在ブラジル原爆被爆者協会 メッセージ
2004(平成16)年8月6日
森田隆 会長
また8月6日がやってきました。
59年前の悲劇を忘れようとも忘れられないまま 地球の反対側で生き延びてきた我々 在ブラジル被爆者からのメッセージです。
現在135名の被爆者会員で結成されているこの会は ちょうど20年前 1984年にブラジル サンパウロ市で発足しました。
日本国内では 昭和32年(1957年)に原爆医療法が制定され 戦後12年間必死に生き残った被爆者にも やっと 援護の手が差し伸べられ始めました。続いて 昭和43(1968)年からは やはり日本国内に置いて原爆特別措置法が制定され 病弱な被爆者に健康管理手当の支給も始められました。
しかし昭和28年(1953年)より再開された海外移住で 日本が国策として奨励した海外移住で祖国を後にしたブラジル在住被爆者が 原爆医療法、原爆特別措置法による被爆者援護を知ったのは1984年 現地邦字新聞に載った記事によってでした。これら被爆者援護の施策は 我々在外の被爆者には知らされず また適用もされていなかったのです。
同じ惨事を生き延びた被爆者なのに 在外という理由だけで何一つの援助もしてもらえなかった年老いた被爆者の心情をご理解ください。
それゆえ この20年間 協会は平和運動とともに ブラジルに住む被爆者だけではなくすべての在外被爆者への援助を日本に訴え続けてきました。 2001年には手段の一つとして裁判にもふみきりました。 その結果 政府は2002年より在外被爆者援護予算を献上するにいたりましたが 今のところ 本当の意味での救済にはまだまだ程遠いのが現状です。
一番の問題は すべての業務処置 及び援護対策が被爆者本人の訪日によって実現できる という仕組みにあります。 平均年齢70歳以上の方々に ブラジルの場合では少なくとも24時間の飛行機の旅 健康な人にでも大変なのに本当にお困りの病弱な被爆者がどうやって訪日できると思われるのでしょう。 そして 日本まで行くことができない人には何の対策も 今の時点では下されておりません。 現地には もちろん大使館、領事館といった日本政府の公式な場所もあり 在外選挙までも立派に行われてきています。
昨年は正式な国の事業として初めての医師団派遣事業も行われました。(これまで9回実地された医師団派遣事業は 国が主体ではなかったのです) そして 今年もまた10月には医師団派遣が予定されています。 昨年に続き 我々は 公館内で日本医師による健康診断実施を、また医師団に同行される県職員の方々に 原爆手帳交付と 健康管理手当て支給のための書類受付を 是非 実施されるよう 関係官庁にお願いをしてきましたが、今年も検討中という返事を受け取り、失望よりも怒りさえ感じています。
日本へ行きたくてもどうしても行けない。 本当は一番先に援助されなければならない方々が 未だ何の救済もされず この4月、5月にも相次いでお亡くなりになりました。
お二人は 昨年医師団来伯の際にも往診し、医師も とても訪日出来ないことを確認されており、その上 今年2月 初めて厚生労働省より現地調査に赴かれました2名の職員もたいへん心を痛めて下さいました。 しかし 誠に残念なことに 具体的な処置は何一つしてもらえず死亡されました。
国際法に従っても公館内は本国領土とみなされる旨 何故 日本政府は老齢被爆者の訪日にこれほどこだわるのでしょうか。 訪日に伴う膨大な費用を考えても 協会としては納得出来ないのが事実です。 ましてや 軍人恩給などは住む国を問わず どこに居ても支給されていることを考えれば 広島 長崎の犠牲者 特に援助を待ち望みながら他界された方々のことを思うと居たたまれないしだいです。
59年前の原爆投下。
アメリカが犯したこの犯罪はいかなる国際協定から見ても そして 人道的見地から考えても許せることではありません。 もし あの59年前の惨状が3年前の9月11日テロ事件のように 世界中の目にさらされていたなら 世論も救済も被爆者援護も違った形になっていたでしょう。 ましてや2発目 長崎への投下は許されなかったことでしょう。
残念なことは いまだに原爆被害のほとんどの資料はアメリカが保管しており、当時の状況はアメリカによって国際社会から隠されてしまったことです。 あの暑い真夏に 日本の二つの都市で起きた悲劇を アメリカを除く国際救済隊員が目にしたのは、もう雪のちらつく12月でのことでした。
椎名麻紗枝氏の書かれた本、<原爆犯罪>から引用させていただきます。
アメリカは、海外特派員に対しては、1945年9月6日以後12月まで、広島 と長崎への立入を禁止し、被爆の実相が海外に報道されるのを避け、また日本国内においては、同年9月19日を持って指令されたプレスコードで原爆報道を禁止した。 しかし、それだけではない。 アメリカが、被爆者の援護をしなかったのも、また ジュノー博士の救援活動を妨害したのも、救援を必要とする被爆者の存在が社会的に明らかになるのをおそれたからである。 さらに、アメリカは、原爆投下後23年目に初めて国連に原爆白書を提出したが、その白書でも、残留放射能による被害を否定して、生存被爆者に病人は居ないと報告している。
上記に示されている通り 原爆事実は 日本でも限られた範囲でしか理解されなかった部分があります。 ましてや その後アメリカと結ばれた条約によって 被爆者は 個人として加害国を訴える権利さえ失ってしまったのです。
1951年サンフランシスコ条約での第19条a項には、次のような規定が設けられました。 “日本国は戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄する。”
しかし 戦後10年以上経っても 原爆を生き延びた広島 長崎の被爆者たちには 次々と 健康上 または 社会的な問題が解決されることなく蓄積されていました。
原爆被害者が 他の爆弾による破損とはまったく違う影響を受けたことを誰しもが認めざるを得なくなってきたのです。
人類史上類の無い原爆投下の人体への被害は その後の1957年 日本政府における原爆医療法制定、1968年原爆特別措置法制定でも明らかです。
このように 戦後12年もたった時点で やっと成立された制度にも 在外被爆者への配慮は もちろんありませんでした。 それどころか この法律等を すべて国内法と謳い長年海外からの要請を受け付けようとしなかったのが日本の旧厚生省でした。
当協会は20年間 この厚い壁を崩すため努力を重ねて今日に至りました。
長い年月がんばってこれたのは 何をおいても‘在外被爆者‘ いいえ‘被爆者‘が もう2度と人類史上現れないように 我々の苦悩を二度と繰り返さないように との祈りと 皆様のご協力の結晶だと確信しております。
命ある限り 我々は体験を語り続け 在外被爆者への援護を訴え そして 世界平和を願い続けます。