クリエイション・レーベルといったら、すぐに出てくるバンドはやっぱりオアシスだろう。
マッギーがグラスゴーのクラブでオアシスのギグを見て、その場で契約を申し込んだという話は有名であるが、このことからもわかるように、アラン・マッギーという男はバンドを見る目、いや聴く耳を確かに持っているということだ。
80年代半ばから90年代のイギリスのロック・シーンを語る時に必ず出てくるレーベルであるクリエイション。その多大なるシーンへの貢献は計り知れない。
ざっとこのレーベルと契約したことのあるバンドの名前を挙げてみても、"The Jesus & Mery Chain", "
Primal Scream", "The House Of Love", "Ride", "My Bloody Valentine", "Teenage Funclub"に"Oasis"と枚挙にいとまがない。
クリエイション・レーベルの設立
1960年9月にグラスゴーで生まれたマッギーは学生の頃にプライマル・スクリームのボビーといつもツルムようになり、パンクにかなりの影響を受けていた。
プライマルのボビーやアンドリュー・イネスと一緒に遊びながらバンドみたいなものをしたのが音楽に関わるようになった最初で、その後に自身のバンド「ラフィン・アップル」で活動していた。
17歳で学校を辞め電気工をした後、ロンドンへ行きブリティッシュ・レイルウェイ(イギリスの国鉄)で働くかたわら、「コミュニケイション・ブラー」というクラブも始めだして、クラブの司会者を務めていたジェリー・タッカーを自分のバンド「ザ・リジェント」というバンド名で歌わせるようになり、このバンドのシングルを製作。84年にこのバンドのレコード製作という理由で銀行から融資を受けて、ロンドンに新しいクラブ「ザ・リヴィング・ルーム」を開くと、このクラブの収益とインディ・レーベルのラフ・トレードの協力でクリエイション・レーベルを設立することになる。
レーベルを設立したのは友人のバンドであるプライマルやメリーチェインのレコード契約がなかったから、自分で作ってやりたいと思ったからという単純なものであったが、それが10年以上に渡ってこれほどイギリスの音楽・シーンに影響を与えるレーベルになるとは本人も当時は思っていなかっただろう。
成功と失敗そしてレーベルの危機
初期のクリエイションからの作品はラフィン・アップルをビフ・バング・パウ!と変更した自身のバンドはもちろんのこと、84年にはマッギーが仕掛けた暴動ライヴで一躍注目を集めたジーザス・アンド・メリー・チェインのデビュー・シングル"Upside Down", プライマル・スクリームのデビュー・シングル"All Fall Down"などがある。
特に契約争奪戦を繰り広げていたメリーチェインをうまく使って、自分に有利になるレーベルと契約させることに成功し、大きな利益を上げている。
だが、上手いことばかりではなく、Weaとのジョイント・レーベルであるエレベイションを87年に設立したが、こちらは見事に失敗し、たったの1年で閉鎖の憂き目にあい、プライマルもクリエイションに戻る羽目になってしまった。
それでもハウス・オブ・ラヴやライドといったバンドを成功に導き、レーベルも順調に成長していった時に、たった1枚のアルバムがレーベル存続の危機へと追いやった。
マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの91年にリリースされた「ラヴレス」だ。1枚のアルバムの製作に27万ポンド(約4,600万円)もの大金をつぎ込み、破産寸前までレーベルを追いこんだが、ソニーが49%の株を買い取りこの危機をなんとか脱した。
ソニーが資本参加していなかったら、間違いなくレーベルは倒産していただろう。それはマッギー本人も認めている。
ちなみに、そのいわく付きのアルバム「ラヴレス」はひとつのレーベルを潰すほどの大金をつぎ込むほどの価値があったかどうか? 今でもこのアルバムは絶賛されているし、僕も好きなアルバムのひとつではあるが、とても製作費を回収できるようなものではないのは確かである。
ドラッグに旧友ボビーとの確執
91年の苦境を乗り越えたマッギーだが、89年ごろからしだいにドラッグにはまっていく。エクスタシーからコカインへ。この頃から旧友であるボビーとの間も次第に悪くなっていく。お互いがドラッグにはまり、疎外感を覚えたり、ロック・スター然としたボビーにマッギーが腹を立てたり、逆にイチイチ指図するマッギーにボビーがキレたりと、完全に2人の仲は終わっていた。
そして、ついにマッギーはコカインが原因で倒れ、ロサンゼルスの病院に入院。この後はさすがにドラッグからは完全に足を洗ったようだ。
そんなボビーとの関係も99年頃には修復され、また親友として付き合っていて、友情というものをあらためて感じているらしい。
英国1のインディ・レーベルへ
そして、93年にオアシスとの契約に成功し、セカンド・アルバムの「モーニング・グローリー」が世界的なヒットを記録して、英国1のインディ・レーベルへと大きくなっていった。
レーベルがデカくなるのに比例して、アラン・マッギー自身にもメディアは注目するようになり、そのメディアを利用して、97年にはイギリスの総選挙の際に労働党スコットランド支部へ宣伝資金として5万ポンド(約1,000万円)も寄付。その逆に労働党もオアシス人気を利用して党の集会にマッギーを招いて、オアシスのプラチナ・ディスクをトニー・ブレア党首(当時)がマッギーに授与するといったパフォーマンスをしている。そのお陰というわけではないんであろうが、この総選挙では見事に労働党が18年ぶりに政権を奪還するのに成功している。
レーベルが大きくなるという事は、同時にひとりの人間だけではコントロールすることも出来なくなってくるわけで、マッギー自身「95年まではパンク・レーベルだったが、それ以降は産業ロック・レーベルに成り下がってしまった」と言っている。
クリエイションからポップ・トーンズ
そう思っていたマッギーは突然、2000年6月に辞職を発表。インターネットに未来の可能性を見出していたマッギーはP.I.L.のメタル・ボックスにちなんだ名称の新しいレーベル「ポップ・トーンズ」を立ち上げ、インターネットによる音楽配信などに力を入れる斬新なレーベルを始め出した。
アーティストとは長期の契約は結ばないなど、マッギーの信念に基づいた運営方法で始まったこの「ポップ・トーンズ」はレコード会社という枠を越えて、インターネットによるラジオ局や出版に映画、はたまた画廊と多岐に渡る経営を見据えているという。
しかし、その壮大な計画とは裏腹に、いきなり経営難に陥っているようで、その前途は多難である。
しかし、80年代からいくつもの危機を乗り越えていったマッギーのこと、きっと新しい可能性をまた我々の前に提示してくれることだろう。