仁山信号場


函館本線 昭和11年開業:現存(但し現在は、施設の使用はなし)




昭和41年10月、緩勾配新線(通称藤城線)が、七飯〜大沼(旧称:軍川)間に完成するまで、 ここ「仁山越え」は、補機が活躍する道内有数の鉄道名所だった。 20パーミルの連続上り勾配を、あのC62が牽引する急行ですら、 渡島大野からD52の後部補機を従えて登坂していった。 その途中にある当信号場であるが、行き違い線、乗降ホームともに、勾配上にあり、 スイッチバックとしての構造は、下り列車(上り勾配)発車時の加速用としてのみ存在する。

このタイプの“簡易型”スイッチバック構造を持つ信号場は、 「戦時型信号場」と呼ばれ、 太平洋戦争末期に全国の勾配区間で数多く採用されたものであった。
藤城線完成以降も、「仁山回り」の旧線は、主に上り列車用として残ったが、 客車列車もなくなった今(この信号場は、昭和18年から客扱いをしているため、新線開通後も 下りの旅客列車が設定されていた)、 スイッチバックの加速線を使う列車は皆無と思われる。 ただ、使用中、未使用拘わらず、「戦時型信号場」が、 加速線含めた施設全体として現存しているのは、全国で、ここが唯一であろう。 戦時体制下の鉄路を記録する意味でも、 この加速線は、いつまでも残して欲しいと願う次第である。
なお、当信号場は、JR移行を機に、正式な駅へと昇格したが、 駅標は「信号場」のままであると聞いている。
※当信号場の沿革に関して重大な新事実を発見。後述の最新報告を参照!!

*写真は、昭和53年頃。客車列車は、すでにD51からDD51牽引に変わりながらも、 列車交換時には、加速線上で待避していた。 脇を通過するキハ82系も、今はもういない。
ところで、藤城線開通前日、昭和41年9月30日、仁山回り最終の下り「ていね」 (本務機C6232、後部補機D5256)は、 仁山に臨時停車し、加速線から再び峠を目指したと聞く。その光景はいかなるモノだったのだろうか? 想像するだけでため息が出てくる。

●藤城線開通前の仁山信号場:その1


*まずは、「昭和40年代の蒸気機関車写真集」(タクト・ワン発行)から 転載させていただいた、C6244+D52400牽引急行「ていね」の 仁山信号場通過写真(撮影:富塚昌孝氏)である。 昭和41年4月撮影ということは、藤城線開通の約半年前、函館から大沼に向かう全列車が 仁山の上り勾配に挑んでいた最後の冬が終わろうとしていた頃である。
残念なことに、この写真に、スイッチバック自体の姿は捉えられていないが、 超重量級のスター機関車に挟まれた「これぞ仁山越え!!」という 姿(ちょうど後部補機が加速線と本線の分岐点あたりを通過中と思われる)、 前述の最終「ていね」(仁山に臨時停車)の出発シーンを偲ぶのにも 十分な迫力である。涙が出そう(涎が垂れそう?)とはこのことであろう。

なお、細かいことであるが、昭和50年代に筆者が撮影した写真(後述)と比べると、 その後、上り本線用のホームが函館側に延長されたことが分かる (富塚氏が撮影している地点が当時の上りホームの終端と思われる)。 逆に、下り本線用のホームは大沼方面に延長された気配がある (上下共に、板張り部分は、延長時に作られたものであろう)。
つまり、仁山信号場は、藤城線開通直前まで、 本屋前の踏みきり(「ていね」写真の手前に見える)を挟んで、 上下ホームがハス向かいに位置していたようである。 ただ、藤城線開通後、当駅の通行量が激減し、停車する列車も、 短編成の気動車が増加していくはずなのに、 ホームの有効長を延ばしたのは、少し疑問が残るところである。

上記二枚も「ていね」の撮影と同日と思われる。同じく富塚氏が、 仁山駅北方で撮影した、D51569 牽引の重量貨物列車(後部補機は、「ていね」と同じく D52の400号機。同日は主に、この機が 渡島大野〜大沼間の補機仕業に当たっていたのだろう)。
●藤城線開通前の仁山信号場:その2

*次の紹介するのは、「江田」「関山」等で素晴らしい写真を披露していただいた 大矢真吉氏撮影(昭和40年7月)による、仁山信号場の光景二態である。

*加速線との分岐付近に差し掛かる、D52牽引の下り貨物列車。 左に延びる安全側線からも、本線の勾配が分かっていただけるであろう。

*信号場で待避するD51牽引の上り旅客列車と、 信号場に進入するD51牽引(後部補機付き)の下り貨物列車。

※調査報告(平成12年9月段階)

