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第442連隊戦闘団〈日系二世部隊〉
442Regimental Combat Team


 

 1941年12月8日、日本海軍・南雲機動部隊による真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発すると、日本国籍だったアメリカ在住の移民一世は“敵国人”として強制収容所へ隔離され、アメリカ国籍の日系二世も又、差別と憎悪に晒されました。アメリカこそが故郷である彼ら日系二世は、アメリカ人である証明を、戦う事で示す事になります。
 アメリカ本土と違い、ハワイ在住の日系人は、その土地柄故に強制収容を免れていましたが、日系人将兵は本土へ送られ、彼ら日系人に理解を示すターナー中佐を大隊長とする、第100歩兵大隊として編成されます。
 日系人の強制収容は、白人の人種差別の実例であるとし、この戦争は白人支配からアジアを開放する聖戦であると日本が喧伝すると、これに対抗すべく、志願による日系人部隊を設立する事になります。第442歩兵連隊を基幹として砲兵大隊、工兵中隊、衛生分遣隊、軍楽隊を加えて連隊戦闘団として編成される事になりますが、生活環境の違いから、ハワイの志願者と本土の志願者との軋轢が絶えませんでしたが、ハワイ二世に本土日系人の収容所を見学させ、本土二世の苦悩を理解させたり、第100大隊員の説得等で次第に互いの反目は薄れました。
 
 1943年。第34歩兵師団“レッドブル”に配属された第100大隊はイタリアへ上陸し、グスタフ・ラインで激戦を繰り広げ、多大な犠牲を払いましたが、友軍からは絶大な信頼を寄せられました。
 1944年6月、第442連隊戦闘団がイタリアへ到着し、第100大隊が合流。連隊戦闘団は第36師団に配属されましたが、師団長ダールキスト少将は兵の疲労を考慮せず、ドイツ軍に包囲され孤立した、友軍大隊救出戦において、兵力が著しく低下しているにも関わらず、ろくな補充も休養も無しに前進のみを命じ、連隊戦闘団は大損害を被りました。
 南フランスでの休養後、再編された連隊戦闘団は第92歩兵師団に加わり、アルノ・ラインを突破。1945年5月2日に任務を解かれ、ニューヨーク港に帰還しました。
 彼ら日系二世は“Go For Broke!(当たって砕けろ!)”の精神で戦い抜き、己の血肉で以て、アメリカ人である事を証明したのでした。
 1945年、日系人強制立ち退き解除。翌年、全収容所閉鎖。


補足
第100歩兵大隊=独立部隊である第100歩兵大隊は、6個中隊を基幹に、補給中隊と衛生中隊を加える変則的な編成となっています。また、部隊番号の“100”も、編成当時は他に100番台を持つ部隊は他になく、欠番と云えるものでした(この番号を二世兵士は“ワン・プカ・プカ(プカはハワイ語で穴を意味する)”と呼んだそうです)。部隊モットーは『Remember PearlHarbor(真珠湾を忘れるな)』

第100大隊が合流=イタリア戦線で戦っていた第100歩兵大隊へ、第442歩兵連隊第1大隊は将兵を補充として派出していた為、第1大隊は兵数が足らず、第1大隊は本国に残留し、日系兵士の訓練を担当し(44年9月、第171歩兵大隊へと改称され、45年2月19日に解隊)、1個少ない2個大隊編成で出兵した442連隊戦闘団に、第100歩兵大隊が編入される事になりました。

友軍大隊救出戦=孤立した第141連隊第1大隊を救出する、いわゆる“失われた大隊”救出作戦。442連隊戦闘団の戦死・負傷者の合計は約800人を数え、11月11日の第1次世界大戦休戦記念日、ダールキスト少将が閲兵した際、集合した戦闘団を見た少将が「部隊全員を整列させろと云った筈だ」と不機嫌に云ったのに対し、連隊長代理ミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です」と答えたと云う話が残っています。