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History of Primal Scream

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アラン・マッギーとの出会い

1961年6月22日にスコットランドの大都市グラスゴー近郊のスプリングバーンで労働組合のリーダーである父の長男として生まれたボビー・ギレスピーは、その父の影響もあり社会主義の考えを持って育っていった。
10代のころに学校の1つ上級生だったアラン・マッギーと3歳年下のロバート・ヤングと知り合い、サッカー・フリーク(まぁ、イギリスじゃ当たり前だが)という共通項から3人はいつもツルムようになっていった。学校を卒業したボビーは一度は印刷工場に勤めるも、あまりのつまらなさに絶望しとっとと辞めてしまう。
そんな中、77年になるとイギリス全土をパンクの嵐が席巻し、ボビーもまたパンクに魅了されていった。アンドリュー・イネスと出会ったのは、ボビーが音楽に夢中になっていた16歳の時だった。アランに紹介されて2人が初めて顔を会わせた時に、イネスはピストルズやジャムなどの曲をギターで弾きまくった。それを見たボビーはテレビの中ではなく、自分の周りにそんなすごいヤツがいるのかと思い、アランがベースを弾き、ボビーが歌を唄った。しかし、これはほんのお遊び。ボビーが本格的に音楽を自分でやり始めるのはそれからもう少し時間が必要だった。

ジーザス&メリーチェインでの伝説の暴動ライヴ

ボビーはザ・ウェイクというバンドでドラムやベースを少し担当していたが、パーマネントなバンドにはならなかった。パンクが完全に終息してしまっていた82年ごろにボビーはジム・ビーティと出会う。お互いに息投合しながら、ギターをデカイ音で掻き鳴らし、ひたすら叫んでいた2人は自分たちに相応しいバンド名としてプライマル・スクリーム(原始の叫び)と名付けた。(ちなみに、ジョン・レノンがビートルズ解散後に受けたプライマル・スクリーム療法(幼児期の抑圧を解放する精神療法)のことは全然知らなかったらしい)
その一方で、ボビーはデイジー・チェインというバンドで活動しているウィリアム&ジム・リード兄弟と知り合う。このデイジー・チェインこそがジーザス&メリーチェインの前身バンドである。
その頃アラン・マッギーは銀行から1,000ポンドの融資を得て1984年に自身のレーベル"クリエイション"を設立(クリエイション・レーベルとアラン・マッギー)し、84年にはメリーチェインとも契約を結ぶことになる。しかし、メリーチェインからドラマーが脱退してしまったため、その後釜として白羽の矢がボビーに立ち、ろくにドラムを叩けないにもかかわらずボビーはメリーチェインのドラマーとして迎え入れられることになる。
メリーチェインは84年10月にリリースしたデビューシングル"Upside Down"(ボビーはドラムを叩いていない)一曲と、フィードバック・ノイズと轟音渦巻くパフォーマンス、常に暴動で終わるという今では伝説と化しているライヴでイギリスの音楽メディアの注目を集めていった。
ボビーはこのメリーチェインと自身のプライマル・スクリームの活動を並行して行い、85年5月にはプライマルのデビュー・シングルとして同じクリエイション・レーベルから"All Fall Down"をリリースしている。
85年11月にリリースされたメリーチェインのファースト・アルバム「サイコ・キャンディ」のレコーディングにもボビーは参加していたが、リード兄弟が86年2月にフルタイムのドラマーになるように言ってきたため、ボビーはプライマルに専念することを決意した。

プライマル・スクリームでの挫折

ボビーはビーティーと曲を作り、旧友のヤング、イネスと共に87年10月に12弦ギターのバーズ風サイケ・ポップな最初のアルバム「ソニック・フラワー・グルーブ」をクリエイションとワーナー傘下のWeaとのジョイントレーベルであるエレベイションからリリース。自信をもって送り出したアルバムであったが一部の熱狂的なファンを獲得するも評論家に酷評され、チャートでは62位と振るわずレーベルのエレベイションは消滅。メンバーとの亀裂も起こり、ビーティーがバンドを脱退してしまった。
息消沈したメンバーはそれでも再び曲作りに励み、ベースを弾いていたヤングはギターを取り、ガレージ・ロック調のアルバム「プライマル・スクリーム」を89年6月にリリース。
そして、時代は大きなウネリを迎えようとしていた。

