北の海へ(2)
出港の日は、早朝から濃霧だった。
「船のことは、船長に一任するよ」
伯父は船長としての荒川の能力を高く評価していた。
予定通り7時に出港するのか、それとも霧が晴れるまで待つのか、荒川は決断を迫られた。
「霧が晴れるのを待つ」
荒川はきっぱりと言った。
「長くても2時間も待てば晴れるでしょう」
「では晴れるまで一局どうです?」
赤石が伯父を誘い、当然伯父は同意した。
「レーダーは霧があっても使えるんでしょう」
洋は荒川に尋ねた。
「もちろんレーダーは使えるが、絶対的に信頼できるものではないんだよ。
船が存在していても、レーダーに映らないことだってあるんだ」
「ステルス戦闘機みたいな船ですか」
「えっ?ステルス?」
荒川は洋の意外な質問に戸惑っていた。そんな荒川に代わって片山が答えた。
「いや、ステルス戦闘機は関係ない。全く普通の船だよ。
私も一度だけ経験したことがあるけれど、肉眼でも見えているのにレーダーには映らないんだ」
「どうしてなんですか」
「うーん、理由は私にも分からないなあ。
でも、船長も同じような経験はあるでしょう」
「ああ、島影ははっきり映っているのだから、絶対にレーダーの故障じゃあない。
あの時は今朝と同じような濃霧だったが、
いきなり霧の中から船が現れた時には、さすがにびっくりしたよ」
荒川は昔のことを思い出しながら語った。
「でも出港が遅れたら、遅れを取り戻すためにスピードを上げて行くんですか」
「なあに、その必要はないよ。
釧路の霧は想定していたから、最初から航海計画に組み込んであるのさ」
洋は荒川の用心深さに感心した。
折りも折り、テレビでは霧の中での自動車事故のニュースが流れていた。
「馬鹿げた話だ。これだけの霧の中でもスピードを落とさないなんて、
船乗りの常識では考えられん」
荒川は憤慨して吐き捨てるように言った。
「船長のおっしゃる通りですよ。船長のように待つ勇気があれば、
自動車事故も大幅に減少するんですけどね」
片山は力を込めて荒川に同調したが、荒川は照れながら答えた。
「いや、勇気というほどのものじゃあ・・・ただ臆病なだけですよ」
「いいえ、それは臆病ではなく、慎重というものです。
日本人はとかく匹夫の勇を称賛しがちですが、これからは『待つ勇気』を見直すべきでしょう」
片山はいつになく興奮していた。
「待つ勇気ですか?」
洋は真剣な顔つきの尋ねた。
「そうだよ。私が山に登り始めた頃には、引き返す勇気を持て、と言われたものさ」
「そうそう、無謀登山を戒めるためにね。
しかし今は無謀運転を戒めるために、スピードを押さえる勇気を持て、と言うことですな」
荒川には片山の言いたいことがすぐに分かった。
「片山さんは山が好きなんですか」
洋は意外に思って片山に尋ねた。
「もちろん海も船も好きだよ。でも山には山の、海とは違った良さがあるからね」
「どんな山に登ったんですか」
片山は洋に問われるままに登山の話を始めたが、
やがてウイングで見張りをしていた甲板長の聖が入ってきた。
「船長。霧が薄くなってきました」
荒川は聖と共にウイングに出て、じっと海面を見つめていた。
まだ霧は残っていたが、視程は確実に回復しつつあった。
「よし、もう少し晴れてきたら出港だ」
荒川の決断によって全乗組員が配置につき、程なく四万十は釧路港を後にした。
当初の予定より1時間遅れ、午前8時の出港である。
「霧が完全に消えるまでは6ノットで行きます」
荒川は船橋に上がってきた伯父に報告した。
操船に関しては荒川に一任してあるので、当然伯父は了解である。
甲板員の唐松と五竜は船首両舷に立ち、目を凝らして前方を監視している。
時々霧笛を鳴らしながら、四万十はゆっくりと進んでいった。
天侯は荒川の予想よりも早く回復し、出港後30分程で霧は完全に消え去った。
四万十は速力を16ノットに上げ、海岸線に沿って東へ進み、
ウミネコでにぎわう大黒島を左に見て東北東に針路を変えた。
「随分鳥がいますね」
洋は双眼鏡で大黒島を見ながら言った。
「でも殆どがウミネコのようだね。エトピリカでも見られると嬉しいんだが」
「えっ、エトピリカって、どんな鳥ですか」
「なあに、ここで見られなくても、歯舞や色丹まで行けばたくさん見られるさ」
片山に代わって荒川が答えたが、洋の頭からはエトピリカという名前が消えなかった。
「片山さん片山さん、見て下さい。ほら、あの島にも鳥がたくさんいますよ」
双眼鏡でずっと海岸線を眺めていた洋は、また鳥の集団を発見して片山を呼んだ。
「ユルリ島だね。どれどれ」
片山も双眼鏡を持ち出し、島に目をやった。
「うーん、残念だなあ。ユルリ島にも工トピリカの姿は見えないようだね」
片山の口からは、またエトピリカの名前が出た。
