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ロバート・エドワード・リー
Robert Edwards Lee
(1807〜1870)


 南北戦争において、敵味方問わず尊敬された、南部連合軍総司令官。ヴァージニア名門の出身で威厳に満ち、公正で潔癖な人柄。北部連邦(アメリカ合衆国=USA)に比べて圧倒的に劣勢だった南部連合(アメリカ連合国=CSA)が4年もの長きにわたって戦う事が出来たのは、彼の存在があればこそでした。
 北部と南部の経済格差と、奴隷制度に対する意識の差が、南北の対立を生み出し、1860年11月6日、奴隷制廃止を唱えるエイブラハム・リンカーンが第16代大統領に選ばれると、南部7州は連邦から離脱し南部連合を結成しました。
 1861年4月12日、南軍がサムター砦へ攻撃を開始し、南北戦争が勃発すると、連邦に留まっていたヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーの4州が連邦から離脱、南部連合に加わりました。
 リンカーン大統領は北軍総司令官にリーを推し、リー自身は道徳的見地から奴隷制には反対でしたが、リーの故郷ヴァージニアは南部連合であり、郷土愛から故郷の為に戦うべく南軍に身を投じます。
 1862年5月、フェアオークスの戦いで負傷したジョンストン将軍の指揮を引き継いだリーは、七日戦争において、北軍をヨーク半島より撤退させ、第二次ブル・ランの戦いでは、北軍に大打撃を与えますが、補給が欠乏しながらも北部へ侵攻して起こったアンティータムの戦いで大きな損害を受け後退。チャンセラーズウィルの戦いで北軍に大損害を与えるものの、南軍の半身と云える“ストーンウォール”ジャクソン将軍を失いました。
 1863年、北軍による南部連合首都リッチモンド攻撃に対し機先を制し、又、物資不足により補給が更に困難となった状況を打破すべく、リーは再度の北部侵攻を企図します。7月1日、小規模の小競り合いが、大規模な戦闘へと発展した、ゲティスバーグの戦いと呼ばれる、この南北戦争最大の会戦は、リーは勿論の事、北軍総司令官ミードも意図していなかった戦闘でした。
 ゲティスバーグの戦いで敗れた後も二年近く戦いますが勝機は既に無く、1865年4月9日、アポマトックスにて北軍総司令官グラントに降伏します。戦後、ワシントン大学の学長に就任。教育活動に余生を過ごし、1870年10月12日死去。最後の言葉は「進撃だ、テントをたため」


補足

南部連合(アメリカ連合国=CSA)=リンカーンが大統領に選出されると、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージア、フロリダ、サウスカロライナの南部7州が次々と連邦より離脱し、サムター砦陥落の翌日、リンカーン大統領は義勇兵召集(3ヶ月の任期で7万5千人)を各州に布告しますが、南部諸州はこれを宣戦布告と受け止め、連邦に残っていたヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーの4州も連邦から離脱し、南部連合は11州となりました。尚、南部連合旗には州を示す星が13ありますが、これは正式には連邦離脱していないものの、奴隷容認州であり、南軍にも兵力を提供したケンタッキー、ミズーリ両州が含まれているからです。

ジャクソン将軍=トーマス・J・ジャクソン。並外れた力量を持つ用兵家で、ストーンウォール(石壁)と呼ばれ、リーと同じく、北軍将兵からも尊敬されていました。チャンセラーズヴィルの戦いにおいて、味方の誤射を受け、その傷が元で感染症を起こし死亡。南軍は勿論の事、ジャクソンを知る北軍将兵も、その死を知り、涙を流したそうです。余談ですが、南軍がフランスに発注し、それを幕府がアメリカから購入したものの、戊辰戦争の影響で明治新政府に引き渡された、衝角付装甲艦『甲鉄艦』の旧艦名はジャクソン将軍にちなんで『ストーンウォール』と名付けられていました。宮古湾海戦での、旧幕府軍艦『回天』による『甲鉄艦』への接舷斬り込み戦は有名な話。

ゲティスバーグの戦い=この戦いから4ヵ月後の11月19日、ゲティスバーグ国立墓地の献納式において、リンカーン大統領はわずか3分間の、しかし長く後世に残る名文「The Goverment of the people,by the people,for the people(人民の、人民による、人民の為の政治)」で有名な『ゲティスバーグ演説』を行います。リー将軍の降伏から5日後の4月14日、リンカーン大統領は観劇中に南部出身の俳優に撃たれ、暗殺されました。