《毒気》を抜いてしまったといえばそうなのだが、それとともに表現の多様さを提示したことも認めるべきであろう。

 政治や社会に直接訴えかけようとする傾向があった岡林たちの関西フォークは、その《毒気》ゆえに若者層だけにしか受け入れられぬ狭隘(きょうあい)さがあったはずである。彼らは、フォークソングないしプロテストソングの殻を抜け出すことができなかったといえまいか。歌い手の人格と唄が密着せざるをえなかったところに音楽性なり詩なりの限界があったはずである。人格と音楽とを切り離すことによって限界を広げたのも《フォークル以後》のことだったのではなかろうか。
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(2)愛唱詩

 北山修はフォーク・クルセーダースの一員であったがために歌わなかった。だが、彼の詩は多くの歌い手によって広く流行したものだった。元のメンバーの加藤和彦や端田宜彦
【★端田は追加メンバーだそうだ=補足】はもちろん、ジローズ、ベッツィ&クリス、シューベルツその他に提供されたのだ。『何のために』、『さすらい人の子守唄』、『あのすばらしい愛をもう一度』、『初恋の人に似ている』、『白い色は恋人の色』、『』、『涙は明日に』、『戦争を知らない子供たち』、『どっちでもいいじゃないか』などの多数のヒット曲が残っている。これらの詩は、これからも若者の唄として歌われ続けられてもおかしくないはずである。 

 僕とのかかわりで北山修をとらえれば、初めてフォークにかかわったグループの一員だった。『帰ってきた酔っぱらい』がヒットしてからファンになったのだ。でも、フォークルよりもジローズの作詞で彼の作品になじんだ。北山修はエッセイも多く書いていて、その内容がおもしろかったせいもあろう。いたずらに肩を張ることをせず、いろいろな話題を取り上げ、柔軟性とユーモアに富んだ筆法は北山修の人柄によっているのかもしれない。
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気恥ずかしい唄

 ちょっと皮肉っぽく映るものの、それでいて憎めない内容は次のフレーズである。

         
 あのとき同じ花を見て
         美しいと言った二人の
         心と心が今はもう通わない
         あの素晴らしい愛をもう一度
         あの素晴らしい愛をもう一度
 ♪
              (『あの素晴らしい愛をもう一度』第1節)

         
 そうよ あなたは似ている初恋の人に
         好きだった でもそれは
         いけないことじゃないけれど
         言っちゃいけない
         いまは あなただけなの
 ♪
              (『初恋の人に似ている』)
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教訓めくが

 僕を含めて、僕らの世代は群れたがる反面に唯我独尊を好む矛盾した傾向がある。次の詩はシューベルツが歌っていたが僕がときおり口ずさむフレーズがあるので蛇足ながら付け加える。

         
 帰っておいでよと 振り返っても
         そこには ただ風が吹いているだけ
         振り返らず ただ一人一歩ずつ
         振り返らず 泣かないで歩くんだ
 ♪    (『風』

 いささか教訓めき、僕自身の独断の押し付けを許してもらえば次のフレーズは最も気に入っているものだ。いつも悔やんでばかりいながら、それにもかかわらずのめりこんでしまう僕の弁解に使っているのだが・・・。

          
時計の針はもどせない 帰ってはこない
         だけど君が泣くのは 今じゃない
         涙は明日に 明日に
 ♪
                (『涙は明日に』)

         
 どっちでもいいじゃないか 
         どっちでもいいじゃないか
         右へ行こうと左へ行こうと
         歩いてゆくのが疲れたのなら
         道端で休んでいけばよい
 ♪
               (『どっちでもいいじゃないか』)
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