「島の向こうの花咲に昔から知合いの漁師がいるんだが、
最近は年に数回しか見かけないそうだよ」
荒川が少しさみしそうな口調で話に加わった。
「北方領土にはたくさんいるらしいが、もう北海道にはやって来ないのかもしれないな」
「船長さんはここで見たことがあるのですか」
「もう何十年前になるのかなあ。
友人の船で島を一周したのだが、数十羽、いや百羽以上のエトピリカが見られたよ」
荒川は昔を懐かしむように語った。
「どうして来なくなったのでしょう」
洋は率直に質問した。
「それだけ住みにくくなったと言うことだよ」
今度は片山が答えた。
「日本では人間の生活は豊かになったが、反比例するかのように目然環境は荒廃してしまった。
エトピリカは来たくても来られないのだと思うよ」
「でもウミネコは平気なんですね」
「そう、カラスなんかもそうだけど、人間に慣れやすい性格なのかもしれないね。
ところで洋くんは、カラスはカラスでも、ウミガラスは知ってるかい」
「えっ、海に棲むカラスですか」
洋は意外な質問に焦って聞き返した。
「ウミガラスはカラスという名前は付いていても、カラスの仲間じゃないよ。
ウミガラスはオロロン鳥のことなんだが、オロロン鳥は知ってるよね」
片山は笑いながら言った。
「あっ、オロロン鳥なら知ってます。北海道の島に棲んでいるんですよね。
ええと・・・天売島だったかな」
「そう、天売島だよ。でも正確に言えば、棲んでいた、と過去形になるのかな」
「じゃあ今はいないんですか」
「いや、まだ何羽か残っているようだけど、何れは一羽もいなくなってしまうだろうね」
「絶減しちゃうんですか」
「カムチャッカ半島にはたくさん棲んでいるから、種としては絶滅することはない。
でも長年住んでいた島を追い出されてしまうのだから、かわいそうな鳥だよね」
「どうして天売島からいなくなったんですか」
「雛が育たないからだよ。増え過ぎたカモメに食べられたり、
餌になる魚が減ってしまったことが原因だと考えられている」
「リョコウバトのように、食べるために殺されたんじゃないんですね」
「おや、リョコウバトのことをよく覚えていたね。
動物の絶滅パターンは、大雑把に言って二種類ある。
一つは直接殺されてしまう場合、もう一つは環境の変化等で子孫を残せない場合だ」
洋は黙って聞いていた。
「アホウドリの場合は、羽毛が目的で直接殺されたケースだね。
カワウソは環境の悪化で絶滅したと考えられるし、オオタカやシマフクロウも、
このままではカワウソやトキの二の舞になってしまう可能性があるね」
話を進めるうちに、片山はだんだん元気がなくなってきた。
自然環境の悪化や野生生物の減少は、片山にとって耐え難いことなのだ。
「納沙布岬が見えますよ」
荒川が双眼鏡を構えたまま叫んだ。四万十は根室半島の末端までやってきたのだ。
「まもなくロシア領か」
いつの間にか、伯父も船橋に来ていた。
「外国に行く訳ですね」
洋はなんだか嬉しくなってきた。
「はっはっは、領土問題はまだ未解決だから、今のところ外国には違いないな。
何しろ領海に入るための許可も必要だったからな」
「許可はすぐ下りたんですか」
「ああ、目的は学術的な調査だからな」
伯父はぶっきらぼうに答えた。
「それだけじゃないよ。塩見さんは外国でもよく知られているし、
信頼もされているからね」
片山が付け加えて言った。伯父は自慢話のようなことは絶対に言わない性格なので、
洋にとっては初めて聞く話だった。
「いよいよ歯舞諸島に入ります」
四万十は歯舞諸島の南側を通り、若干北寄りに針路を変えて色丹島に向かった。
島々の近くを通り、海上から野生動物の観測をして行くためである。
洋が色丹島の南岸を観測していると、海岸で泳いでいる動物がいた。
「あっ、ラッコだ」
洋は思わず大声を上げた。
「あっ、あそこにも」
洋は次々にラッコを発見していった。ラッコは一匹だけではなかったのだ。
「ほう、大分いるな」
興奮している洋に釣られてか、荒川もラッコの集団に双眼鏡を向けた。
「自然が昔のままに残っているんですね」
片山もじっと色丹島をにらんでいた。
「船長、小島の陰に怪しげな船がいます」
航海士の野口が、肉眼で不審な船を発見した。
双眼鏡でラッコを見ていると周囲には目が届かなくなるが、
操船を任されている野口は全周に気を配っていたのだ。
「国籍は不明だが、密漁船に間違いない」
荒川は野口の示す方向に双眼鏡を向け、不審船の動向を観測した。
「どうします」
「一丁脅かしてやるか」
荒川は全速を出すことを総員に知らせ、バブルを噴射して不番船に向かっていった。
「あっ、逃げ出しました」
密漁船は高速で向かってくる四万十に驚いて、漁網を捨てて逃げ出した。
