バサバサと、軽い羽根の音が聞えた。

「…貴方でしたか」
軽く瞳を閉じていた私は、そっと目を開いて呟く。
街の灯りが、遠く見える大樹の下。
「こんな所で野宿なんて、危険すぎるんじゃないのかい?」
青年は、からかうような声音で答えを返す。
月光に照らされたその姿は、 神々しいまでに美しい、とさえ言える。
本人をよく知っている所為で、容姿など気にも止まらないが。

「おまけに、君から血の匂いがする」
「……そうですね」
黒髪を揺らして、私は少しだけ笑う。
切れた唇は僅かに脹れ上がっていたし、手首に付いた痣も些か目立つかもしれない。
微かな月明かりの下であっても。

「こんな姿、あの方にはお見せ出来ませんね…」
呟いて立ち上がる。ふわっと風に靡いた大きなストールで、体を包み隠すように。
「でも、貴族たちの宴なんてこんなものですよ。私は、これでお金を貰っているんですから」

「…一つ、聞いてもいいかな?」
彼はその神聖さと懸け離れた、おどけた笑みを浮かべた。
「自分を可哀想だと思うかい?」
「思うわけないでしょう。馬鹿馬鹿しい」
私の声は些か棘を帯びて冷たかった。
彼を前にすると、いつも少しだけいらつくような感覚がある。
それは、彼、ツァドキエルが私の元”守護天使”であり、自分でも知らない子供の頃のことを知っているから、かもしれない。

「君の状態は、可哀想、と思われるのに相応しいかもしれないよ」
「……私が可哀想だとしたら、私が殺してしまった何万の魂は、誰が憐れんでくれるんです?」
さぁてね、と彼は言った。
「人は、自分を憐れむので手一杯なもんさ。祖国を失い、記憶を無くし、娼婦にまで堕ちて、その上、今は悪魔の囲われ者……」
「貴方のそういう所が、私は嫌いですよ」
わざと私を怒らせようとする態度に、小さく溜息を吐く。

彼がこんな物言いをするから、天使はみんな性格が悪いのかと疑っていた。
この国での出会いで、勿論とても可愛らしくて優しい天使もいることを知ることが出来たが。
…むしろ、彼が少数派だと信じたい。

「あの方は、私が傍に居たいと望んでいるから、置いて下さっているだけです。
いらないと仰ったら、いつでも消えますよ」
「……君は、毎日死者の呪詛を聞いているんだろ?」
ツァドキエルは、静かに笑った。
「亡霊の苦しみを、君への呪いの言葉を。そして、消滅への望みを」
「それが私の業ですから」
彼は片方だけの翼を羽ばたかせて、空へ舞い上がった。


「取り違えては駄目だよ、君自身の気持ちと」



なぜ彼がそんなことを言うのか。
私は、暫し暗い空を見上げていた。


私が殺した幾万もの魂。
天に昇れなかった祈り。
彼らがずっと、私を戒めてくれた。

死ぬのは怖くない。
この心が、魂が、無に還るだけ。
慈悲深い混沌(カオス)の海は、私の全てを溶かして飲み込んでくれる。

生きることは、罪であり罰。
多分、それ以上の意味を今まで持ったことはない。

所詮、人は誰も傷付けずに生きることなんて出来はしない。
どれほどそれを望もうとも。
業を負っている身なら、なおさらのこと。
世界と関わらずにいようとする狂おしい程の努力さえ、簡単に崩されてしまう。
人であるゆえに。
人の運命を、歪ませてしまう。


”けれど、もし愛する人が、私を失いたくないと言ったら。
私は生きたいと願うだろうか……”


胸元に鋭い痛みが走った。
何気なく手をやると、指先が紅く紅く染まる。
左胸に穿たれた白百合の刻印から血が滲み出して、涙のように零れた。


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