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Un Filosofo delle Cantine(気高き丘の哲学者のヴィン・サント)

    Cantine Innocenti
    カンティーネ・イノチェンティ

   オーナー:ヴィットーリオ・イノチェンティ
   Via Landucci,12 MONTEFOLLONICO
   53040     SIENA
  ITALIA
  
Tel/0577-669537 Fax/0577-668863


      気高き丘の哲学者のヴィン・サント

 イタリアという国についての情報がたやすく耳に入るようになり、唯ならぬワイン・ブームにも押されて、「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」「キャンティ・クラッシコ」等の名立たるワインを容易に味わい愉しむことの可能となった今日の日本において、「ヴィン・サント」という、乾燥菓子「カントゥッチ」を浸しては頂くデザート・ワインについても、多くの方が耳にし、あるいは既に愉しまれていることでしょう。

 中部イタリア全域でその生産が確認され、北イタリアの「モスカート・ダスティ」や南の「モスカート・ディ・パンテッレリア」、若しくは「マルサラ」等のデザート・ワインと共に、すっかりイタリアを代表するまでにその知名度を上げた、黄金色に輝き、乾燥、完熟フルーツ、時には蜂蜜に絡め焼いたアーモンドをも彷彿させる艶やかな香りに包まれた伝統的甘口ワインである。

 だがしかし、その起源はやはりトスカーナ州、中でもDOC指定を受けている事からも分かるように、「ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチャーノ」で有名なモンテプルチャーノ地区、そして「キャンティ(クラッシコに限らず)」でお馴染みのピサ、フィレンツエ、シエナ県を取り囲む広大なキャンティ地区が中核であり、さらに詳細を上げると、マルヴァジア、トレッビアーノ種等の白ワイン用品種主体のものと、赤ワイン用品種であるサンジョベーゼ種の果皮を剥く事によって「白」醸造される「Occhio di pernice(オッキオ・ディ・ぺルニーチェ/ヤマウズラの瞳)」の2種に分ける事が出来る。

 その製法は多くのデザート・ワインの例に見習い、比較的遅めの収穫により糖度の高められた葡萄の実を、数ヶ月に及ぶ、風通しの良い日陰、または屋内での「パッシート」と言われる、自然乾燥作業を施すことにより、さらに糖度の凝縮されたものを発酵、そして一般に云われる「バリック」よりも小さな小樽にて最低3年以上、「オッキオ・・・」については最低8年以上もの熟成を要するという、大変な苦労が付きまとうものである。

 もともとその伝統の中では、家庭、又はワイン製造所の裏手の片隅で、「売る」というよりも、親しいお友達に「贈る」ものとして、小規模の生産しか行われていなかったもので、「Madri(マードリ/母達)」と呼ばれ、毎年瓶詰めの際に別にとっておかれ、翌年のものに継ぎ足しては、どこまでもその年輪を重ねていく「自然酵母」の存在がその決め手となってくる、一朝一夕には決して出来ない「積み重ね」がその品質を左右し、それ故に、特に「オッキオ・・・」は「幻のヴィン・サント」と呼ばれるほどの価値を持っているものなのです。

 「本当に正しいヴィン・サント」が持つ、何処までも深く黄金色に染まり濃縮された雫が放つ「熟したフルーツ香」、というものは、それこそ開封と同時に辺り一面を蜂蜜畑に変えてしまうほど強烈にその存在をひけらかす魔術のようなもので、実際のところ、市場、特にそれが世界一場となると、商品として卸すほどの生産量と品質を確保する事は、そう簡単なことではないのが現状。近年、その伝統的手法を保護するために、あのエミリア州はモデナの「バルサミコ酢」が、本来あるべく製法によって造られたものだけが「Aceto balsamico tradizionale di Modena(アチェート・バルサミコ・トラディツイオナーレ・ディ・モデナ/モデナ伝統的バルサミコ酢)」と、呼ばれ区別されるようになったことと同様、一般に出回る「ヴィン・サント」の多くは、決して「偽者」ではないにしても、「本物」とも呼びきれない、「半人工的」なものであるのが、悲しい事実。そう、ここ「本場」トスカーナにおいても、「本物のヴィン・サント」を掲げるワイナリーと言えば、モンテプルチャ―ノ近郊はグラッチャーノの丘に佇む美しきカンティーナでも有名な天下の「Avignonesi(アヴィニョネージ)」、そして、深く香る森、ガイオーレ・イン・キャンティの情熱的ワイナリー「San Giusto a Rentennano(サン・ジュースト・ア・レンテンナノ)」他、2桁を僅かに上まる程度・・・。

 そんな、数少ない「本物」を造り続ける一人の男が、ここ、モンテプルチャーノ近郊は、人口数百人の奇跡的にその中世的な美しさを留めた田舎町「Montefollonico(モンテフォッローニコ)」に居る。

