「エルス嬢……!!」
彼の叫びが聞えた。私は目を見開き、自分の体が今しも湖に沈んで行こうとしているのに気付いた。
もがこうとする手は、何故か酷く小さくて弱弱しい。叫ぼうとすると、にゃあ〜という高い声が上がった。

これは猫だ。

私は、頭の片隅で酷く冷静に考えていた。
どうやら、私は猫に変身して、湖に落ちたらしい。

そう思う間にも、小さな体は冷たい水の中に引き込まれていく。
最後に彼の姿を見たいと、必死で瞳を見開いた。
湖のほとり、小さく浮かぶシルエット。しかし、それはすぐに湖の中に消えた。

あ…れ?

どうして、あの方まで湖の中にいらっしゃるの…??

よく判らない。頭がちゃんと動いていない。
一度沈んだ体が、ぐっと水中から掬い出される。
あの方が私の傍まで泳いできて、私を抱き上げていた。

「ヴァンパイアは通常水には足を踏み入れられません…貴女、死にたいんですか…?!」

にゃあ…怒られた……。

ぺしょん、と耳が寝たのが判った。
彼の迷惑になるぐらいなら、死んでしまった方がいいとは考えた。
けれど、積極的に死にたいとは思っていない、筈なのだが。
猫になっている理由も、この前に何があったかも、私は思い出せずに居た。

どうしてこの方は、猫の姿で私だと判ったのだろう。
どうして…飛び込んで下さったのだろう。
………。
どうして…
怒ってくださるんだろう……。


考えれば考えるほど、私はどうしていいのか判らずに、岸に上がるまでただ彼の手にしがみ付いて震えていた。

胸が酷く痛かった。
そして、苦しかった。











***











また、逃げられましたね、とファニエルは呟いた。

彼は、天界でも珍しい”星渡り”という力を持っている。
時間と空間を越えて、相手に干渉できる力。
しかし、何度試しても、この後に来る”エルスの消滅”を止めることは出来ない。

魂を失った彼女の肉体は、やがて新たな”魔王ルシフェルの欠片”の器となり、堕天の女王・ルイ・サイファーを降臨させてしまう。

「精神界で、未熟とはいえ魔女とやりあうのは、些か部が悪い」
物憂げにファニエルは執務室の椅子から立ち上がる。彼の”星渡り”は不完全なもので、過去に飛ばせるのは精神だけだ。
また、干渉できる時間や場所も酷く限られていた。
「今の天界には、二人の魔王を同時に相手にする余力はないのですがね…」
丸い窓から天界を見下ろす。
瑪瑙色の雲海に、透き通った枝が幾重にも伸びて、その上に建つこの”監視塔”を支えている。
まるで、枝に咲いた小さな花のようだ。

その脆くも美しい景色に、ファニエルは皮肉な笑みを刻んだ。












***












薄暗い寝室で、私はぼんやり瞳を開いた。
高い天蓋とそこに揺れる帳が、少し歪んで見える。
身動きをすると、白い腕が伸びてきて私の頬を拭った。
「どうしたのですか?」
「………え」
涙が、とその人は優しく微笑んだ。
シーツの上の体をゆっくりと近づけて、彼の胸あたりに頬を寄せる。
ふんわりと、甘い薔薇の香りがした。

「ゆめを見ました……」
「夢?」

女性のように長くて優美な指が、私の黒髪を何度も梳き上げてそっと首筋を辿る。
「懐かしくて…少しだけ胸が痛い…ゆめ……」
うっとりと息を吐きながら目を閉じる。
「そう……」
胸の痛みを思い出し、両手を伸ばして彼にぎゅっと抱きついた。
「……どうなさったの?姫君」


夢の中、泣いていたのは私?それとも……。


「さぁ、もう少し眠りましょう。目覚めるにはまだ早い」
彼の囁きに、こくこく頷く。
それから少しだけ目を上げて、彼の淡い灰色の瞳を見つめる。
「お休みのキスをしてもいいですか…?」
彼が微笑んだのを見て、私はそっと顔を寄せる。
赫い唇に啄むように触れ、かぁっと赤くなった頬を彼の胸に隠した。

ぽたりと落ちた小さな雫は、優しい腕に溶けて消えた。


あとがき