アシッド・ハウスに"E"ドラッグ

プライマルのメンバーがハウスとエクスタシーという名のドラッグに遭遇したのは87年だったが、89年にはイギリス全土がハウスとエクスタシーにすっかり覆われていた。この"E"革命こそがプライマル・スクリームを全英一のバンドへと押し上げていったのだ。
メンバーがハウスとエクスタシーにのめり込むと、前作でのガレージ・ロック調の曲をあっさりと捨てて、ハウス・ミュージックに接近。アンディ・ウェザオールと組んで"Loaded"に"Come Together"というもろアシッド・ハウスな曲を矢継ぎ早にリリース。極めつけはボビー自身「"Anarchy In The UK"以来、最も重要な作品」と言えるほどの曲"Higher Than The Sun"を91年6月にリリース。その勢いをそのまま持ちこんだアルバム「スクリーマデリカ」を9月にリリースすると、プライマル・スクリームは一躍時代の寵児となった。
しかしながら、彼らのライヴはその日によって出来が極端にわかれ、時には最高のライヴを見せるようだが初来日に僕が見たライヴは最悪の出来。その他の日もよかった時と悪かった時の差が激しいようで、そこがまたイイという人もいるようだが、最悪の出来のライヴに当たったときは本当に「金返せ!」と思うようなひどいものだ。この時のライヴは今でも僕のワーストのライヴのNo.1だ!

成功の後に残されたもの...

ついに成功を手に入れたプライマルだがその代償も大きいものだった。メンバーはどっぷりとドラッグに浸かり、それぞれがばらばらの状態だった。過去のバンドと同じように、ヘロインという悪魔がプライマルにも否応なく襲いかかっていたのだ。このような状態では次へ進むことなど到底出来るはずもなかった。
この状況を打開するためにメンバーはメンフィスへと飛んだ。トム・ダウドやジョージ・クリントンといった錚錚たるプロデューサー、ゲストを迎えレコーディングを開始。そして出来あがったアルバムは当然のごとくサザン・ソウル・テイストたっぷりのものに仕上がった。「ギブ・アウト・バット・ドント・ギブ・アップ」そう名付けられた4枚目のアルバム(94年3月リリース)だが、ボビー自身はこのアルバムをあまり評価していないようだ。オーバープロデュースだったりして、最悪の状態の時のありのままの姿がこのアルバムには映し出されていないのだという。崩れかけていたとしても、ありのままの自分をさらけ出すことが時には美しくもある。その瞬間を捕らえることがいいレコードを作る事になる。ボビーはこのことをこの時に学んだようだ。

ダブへの接近とマニの加入

96年にはサッカーの欧州選手権であるユーロ96がイングランドで行われたが、その時にサッカー・ファンでもあるプライマルがサッカー・ソングとして"The Big Man And The Scream Team Meet The Barmy Army Uptown"なる長〜いタイトルの曲を映画『トレイン・スポッティング』の著者でも有名なアーヴィン・ウェルシュと組んでリリース。しかし、過激な内容のこの曲は即座に放送禁止になり、UEFA(ヨーロッパ・サッカー協会連合)も発売を禁止した。
この時点でプライマルはダブを取り入れて、次なる変化への予兆を見せていた。
新しいアルバムのレコーディングが進む中、事件が起きた。ストーン・ローゼスが突然解散を表明。ベーシストのマニがボビーに誘われてなんとプライマルのベーシストとして正式に加入したのだ! ここにプライマル史上最強のバンドメンバーが揃ったのだ。
さっそくマニも新作のレコーディングに参加。"Kowalski"と"Motorhead"の2曲のみの参加となったが、この2曲でマニらしい迫力あるグルーブ感溢れるベースを聴かせてくれている。
映画『バニシング・ポイント』というタイトルや主人公の「コワルスキー」といった音の響きがいいということで、そのままのタイトルを付けたアルバムを97年6月にリリース。ダブ・サウンドという新しい音をまたしてもヤツらは自分たちのものとしてしまった。
さらに同年10月に「バニシング・ポイント」のダブ・ヴァージョン・アルバムである「エコー・デック」をリリース。11月の来日公演を見に行ったが、この時は前回の雪辱を晴らす素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた。雪崩れるような音の塊に圧倒された。そして、とにかくマニはステージでよく喋るしゃべる。今思えば、この辺りからプライマルのライヴは常にいい内容のものになってきた気がする。これは超楽天家マニの加入が大きく影響しているに違いない。

