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Uボート艦長
U-BOAT Captain


 第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約により、大戦前はイギリスに次ぐ世界第2位の“大海艦隊(ホッホ・ゼー・フロッセ)”を保有していたドイツ海軍は一転、弱小海軍へと転落し、潜水艦の保有も禁じられました。
 1935年、政権を掌握したヒトラーによるヴェルサイユ条約破棄と再軍備宣言。そしてイギリスと結んだ海軍条約により、潜水艦の保有を認められます。しかしヒトラーが選択したのは、装甲艦(ポケット戦艦)と潜水艦を主力とする通商破壊型ではなく、大型艦による艦隊決戦型の海軍でした。
 “Z計画”と呼ばれる大型艦建造計画は、予定よりも早すぎる開戦により頓挫(開戦時点で主力戦艦ビスマルク級は未完成)し、艦隊決戦型としても通商破壊戦型としても不十分な状態で戦端を開く事になりました。
 イギリスとの艦隊決戦は論外である為、巡洋艦作戦論による通商破壊作戦を実施し、成功を収めますが、戦艦ビスマルクによる通商破壊作戦『ライン演習』で同艦が失われると、これ以上の大型艦の損失を恐れたヒトラーにより、大型艦の出撃を制限されます。
 
 
 これにより、海軍の主力となったのは、先の大戦でも通商破壊戦に大活躍したUボート(U−boot。ドイツ語で潜水艦を表す『Unterseeboot』の略語)でしたが、開戦時に保有していたUボートは、わずか56隻という、必要数に遥かに満たない戦力でしたが、潜水艦隊司令官であるデーニッツ提督が考案した『狼群(ウルフパック)戦術』は多数の輸送船を海底に沈め、多くのUボート・エースを輩出しました。
 しかし連合軍が対潜用の各種新兵器を投入し、それらを有効に生かす戦術が確立するに到り、潜水艦の損害が次第に増していきます。期待の新型Uボートは優れた性能ながら、あまりにも登場が遅すぎ、何ら戦局に寄与する事は無く、終戦まで生き残ったUボート乗組員は全体の30パーセント程でした。
 Uボート艦長は、夏用の白い制帽を、好んでフルシーズン着用しましたが、海軍ではこのような着用を禁じていました。