漁船とは全く違う四万十の特異な船型を見て、新型の取締船だと思ったのに違いない。
「くそっ、でかいエンジンを積んでやがる」
荒川がいまいましそうにつぶやいた。
四万十が全速で追いかけても、やはり全速で逃げる密漁船に追いつけないのである。
「逃げられたようだね」
船橋に上がってきた伯父は、荒川の態度を見て状況を察した。
「最近の密漁船は早くなりましたからなあ。
海上保安庁でも手を焼いているようですが、困ったものです」
「うむ、どうみても普通の漁船とは思えないな」
伯父も残念そうだったが、片山は別な面から密漁船を分析していた。
「船としてみた場合、あれは漁船ではありませんね。
漁船として運行しようとしたら、完全に赤字になりますよ」
「全くその通りです。恐らく船内容積の大半を機関室に取られ、漁労設備は貧弱なはずです。
あれは漁船というより、密漁専門船という新しい種類の船ですよ」
機関長の赤石も、片山と同様な見方をしていた。
「ふむ、水揚げは少なくても、高く売れれば儲けはでかいと言うことか」
「日本人のグルメブームも、密漁の原因の一つかも知れませんね。
珍しいもの、旨いものだったら、密漁と知りながら食べてしまいますからね」
「金さえ出せば俺の勝手、か。馬鹿げた話だ」
伯父は憤慨しながら船内へ帰っていった。
「バブル停止。速力16ノット」
四万十は速度を落とし、元の針路に戻った。
「ほら、洋くん、あれを見て」
洋が片山の指示する方向に目をやると、鰹節のようなものが空を飛んでいた。
「あれがエトピリカだよ」
片山にエトピリカと言われて、洋はあわてて双眼鏡を目に当てた。
「なんだか不器用に飛んでますね」
これが初めて見たエトピリカに対する、洋の率直な感想だった。
「エトピリカは空を飛ぶことは苦手だけれど、海に潜るのは得意なんだよ」
「ふーん。でも大きなクチバシをしているんですねえ」
「そう、あの赤いクチバシのお陰で、エトピリカという名前が付いたのさ。
アイヌ語で、美しいクチバシを持った鳥、という意味なんだよ」
「目の後ろの黄色いものは何ですか」
「あれは飾り羽で、冬になると消えてしまうんだ」
片山は洋と話しながらも、嬉しそうにエトピリカの群れを眺めていた。
「船長、さっきの密漁船ですよ」
野口の声で一同が択捉島の方を見ると、先程の密漁船と別な船が並んで泊まっていた。
「どうやらロシアの監視艇に捕まったようだ。
この船で追いかけたのも、丸っきり無駄にはならなかったようだ」
荒川はほっとしたような表情だったが、洋も密漁船が捕まって嬉しかった。
「夕食の用意ができましたよ」
料理長のこの声は、これから先最も喜ばれるものになるだろう。
長い航海においては、食べることが一番の楽しみであるからだ。
尤もどんな場合でも例外は存在するもので、食事は二の次という人間もいた。
「船長さん、今度はどうしてこんなにゆっくり行くんですか。
遠くの海まで行かなければならないと言うのに」
洋は食事をしながら荒川に聞いた。
「これくらいのスピードだと、燃料の消費が少ないんだ。
ずっと全速力で行ったら、帰りの燃料は無くなってしまうよ」
荒川は片山の方をちらっと見た。
「船に限らず、どんな乗り物にも経済速力というものがあるんだ。
同じ量の燃料で、一番遠くまで行くことのできるスピードのことだね」
「それが今のスピードなんですね」
「いや、経済速力は今の速力よりも低いんだ。
この速力は燃料の消費と目的地への到着時刻とを考慮して、船長が決めたんだよ」
片山は荒川の思惑通り、ていねいに洋に説明した。
「腹減った腹減った」
食事は二の次の、伯父と赤石が入ってきた。将棋の対局が一段落したらしい。
「塩見さん、さっきの密漁船捕まりましたよ」
荒川が先程の出来事を報告した。
「ほう、それは良かった。ところで明日の朝はどの辺りを走っているかね」
「ウルップ島の北端になります。
更に一昼夜走りまして、明後日の朝はカムチャッカ半島の南端に達します」
「時間はたっぷりあるのだから、船長も片山さんもリーグ戦に参加してくれよ」
「あっ、はい」
荒川も片山同様、将棋はあまり強くなかったのだ。
四万十は予定通りウルップ島を過ぎる頃に夜明けとなり、島伝いに北上した。
「千島列島って、名前の通り島が多いんですね」
夏の北の海は夜明けが早いが、洋は元気に起きて船橋にいた荒川に話かけた。
「さすがに千はないけどね。語呂が良いから千島と名付けたんだろうと思うよ」
四万十はシャシコタン島で日没となり、
さらに夜間航海を続けて翌朝にはカムチャッカ半島の南端に達した。
目的地であるコマンドルスキー諸島までは、更に一昼夜の航海が必要である。
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