この胸を掻き乱すのは、ただ平和で穏やかな日々。
心から望んでいながら、けしてその一部にはなれないと思っていた。

広場に立って、ふと空を眺めた。 上の方は風が強いのか雲が行過ぎるのが早いようだ。
千切れて流れる雲が、どこか不吉な印のように思えて。
靡く髪を押さえながら、ただ立ち尽くした。

「今日は、お月様がキレイですねぇ〜」
楽しそうな声に振り返ると、広場の噴水の縁に加海様の青い髪が見えた。
少しだけ心が緩んで微笑む。隣に腰掛けると、竪琴を奏でながら、美しく柔らかな声で歌ってくれた。
まるで、海を渡る透き通った風のような音色。

「加海さまみたいに、なれたらいいんですけどね…」
私が頬杖を付いて笑いながら呟くと、彼女は青い宝石のような瞳をくるくる巡らせて、首を傾げた。
「エルスさまはぁ〜、エルスさまでぇ〜、いいと思いますよぅ〜」
「でも、私は迷惑な奴なんですよ」
溜息を吐く。加海様は、またコクンと首を傾げた。
「わたしはぁ〜、迷惑掛けられていないですけどねぇ〜?」
「……ありがとうございます、加海様」

「こんばんわ〜!」
ふわりと羽音が響いて、優しい少女の笑顔が月に照らされた。
「楽しそうな声がすると思ったら…お前たちか」
スラリとした妖魔の女性の、不器用だが暖かな笑みも見える。

ずっとこんな日が続いたらと、ただ、そう願っていたのに。














とくん、とどこかで心臓の音を聞いた。
私の意識は、闇へ闇へと落ちていく。

ああ、この身が消える時は、あの方の傍がいいと願っていたのに。
その夢は叶わないのかもしれない。
きっと、あの方はここで私が死んでも、何も変らず笑っていらっしゃるだろう。
少し寂しいけれど、あの方が幸せであることが私の望みだから。


「…それでは、貴女には彼に対する影響力などないと?」
とくん、とくん、と鼓動が響いている。遠くで誰かの声が聞える。

「そうです。私など捕らえてもまったく無駄というものですよ」
人質の価値などありはしない、と呟く。

「本当に?本当にそう思っているのですか?」
どこか嘲るような声が、私の鼓動を塗りつぶす。

「私のことなど。最初からお戯れであったのですから…」
「そう思いたいのは、貴女自身ではありませんか?」
「そんな…ことは…」

とくん、とくん、という音が小さくなっていく。酷く…眠い。

「貴女は争うのが厭なのだ。最初から自分を数に入れなければ、誰とも争わなくてすむ。
彼が別の誰かに恋をしても、仕方がないのだと思い込めばいい。
でもそれは、彼の想いに向き合うことも、自分から求めることも、最初から逃げてしまっている。非常に卑怯ですね」
「………」
「悪魔が戯れで今まで傍に置いたと本気で思っているんですか?」
「……それは…偶然あの方が…」
「一つだけならただの偶然ということもありましょう。しかし、これだけ重なると…貴女への好意が見て取れる気がしますが?」

相手は笑っている。楽しそうに。
その声と言葉が酷く皮肉めいているのに、笑いだけは水晶の鈴のように涼しげだった。

「形はどうであれ、貴女に執着があるんですよ。そう私は望んでいます。
じゃなければ、わざわざ貴女を浚った意味がないですからねぇ」


うっすらと目を開く。ここはどこなのだろう。
周りを見るときらきら輝く硝子のような透明な壁。それが遥か上まで続いている。どこからともなく、淡い光が差し込み周囲を照らしていた。

傍にいるのは、どうやら天使……のようで。
銀のような光沢のある、淡い水色の髪。笑みを浮かべた薄い唇と、冷たい青の眼差し。
それは、どことなく魔のもののような。
けれど、その背中には一対の美しい翼があって、南国の海のような鮮やかな瑠璃色をしていた。

「初めまして。ファニエルと申します」
アイスブルーの瞳をした天使はそう名乗った。

「私を浚って、どうするおつもりですか?」
ようやく、自分の声を直に耳で聞いた。
「さぁ、どうしましょうか。
貴方は天界に還る気はないようですし」
クスクスッとまた笑う。
この天使は、無理に私を天界に引渡す気はないらしい。

「貴女の命と引き換えに、あの悪魔がルシフェルを裏切るように仕向けてみますか。それとも、彼の命を差し出して……」
「止めて、止めて下さい!!」
自分の声が悲鳴のように響いた。
「……ほら、今、思ったでしょう。万が一、と。万が一、自分にそんな影響力があったら。彼を少しでも困らせてしまうような」
「…………」
眉を顰める。単に挑発しているのか…あるいは、時間稼ぎか。
時間稼ぎ?私がいなくなっても、あの方は気にしないだろうに。
小さく笑うと、彼は冷ややかな眼差しで私を見た。

「…よく判りませんね。貴女は死にたいの?」



生きたい、と願うことは、私が抱えている魂たちへの裏切りに他ならない。
いつか、消える日が来るまで、あの方の傍に居たいと願った。
それが、生きたい、ということなのかも、解らぬまま。

それでもやはり、私は消えて行くのだと思っていた。
彼がずっと私を、傍に置くとは思えなかったから。
それを望むことさえ、過ぎた罪のように思ってしまうから。
愛している、と何度囁かれても、それをどこかで疑っていて。
…それは、あの方への裏切り……なのかもしれない。



「卑怯ですよ。貴女は卑怯だ」
ファニエルは、感情の篭らない口調で呟いた。
「恋をするならば。命の長さは関係ない。全てを相手に背負わせてしまうことなく、 共に生き、共に笑い、支えあって喧嘩もし。
例えいつか離れてしまっても、その哀しみさえばねにして、自ら幸せに向かおうとするしなやかな力を、持っている筈じゃないんですか?」

……知っている。

この想いが歪んでいるのは最初からよく判っている。
けれど、自分でもどうしようもない。
ここでの出会いは、皆特別なもので。
誰一人として、他では変えがたい。

そして、私の命を繋ぎ止める楔には、彼しかなれないのだ。




    エ

        ル

     ス

           





不意に、とくん、と大きな鼓動が鳴った。
水を浮上するように、急激に体が覚醒していく。

ファニエルが腕を伸ばしたが、ほんの一瞬の差でその指は私を擦り抜けていった。


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