プライマル・サウンドの確立

さらにプライマルはマイ・ブラッディー・ヴァレンタインのケヴィン・シールズを招いて"If They Move, Kill 'em"をリリース。この後ケヴィンはプライマルに深く関わるようになる。
ボビーは港湾労働者のためのチャリティー・ライヴに出演したりベネフィット・アルバムに曲を提供しているが、98年3月にはエイジアン・ダブ・ファウンデイションらと共に冤罪で投獄されているとされるサトパル・ラムのベネフィット・ライヴにも出演。実際にムショにいるサトパルを訪ねてもいるし、2000年には釈放を求めて抗議運動に参加したりもしている。
ニュー・ミレニアム間近の99年11月には"Swastika Eyes"をリリース。同年3月のNATOのユーゴ空爆を揶揄して、おれには見える/暗示をかけて/ポリシーを抹殺する/軍需産業/民主主義なんて幻想/お前らの目には逆卍があるゼ! と過激なレベル・ソングを書き上げた。
そして、2000年1月に「エクスターミネーター」をリリース。デビューから一時期を除いてクリエイションからリリースしてきたプライマル・スクリームだが、このアルバムを最後にクリエイション・レーベルは閉鎖されるという。しかし、その最後を飾るに相応しく、新たにテクノ・トランス調のサウンドを注入しつつ、今までのプライマルの要素を全てぶち込んだ超攻撃的なアルバムはこれぞプライマルズと思わず唸るほどの出来になっている。1曲目の"Kill All Hippies"のタイトルからしてすでにスゴイが、激しいベース音が炸裂する"Accelerator"、ドラッグ・カルチャーを取り上げた"Exterminator"、「Fuck」を繰り返す"Pills"があれば、"Keep Your Dreams"のような心洗われる曲も。まさにプライマル・サウンドここに極まるといった感じだ。
7月にはフジ・ロックでの大トリもこなし、まさに向かうところ敵なしといった充実期に入ったプライマルズ。しかしながら、アルバムは政治的と思われたためか、思ったほどには売り上げが伸びなかったようだ。

9.11

2001年には再びサマーソニックに出演するために来日その時に披露した新曲の中に例の"Bomb The Pentagon"があり(詳しくはプライマル・スクリーム"Bomb The Pentagon")そのタイトル通りの事が9.11に起きると、ボビーはメディアに姿を見せなくなる。

変化ではなく深化

ボビー復活!! 2002年6月に"Miss Lucifer"を引っ提げ7月にはアルバム「イービル・ヒート」をリリース。今までプライマルはアルバムごとにまったく違った音を鳴らし続けてきたが、今回初めて変化よりも深化することを選んだ。もちろんロバート・プラントを迎えたブルース"The Lord Is My Shotgun"やクラフトワーク風"Autobahn 66"など今までにないサウンドもあるが、やはり今までの変化とは明らかに違う。しかしながら、これがまた見事なまでに深化しているアルバムとなっているのだ。
そして、11月には5年ぶりにこのプライマルを再び大阪で見る事ができた。「エクスターミネーター」と「イービル・ヒート」を中心に構成されたライヴは見るよりも感じるという表現のほうがぴったりするほど身体に響いてくるものだった。こんなにもライヴで汗をかいたのは本当に久しぶりだった。
次はボビーはどう出てくるのか。更なる深化はないだろう。ブルースでも極めるか? またしても七変化するであろうプライマルは、たぶん我々をまたあっさりと裏切ってくれるだろう。


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