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無題。 この身の内側にある、無数の亡霊が囁く…。 ”還りたい。” 判っているから。大丈夫。 私は幸せになれない。 幸せになってはいけない。 いつか、貴方たちを抱いて、混沌(カオス)の海に還るまで。 もう少し。 少しだけ待っていて。 目が見えなくても、その屋敷の豪奢さは伝わってきた。 例えば、杖を付いた音の響き方とか。 ふと手に触れた、家具の縁の彫刻とか。 座り心地のいい長椅子に腰を下ろして、私は微笑みながらこの屋敷の主と話す。 彼は、盲目の私を気遣い、優しく接してくれて。 その申し分ないエスコートも、仄かな薔薇の香りも、私を夢見心地にするには十分で。 酔う程の量ではない、グラスのワインも。少しだけ私を浮かれさせる。 「私は、貴方に想いを寄せていますから」 つい、零れてしまった言葉に、彼が笑った気配がした。 「一体、何の冗談です?」 冗談…そう、冗談ですか。 私は見えない目を閉じて、そう呟く。 「……笑われると思ったのですが、本当に笑われましたね」 それが、私の恋の終わる瞬間だった。 自分がこの地を離れる前に、思わず打ち明けてしまった想い。 それは一笑に付されて、私もただ笑ってみせて、何も無かったかのように別れを告げて、そして…彼は私のことなど忘れるだろう。 本気なの?と聞かれた。 溜息を吐いた私は、次の時彼の腕の中にいて、優しく抱き締められていた。 恋が終わる筈…の瞬間… 「嬉しいですよ」 エルス、と囁かれる。今、私はどんな顔をしているだろう… そして、彼は……? 柔らかく、薔薇の香りが体を包み込む。 そっと唇が、触れ合う。 それがあまりにも嬉しくて。 胸の奥、遠い場所で私が自分を嘲笑う声がする。 こんなに沢山の魂を哀しみに貶めても、罪深い心は幸せを求めずにいられないのだと。 「私に変らぬ愛を誓ってください」 冬の寒い夜。街にはクリスマスが近付いていた。 瞳と声を治して貰い、彼の方の屋敷に住むようになっていた私は、招きを受けて彼の部屋にいた。 恋は盲目……この目は見えるようになったというのに、私はここを離れることもできず、彼の眼差しに、言葉一つ一つに、深い喜びを感じていた。 「……変らぬ愛を?」 彼に比べれば泡のように儚い命でしかない私が、恒久の時を持つ人に永遠の誓いなど立てていいのだろうか。 戸惑う私に微笑む彼は、ただ優しく笑った。 「例え貴女が天界に連れ去られても、冥府に落ちても…… きっと、取り返してみせる。そのくらいの気持ちです」 ふんわり包まれる手のひら。 そこには彼が指に嵌めてくれた白金の指輪。 そして、私に渡された揃いの指輪。 彫られていたのは……私の名前。 「エルス、貴女の手で、わたくしの指に嵌めてください」 しなやかな綺麗な手に、そっと指輪を嵌める。 この全てが、夢か幻であっても。 私はもう戻れないだろう。 幸せを知る前の日々には。 心から零れた吐息のように、彼に囁いた。 「貴方を愛しています…ずっと、永遠に」 ポトリと、温かな涙が溢れた。 冷たい冬の空気も、もう、感じられなかった。 ほら、こんなに私は笑っている。 心から、嬉しそうに。 貴方の傍では、私は幸せでいられるのに。 一人の夜は、この身を蝕む絶望に負けてしまう。 全て消し去りたいと叫んでいる、この慟哭に。 私は、幸せにはなれない。 けして、幸せになってはいけない。 それが、大勢の命を奪い、その幸せを奪った私の贖罪。 私など、少しも愛していないと言って。 全て、私の勘違いだと笑って。 そうすれば、私は、この罪に殉じて消えていけるから。 どんなに苦しみ、哀しもうとも… 足りることは無い、私の罪業。 NEXT |