 シエナからアレッツオ方面にバイパスをくぐり、モンテプルチャーノ方面へ右折。シナルンガの美しき広大な草原を走り抜けた後に、「ノット―ラ」「コントゥッチ」等の有名ワイナリーが目白押しする、おそらくイタリアで最も美しきものの一つであろう、ワイン街道「Strada del Vino Nobile di Montepulciano」をかき分け、小道を右折。何処までも続く葡萄畑とススキの穂の奏でる情緒に溢れる、まさに「絵に書いたような田舎風景」を目の辺りに、モンテプルチャーノを見下ろす丘を駆け上がる。

 1980年代、世界で沸き起こったトスカーナ伝統料理ブームにより、その名を轟かすこととなった名リストランテ「La Chiusa(ラ・キウ―ザ)」があることでも知られるこの美しき街。城壁に囲まれた街の中央(と言っても小道が2本併走するのみだが)裏手に佇む、100年以上の年輪に包まれたそれはそれは伝統的なカンティーナにて瞑想に更ける、元哲学教師「Vittorio Innocenti(ヴィットーリオ・イノチェンティ)」氏。彼こそが、時代の入れ替わりに揺れるイタリア・ワイン界に「伝統」の波紋を立て続けている、一人の地道な職人(マエストロ)なのである。

 小規模ながらも、地元民用のワイン生産に従事し続けていた一家に生まれた彼とその弟マルコ氏は、幼年の頃、彼らに覆い被さるように風になびいては揺れていた葡萄畑を庭にかくれんぼを愉しんでは、家中に漂う「モスト」の香りを、「まるでそれが空気の香りであるか」のように、重い続けながら育ったという。

 その後、「天性の才能」でもあったという哲学の教師として、その気品高き丘「モンテプルチャーノ」の学術に貢献して止まない生活であったが、一家の方針を二手に分ける、「ワイン生産を続けるか続けないか」との選択を余儀なくされた際に、「モストの誘惑ほど艶やかなものはない」との言葉の指す通り、その身を「ノービレ・ディ・モンテプルチャーノ」に捧げることを決意する。

 従来に行っていた「キャンティ・コッリ・セネ―ゼ(シエナの丘のキャンティ)」の生産に加え、僅かながらの「ノービレ・・・・」畑を購入して、弟マルコ氏と畑、カンティーナを2分しての伝統的長寿ワイン「ノービレ・・・・」の生産に励む日々に明け暮れ、やはり歴史の教師をしていたその妻マリア女史の献身的な手助けもあってか、次第に「通」の隠れた賞賛を受け始める。

 そんな中、「ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチャーノ・ヴィンテージ1988年」が「伝説」とさえ呼ばれてしまうほどの逸作との評価が業界に流れ、時代が「近代的ワイン」に傾きかけていた当時において、「ノービレ・・・」の最も特徴であろうといわれる「なかなか起きてこない固さ」を最高に巧く表現した歴史的にも最高派の一本として、現在なおも語り継がれているだけに、その衝撃がどれほど大きいものであったかは、想像していただけるところでしょう。
  しかし、彼の作品を知る人は、それだけでは止まらない。
 
「彼のヴィン・サントこそは・・・・なかなか手に入らないけどね」

(註:左がそのラベル)


 そう、彼の本当の情熱はそこにあるという。 「ノービレ・・・」の大樽が所狭しと並んでいる古典的なカンティーナを抜けると、裏手にこの地区「ヴァル・ディ・キアーナ」一帯のすべてを軽々と見下ろす事のできる、壮絶的な風景(右・写真)に包まれた中庭がある。開け放たれた空間にも構わず、まるで消え去ることなど知らぬかのように漂う、甘い香りに身をゆだねるように、ゆったりと腰をおろしては悠長にその半生を振り返ってみせる氏の語り癖に、遠い昔の感動が風に寄せられ蘇ってくるのを待っているかのような感覚を見出す。

 「数十年前のことでね、蔵の片隅に仕舞い込まれていた「マードリ」を発見したのは」
  一時の生産中止に見失いかけていた「宝物」を再発見した夜の様子を描写する、そのどこかしら潤った趣のある目元からは、「時」の流れに逆らわず、ただただ戯れるように生きてきた証ともいえるであろう年輪が深く刻まれている。

 「私のヴィン・サントなら、2―30年位の時は当たり前のように生き続けるね」  と語り、案内してくれた「ヴィン・サント室」(写真)に足をのばせば、まるで銃衣に包まれた公爵がカード遊びにいそしんでいても可笑しくはないほど、それは異次元的な世界へのタイム・トラベル。掠れ消えてしまうかのように小樽に示されているヴェンテージが語るものは「忍耐」、注がれたグラスから沸き起こり、そして体を浮き上がらせてしまうかのように優しく我々を包み込む、マロン・グラスを彷彿させる「高貴」な香りが魅せてくれるものは「愛情」であろうか。

  陽の傾きと共に刻々と赤く染まりつける尊大な葡萄畑では、一匹の山鶉が足早に駆け抜けてゆくのが見えた。


                                              ”グルメ・ジャーナル、2001年10月号”掲載


                                            2001年6月6日      土居昇用

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