北の海へ(1)
8月上旬、洋は清水駅に降り立った。
ステラー海牛を求めて、伯父の保有する海洋調査船『四万十』が明朝出港するのだ。
当初の計画では昨日出港する予定であったが、台風のために2日延期されたのである。
四万十は造船所の岸壁に係留されていた。
小笠原への航海から帰った後、バブルジェット装置の点検を行うために回航されていたのだ。
造船所の構内に入った洋は、四万十が係留されている岸壁に向かった。
4月の進水式、そして1ヶ月前の速力試験の時に訪れているので、岸壁までの道は知っていた。
「やあ、よく来たね」
洋が四万十に近付いて行くと、荒川が船橋からウイングに出て迎えてくれた。
「あっ、船長さん。よろしくお願いします」
「今度は前よりも長い航海になるが、大丈夫かい。
家が恋しくなっても、海の上だから簡単には帰れないぞ」
「いえ、皆さん楽しい人ばかりですから、何日乗っていたって平気です」
洋は元気よく答えた。
「そいつは頼もしい。塩見さんは例の特別対局室にいるよ」
洋は荒川に礼を言い、伯父の所に向かった。
「おっ、来たか来たか」
案の定、伯父は赤石と将棋を指していた。
機嫌が良いところを見ると、どうやら局面は優勢のようだ。
「どうです、機関長。畳の上での勝負になってから、私の方が勝率がいいですぞ」
その勝負も、伯父の勝ちで決着が着いた。
「どうもエンジンの音が聞こえてこないと、私は調子が出ませんなあ。
出港したらこの敵は討ちますぞ」
赤石も気持ちの上では負けていなかった。
「随分荷物が多いんですね」
部屋の隅には、ジャガイモやタマネギの段ボール箱が山積みされていた。
「ああ、今度の航海は長いから、食料だけは十分に積み込んでおかないとな」
「えっ、中身は本当にジャガイモなんですか」
伯父の大切な特別対局室に積まれていたので、中身はジャガイモではなく、
重要な物が入っているに違いないと洋は思っていたのだ。
「糧食庫だけでは入り切らないからね。あちこちに分散させて積み込んであるんだよ」
赤石は駒を片付けながら言った。
「洋くんの部屋には何が入っていたかな」
洋が自分の部屋へ行くと、赤石が言うようにそこにも荷物が山積みされていた。
「やあ洋くん、元気だったかい」
部屋に入ってきたのは片山だった。
「夏休みに有給休暇を加えてね、私も一緒に行くことにしたんだよ」
勿論洋は大喜びである。
荒川には強がりを言ったけれど、本当は一抹の不安があったのだ。
しかし信頼する片山が同行することになったので、その不安も完全に吹き飛んでしまった。
いよいよ明日は出港である。
出港の日は朝から晴れ上がり、暑い一日となることが予想された。
出港を前に乗組員は岸壁に集合したが、伯父は簡単に行き先と目的を告げただけだった。
元々格式ばったことは嫌いだし、前回の航海と同じ顔ぶれだったからだ。
四万十の乗組員は総員13名。
船長の荒川、航海士の黒部、野口、薬師、機関長の赤石、機関員の常念、穂高、
通信長の剣、甲板長の聖、甲板員の唐松、五竜、鹿島、そして料理長の鷲羽である。
更に今回の航海では船主である塩見と、洋に片山が加わって総勢16名である。
荒川は次の寄港地である釧路までの航海計画を伝えた。
出港は朝7時、航海速力は18ノット、釧路着は明日の午後5時の予定である。
「皆さん、お気をつけて。片山くん、技術的なトラブルはよろしく頼むよ」
朝早い出港にもかかわらず、建造主任だった空木が見送りに来てくれた。
「立派な船を造って頂きまして、感謝しております。
本船の実力は小笠原への航海で実証済みですから、心配には及びませんよ」
「前回は天候に恵まれましたが、荒天下での実績はまだありません。
北の海は荒れるかもしれませんから、十分に注意して下さい」
