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ハインツ・グデーリアン
Heintz Guderian
(1888〜1954)


 “ドイツ機甲部隊の父”と呼ばれた、機甲戦術の先駆者。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約により、ドイツは兵力十万以下、参謀本部の廃止、戦車、航空機、潜水艦等の保有を禁止されていました。そんなワイマール体制下の共和国軍において、自動車兵監部に赴任を命ぜられたグデーリアンは自動車化や機甲化の研究に勤しみ、機甲戦略を形作っていきました。
 イギリスやフランスの例に漏れず、ドイツも又、戦車は歩兵の補助兵力であるとの旧来からの風潮があり、また伝統的な歩兵や騎兵の信奉者達からは、戦車を独立した兵科とする事に批判的な将軍も多かったのですが、政権に就いたヒトラーに機甲部隊の有効性を説明する機会を得、多くの将軍が古い固定観念に縛られていたのに対し、『火力・機動力・防御力』を統合した戦車の将来性を見抜く目を持っていたヒトラーにより、グデーリアンは1935年の再軍備宣言後、編成された3個装甲師団の内、第2装甲師団長に大佐の階級で抜擢されます。
 
 機甲化の大きな後盾であったフォン・ブロンベルク国防相、フォン・フリッチュ陸軍総司令官が、軍部への介入を狙ったヒトラーの謀略により解任される中、グデーリアン自身は第16装甲軍団長に任命され、オーストリア、次いでチェコ・スロヴァキアのズデーテンラント進駐を果たし、この2つの進駐における進撃速度の速さから“韋駄天ハインツ”の異名を冠せられる事になります。
 中欧の大国ポーランドと欧州の陸軍大国フランスを、グデーリアンが提唱した新戦術『電撃戦』で降したドイツは、その1年後、ソ連侵攻作戦“バルバロッサ”を発動します。が、「作戦目的と作戦目標」「戦争目的と作戦目的」を混合したヒトラーの横槍と冬将軍の到来により、侵攻作戦は頓挫し、モスクワ攻略は失敗。グデーリアンらはヒトラーに後退と戦線の縮小を進言しますが、ヒトラーの怒りをかい、解任されます。後に装甲兵総監、陸軍参謀総長に就任しますが、終戦目前にして賜暇の名目で解任され、軍を去ります。
 戦後、戦犯(禁固刑)の身となりますが、グデーリアンを高く評価するかつての敵国、アメリカ陸軍機甲学校に招聘され、多くの軍事関係者に影響と感銘を与え、著書『一軍人の回想(邦題『電撃戦』)』を残しました。