道立図書館所蔵の「停車場平面図」に、 仁山信号場の開設当初(昭和16年8月訂正)と思われる配線図が記載されている。 それを見て仰天することに、当時の線形は、 後年の「戦時型」ではなく、シザースクロスを中心に 引き上げ線が点対称に配置されている、 「一般型」のスイッチバックであったのだ。
確かに、戦時型にしては、開設が昭和11年と早過ぎる気がする。 戦時型のプロトタイプ的な役割を持って作られたいう考え方も出来るが、 そうではなく、途中で構内配線を変更したというのが事実のようである。



では、いつ、どんな理由で配線の変更がされたのか?――であるが、 先日、仁山を訪問した兵庫の原英俊氏が、 現地で、以下のような碑文を発見したとの報を寄せている。

「顕彰碑  昭和十九年仁山駅の移転、改築の際、駅利用者ための道路を 整備する必要があった。  当時、道路の建設に必要な土地の所有者であった大道寺小市 医師が仁山地域の振興を願って土地を提供され、このご厚意に より仁山駅取付道路が完成したものである。  感謝の意を表しこの記念碑を建立する。             平成九年盛夏  北海道旅客鉄道株式会社」

この「仁山駅の移転、改築」というのが、 一般型のスイッチバックから戦時型への配線変更を伴ったものであるとすれば、 やはり昭和18年の客扱い開始と相前後して、その改良が行なわれたこととなる。
一方、「停車場変遷大事典」に、昭和27年〜32年頃、仁山の隣接駅間距離が 300m軍川寄りに移動した(「移転にあらず」とも記載)という記述があり、 この距離の変化は、スイッチバック改良に伴う駅中心の移動とも思われるが、 「戦時型」を採用していることからも、実際に配線が変更されたのは、 やはり昭和18〜19年頃と考えるのが妥当ではないだろうか。

なお、以上に関連して、「鉄道ピクトリアル」(平成3年3月増刊号)に、 興味深い記述がある。 沢柳健一さんという方が、戦中の昭和18年に渡道した際の思い出を綴った 「ドン行1482キロ 北海道の旅」というページに、 10月21日付けで「渡島大野―軍川間にはスイッチバックがあり、 上り黒松内発函館行き112列車が 左手の土手上に待避していた 」とある。
この待避形態は、配線変更前ということになるはずなので、つまり、 昭和18年の10月時点では、まだ変更は行なわれていなかったということになる。
また、「七飯町史」(昭和51年発行)には、 「昭和十八年、下り列車の待避方法が変更されて、構内改良と同じに、 現在の二十一キロメートル五百メートルの場所に移転の上、本屋の拡張をした」とある。
以上全ての資料を総合するならば、駅移設〜構内配線変更は、 昭和18年の暮れから翌年にかけて行なわれたと言えるであろう。
(上記資料提供:兵庫県・原英俊氏)

いずれにしても、大きな疑問として残るのは、 なぜ、わざわざ「一般型」から「戦時型」への改良(?)をしなくては ならなかったのであろうか?――ということである。
「客扱い」なら、この形態のままで十分可能だし、 引き上げ線のどちらかを複線にすれば、上下の交換列車を同時に停車させることも 出来る。
構内配線の大手術を行なってまで、 駅本屋を300m(?)移転させることが、 この土地にとって、どれほどの意味を持つものであったのだろうか?
全く理解に苦しむところであるが、 当時の客の便、取り付け道路等の用地確保を考えた場合、 下り方にあった引き上げ線(停車場平面図には「待避二番線」と記されている)を廃した上で、 当時の規定としてあった「戦時型信号場」の配線を 採用して、同時に駅本屋も移動させることが、 ベストな選択であったのかも知れない。
すべて、憶測の域を出ないが、仁山信号場が、単純な戦時型信号場でなかったことだけは 確かなようである。

*なお、この新発見をもたらした「停車場平面図」の調査に関しては、 江別市の奥山道紀氏に多大なるお世話になった。この場でお礼を申し上げたい。

※調査報告(平成12年12月段階)

火男斎さんのホームページ 内の「鉄の細道」というコラムに、仁山の最新レポートが掲載されているが、 ここに筆者も気づかなかった、当スイッチバックの“謎”が登場する。 氏の許諾を得て、一部を転載させていただくが、詳しくは、氏のページを ご覧になっていただきたい。