「なあに、荒天下での船長の操船には定評がありますし、
乗組員は私が厳選しましたから万全ですよ」
伯父はいつに無く真剣な表情をしていた。
洋はさすがの伯父も緊張しているのかと思ったが、
荒川は照れ臭そうな顔をしていたし、赤石の目は笑っていた。
二人とも伯父の心の中を知っていたのである。
「乗船!」
荒川の号令で一斉に乗り移り、もやいを解いて四万十は岸壁を離れていった。
岸壁に残った空木は、四万十の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
「おもーーかーーじ」
三保半島の先端をかわした四万十は、駿河湾へと進んでいった。
右手には三保の松原が、左後方には富士山が見えている。
ここまでは試運転の時と同じだが、今回はそのまま直進して伊豆半島の先端に向かった。
「若干うねりが残っているかな」
石廊崎を過ぎて黒潮に乗ると、前方から軽いうねりが押し寄せていた。
台風そのものは過ぎ去ったのだが、その影響が残っていたのである。
四万十はうねりに乗ってゆるやかに上下動を繰り返すようになったが、
不快に感じるほどのものではなかった。
「気分はどうだい」
片山が洋の様子を見にきた。
「何ともありません。もっと揺れるかと思っていましたが、
本当にこの船は揺れないんですね」
「そうだよ。これくらいの長さの船だと、普通はもっとピッチングするけどね。
房総沖まで出るとうねりが大きくなると思うけど、四万十なら大丈夫さ」
四万十は伊豆大島、野島崎を通過して房総半島沿いに犬吠埼に向かった。
そして片山が予想した通り、うねりは少しずつ大きくなってきた。
しかし風は微風だったので、風浪はさざ波程度のものであった。
「でも、どうしてピッチングしないんですか」
「それはあの特殊な船型に秘密があるのさ」
洋の質問に対し、片山は嬉しそうに話し始めた。
「船の揺れで一般的なのはローリングとピッチングだ。
ローリングは船体が左右に傾斜する揺れ方で、主な原因は波浪によるものだ」
「波がぶつかって揺れるんですね」
洋は自信を持って発言したが、片山はそれを否定した。
「いや、そうじゃないんだ。船体左右の浮力が波によって異なってくるためなんだよ。
ところがこの船の場合は、浮力の大部分を魚雷のような所で確保している。
だから波がきても左右の浮力はそれほど変わらないんだ」
洋は言葉だけでは良く分からなかったが、片山は丁寧に絵を描いて説明してくれた。
「ピッチングは縦方向の揺れだ。
揺れる角度は小さいのだが、特に船首部では上下に大きく動くため、
エレベーターに乗った時のような加速度を受けることになる」
片山は今度も絵を描いて説明した。
「ほら、あの船を見てご覧」
片山は右前方を行く貨物船を指差して言った。
「横揺れは全然無いけれど、少しピッチングしているのが分かるだろ。
ピッチングはうねりが原因だが、船の長さとうねりの長さが同じだと激しくなるんだ」
その賃物船は明らかに四万十より大きな船だったが、
それにもかかわらず四万十よりも大きく揺れているのだ。
「船酔いはどちらが原因なんですか」
洋は気になっていたことを質問した。
「うーん、それは人によって違うようだけど、私は横揺れには強いが縦揺れは嫌いだね。
胃袋が持ち上げられるような、あの感じが大嫌いなんだ」
「胃袋が上がっちゃうんですか」
「本当はそうじゃないけれど、ほら、エレベーターが急に下がると、
すっと体が浮くような感じがするだろう」
「ああ、あれですか。
あれなら遊園地で真下に落ちる乗り物にも乗りましたが、
僕はなんともありませんでしたよ」
「それは1回だけだからさ。船の場合は連続して何百回、何干回と繰り返されるから、
