「深井」と「御井」 |
1 高麗系の帰化人と「御井」
この記録の「小県郡人高麗家継等には御井」について1990年に出版された東部町誌歴史編では「御井」が「深井」のことではないかとしている。
それは「深」が「ミ」と訓読みされ「深井」が小県郡において古い地名(または氏)であること、西深井には「しら志げ」という地名があり白髭神社がある。
また、正倉院に「信濃国小県郡海野郷爪工部君調」と記されたものがあり国郡郷制の定着が天平12年(740)以後で他の正倉院の収納物から見てもその年代に近いものとされ「爪工部」が帰化人の技術集団である事から述べられていると推察される。
2 「御井」という言葉
「御井」という言葉であるが、古代韓国語では「ミイ」は、水湧、三代・三回連続を意味し、高句麗語では「ムィ」と発音されたらしい。
滋賀県大津氏の三井寺「園城寺」は、大友村主与多王(大友皇子の子)が天武天皇(673〜686)に奏上した氏寺である。この寺内には「御井」という泉があり、天智、天武、持統の三天皇の産湯に使用したとのことである。そのため「御井」、「三井」と呼ばれている。
高麗家継の「御井」については、青木村田沢の子檀嶺神社の祭神が木股神であることから「御井」は青木村田沢でないかというい説もある。これは木股神が「御井神」でもあるからである。
木股神は、大国主命と最初の妻である稲羽(鳥取県)の八上比売命との子で嫡妻を畏れ御子を三叉の枝に挾んでおいたことからそう呼ばれる。木股神はそのいわれからも分かるように「木の神」であるが、また「御井神」ともいわれ「井泉の神」でもある。泉は多く山の端の森林の中にあったので一神に木と井の名が語られたのであろうということである。
3 高麗人と三井寺
高麗人についてであるが、先に記したが延暦18年(799)2月条の高麗家継、高麗継盾の祖先は高麗人である。高麗人は小墾田宮(推古天皇593〜628)、飛鳥岡本宮(舒明天皇629〜644)の天皇治世のころ日本へ多く渡来している。
埼玉県入間郡日高町(旧高麗郡高麗村)に霊亀2年(716)高麗人の移住とともに高麗郡が置かれている。
この地には、高麗神社があり分社が、ある所では大宮神社、広瀬神社、白鬚神社となったりしており、関東地域でも130余社をかぞえる。
「白鬚」のいわれであるが、西暦660年に自国の戦禍から逃れて来た高麗若光王は一族をつれて日本に亡命、朝廷の指示で大磯に上陸したその後子孫等が入間郡に移動していく、高麗若光王は晩年その髭と髪とが白かったことからその霊を祭った神社は、「白鬚」、または、「白髭」神社といわれるようになったとされているが、新羅系帰化人の神社「新羅神社」が「シラガ」そして「シラヒゲ」となったという説が有力である。
なお、新羅神人の本社は滋賀県三井(三井)寺の境内にある。
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