まずは、左の写真を見ていただきたい。これは、仁山の加速線(跡)の 途中の光景である。お気づきになったであろうか?
そう、この加速線は、なんと!途中から二股に分岐しているのだ!! 下り本線と加速線の分岐から100mも行かぬ地点から、右に分岐している線路が 存在する。 しかも、火男斎さんの訪問時では、直進する線路より、分岐側の線路の方が、 覆う草が少なかったというくらいだから、 いったいどういう役割と経緯を持った線路なのか考え込んでしまう。

まずは、いつから存在した線路なのか? これに関しては、まず筆者が撮影した時点でどうであったかを 確認してみよう。 ということで、拙ページに掲載されている写真の、該当箇所を クローズアップしたのが、右の写真である。
なんと、通常サイズでは気づかなかった「分岐点」の姿がはっきり捉えられている。
つまり、昭和53年の時点で、すでにこの分岐は存在していたのだ。
それ以前のことは、当時の写真類を調べるしかないが、 少なくとも、加速線の稼動中に、この分岐線は設置されたことは確実である。

では、その役割は?
写真の、積もった雪の様子から、加速線として日常使われている線路は、やはり 直進側だということは、はっきりしている。
ひとつの可能性として、火男斎さんは、 「保守用車両を留置する“横取り線”である」可能性を上げている。
確かに連続勾配区間である、この付近に、水平な横取り線を取ろうとすれば、 加速線から引き出したこの場所が最も自然とも言える (スイッチバックが廃止された跡の、引き上げ線が保線車両の置場になることは多いが、 この時点では、まだ加速線は現役だったゆえ、そこをそのまま使うことは不可能)。
ただ、氏は、同時に 「分岐器が、通常、横取り線に使用される“乗り上げ型”でないことと、 分岐側の線路が、本来の加速線に比べて、長さも設備も遜色無いことから、 反駁も可能と思います」とも語っている。
その反駁というのは、極端な場合は「加速線複線説」まで発展する可能性があるが、 勾配上で上下列車が交換する構造の、戦時型信号場で、いくら輸送量が増えたからと言って、 2本の下り列車が加速線に並んで待避する事態はあり得たであろうか?
当時のダイヤでも紐解かないと、これ以上は何とも言えないが、 あるいは上記の両方の用途を有するものとして、 この側線が、かなり早い時期から設置されて いた可能性はありそうである。
以下左に、この分岐線を書き入れた、修正版のマップを掲載する。


さらに火男斎さんは、興味深い報告をされている。
右写真を見ていただきたい。
下り本線から(旧)加速線に分岐する、分岐器は、 本線側でなく、なんと!!加速線側に開いているのである。
渡島大野側の本線分岐器が、上り線定位ということからしても、 安全側線的な考え方で行けば、加速線側に開いているのは 道理であるが、仁山経由で運行する下り列車が、下り本線に進入する場合は、 この分岐器を、一旦本線側に切り替えなくてはならないことになる。
実際、上滝徹三郎氏より、以下のような報告を受けている。
「私が仁山に行ったのは、もう12年前になります。 加速線側から下り普通気動車列車の発車を見物したのですが、 この際、一応ポイントが加速線側に切り替わり、 加速線の遠方信号が進めに現示されたような気がします。 もちろん、列車は加速線に後退することなく、そのまま発車していきました。 例によって、なんの記録も無く、あやふやな記憶で申し訳ありませんが、 もし、この記憶が正しければ、たとえば大糸線で大量のヤスデをふんずけて、 空転して動けなくなったトラブルのようなことが起こったときは、 加速線を使用するような運用になっているのではないでしょうか」
また、先の火男斎さんは、加速線のホーム(筆者が撮影した写真で、 DD51が止まっているあたりに見える)付近にあるレピータ (出発信号の現示を確認するランプ)が、 現在でも稼動中ではないかとの報告をされている。
これらのことより、加速線分岐点に関して以下のようなことが推測できる。

1)通常、下り本線と加速線の分岐点は、加速線側に開いている。
2)仁山経由の下り列車が進入する際には、本線側にポイントは切り替わる。
3)下り列車が出発する際には、ポイントは再び加速線側に切り替わる (それは列車が加速線を使うか使わないかに拘わらず)。

もちろん、すべて推測の域を出ないが、ただこれだけは言えるのではないだろうか?
仁山信号場の加速線は (通常ダイヤでは使用列車こそないものの) 現役である。

※戦前、及び加速線使用当時(特に藤代線開通以前)の写真捜索中!


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