初めのうちは平気でも、だんだん気分が悪くなってくるんだよ」
「ふーん、何となく分かる気もします」
「ほら、今度はあちらの漁船を見てご覧」
「おかしいな。あんなに小さな船なのに、ピッチングはしていないようですね」
「そう、船の長さが短いから、かえってうねりに乗ってしまって揺れないんだ」
「でも上下には揺れているみたいですが」
「四万十も同じ状態さ。うねりは波長も周期も長いから、上下動してもゆっくりなのさ」
四万十はやがて犬吠埼の沖合に達し、
針路を更に北寄りに変えて釧路への直進コースを取った。
更に北方へ進むに連れて、うねりはまた少しずつ大きくなってきた。
「間もなくタ食になるが、食欲はあるよな」
荒川が洋の様子を心配してやってきた。
「はい、大丈夫です。明日の日の出はどの辺りになりますか」
洋は元気良く答えた。
「そうだなあ、多分釜石か宮古の沖合になるだろうね」
「三陸沖、三角波の名所ですね」
船長に相槌を打った片山の言葉を聞いて、洋には一つの疑問が発生した。
三角波?三角波って一体何だろう、と。
夕食を終え、洋はウイングに出て夕日を眺めていた。
夕日は水平線にではなく、かすかに見える山並みに落ちようとしていた。
洋は気になっていた三角波について片山に聞こうと思っていたのだが、
その片山は深刻な顔をして赤石と話をしていた。
四万十のエンジンに、何か異常事態でも発生したのだろうか。
洋は部屋に帰ると、明かりを消して早めにベッドに横たわった。
若干疲れを感じてはいたが、ベッドに入っても眠くはならなかった。
やがて片山が帰ってきて、洋の上のベッドに上がると、
洋は待っていたかのように声をかけた。
「何かあったんですか」
「あれ、まだ起きてたのかい」
「赤石さんと何か話していましたが・・・」
「ああ、あれは将棋リーグ戦の話さ。
私は弱いから駒落ちで指してくれと頼んだんだよ」
片山はちょっと照れ臭そうに答えた。
「あの、片山さん。一つ質問していいですか」
「いいよ、何だい」
暗闇の中、ベッドの上と下とで会話が始まった。
「夕食前に言っていた、三角波って何ですか」
「三角波というのは、二つの波がぶつかって出来る、
ピラミッドのような形をした巨大な波のことさ」
「そんな波があるんですか」
「うねりと風浪の来る方向が違うと、三角波が発生しやすくなるんだ。
ほら、風呂の中で波を起こして遊んだことはないかい」
「それはありますけど・・・」
「では浴槽で反射した波がぶっかりあい、時々高い波ができることがあるだろ。
顔にお湯がかかる程の高い波が」
「それなら何回も。突然お湯が飛んでくるので、避けられませんね」
「三角波もあれと同じさ。単に波高が高いだけでなく、
鋭く尖ったピラミッド型をした波なので、船にとっては危険な波なんだ」
「四万十は大丈夫なんですか」
洋は三角波の話を聞いて、少し心配になったのだ。
「いや、まともに三角波を食らったら四万十は勿論、どんな船だって大きな被害を受けるさ。
でも今日は大丈夫、うねりだけでは三角波は発生しないからね」
片山の説明を聞いて、洋は安心して眠りにつくことができた。
翌朝の日の出は、荒川の予想通り宮古沖だった。
「海の色が変わってきただろ」
片山に言われて洋は海面を凝視した。
「あれ、本当だ」
「この辺りには北から親潮が流れ込んでくる。
南からの黒潮とぶつかるので、三陸沖は海が荒れやすいんだ」
幸いこの日は海が荒れることもなく、うねりも徐々に小さくなって、
釧路には予定時刻の午後5時に入港することが出来た。
釧路ではべーリング海への長期航海に備え、丸一日を休養に当てて、燃料と真水を満載にした。
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