月島 

兎のすむ街


「参っ たなあ、入社早々遅刻じゃ、所長に怒られちゃうよ」
 大川真一は都内の中堅会計事務所に就職が決まり、親元から独立し、アパートを借り、この春から通勤を開始し た。
 真一は越してきて隣室に挨拶することにした。
 土曜日の午前11時、503室の真一は隣の504号室のドアの前に立っていた。インターフォンのボタンを 押した。しばらくして、ドアの向こうでカタカタ音がしていた。ドアの前にいるような気配がするが、全く返事 がない。インターフォンにはカメラが付いているので真一の姿は見えているはずである。
「すみません、今度、隣に引っ越して参りました大川と申しますが、ご挨拶に」
 10秒ほどの時間が流れても返事がないので、真一はまた声を掛けた。
「怪しい者ではございません。隣の者です。詰らないものですが、これをどうぞ」
 彼は手にした近所の千疋屋(せんびきや)で最高のケーキを持参していた。カメラに箱が見えるようにした。 すると、ドアの直ぐ側でガタンと大きな音がした。
「あたしさ、今、ダイエットしてるのよね。ケーキでしょ? あんた、知っててそんなもの、持って来た訳?  」
 何か刺々しい感じの女性の声で返事がした。真一は返答に困った。
「ああーん、あんた、今、あたしがデブだと思ったでしょ?」
 真一はそんなことは全然考えてもしなかった。
「いいえ、とんでもないです。そんなこと、滅相もないです」
 そう答えてから、あ、この人、きっと、太った人なんで、体型にコンプレックスを感じているのかな、そう 思って答えた。
「僕はぽっちゃりしてる人が好きですから、太ってても気にしないですね」
 5秒ほどしてからドアの向こうでカチャリと音を立てて、少しずつ、ドアが開いていく。
「今さ、すっごいラフな格好してて、人様に見せたくない訳、でさ、あんた、結構、いけてるんで、許して上げ る」
 すき間から見えるその女性は前髪を垂らして顔は良く見えない。ピンクっぽい色のTシャツと赤のパンプスを 履いていた。左手でドアノブを押さえ、右手をおでこに当てていた。
「ああ、まぶしいー。光が当たると身体が辛くて。いつもはこんな愛想悪くない訳よ。あんた、気分悪くした?  」
「す、すんません、あなたの事情も考えず訪問してしまい申し訳ありません」
「あんた、若そうだけど、結構、言葉遣いとか声とか、いいじゃん? どっかの大店の御曹司とか?」
 初対面の人に行き成りいろいろ話すべきではないであろう。適当に返事しておくべきであろうか、とか考えな がら答えた。
「まあ、普通のしがない会社員です」
 そつなく交わせたかな、と思った。
「あたしの正体知ってる? 聞いて驚かないでよ。あんた、隣に済んでるっていうから教えて上げるんだけど ね。今後のこともあるからね」
 真一はあまり聴きたくなかった。変な人だなあ、と思いつつ、越してくる前に、どんな人が住んでいるか調べ ておいたほうが良かったのかな? などと考えていたが後の祭りである。
「あたしの正体、分かる? 」
「さあ、全く予想も付きません。このすき間からでは全くあなたが見えませんから」
 普通、そんなこと聞くかな、そう思いながら、仕方なく、そう答えると、直後、女はあっと声を出した。
「何か?」
「あなたが見える。あなたのが見える。あなたが見える」
 突然、女は呪文のように同じ言葉を唱えだした。
「はあ? 私はここにいますので、見えて当然かと? 僕の何が見えると?」
「あんた? 馬鹿? 」
 行き成り初対面の人間に馬鹿と言われてしまったのは心外であった。しかし、ここは取り敢えず当分住まない といけないから、ぐっと静かにこの女の不可思議な言動を見守ることにした。
「あんた、経理の仕事してるでしょ? ずばり、会計事務所勤務? でしょ?」
「ええ?? えー? 」
 さすがに真一は驚いた。
「どうしてそんな事、分かるんですか? 何も話してないのに」
「ふふ、あたし、霊能力者って言うの? それとも、超能力者って言うのかな? あなたの後ろに今立っている 霊とかと、会話できちゃう訳ね。そうだ、あたしの名前言ってなかったわね、あたし、サダコ、よ・ろ・し・ く・ね」
 女は低い声でそう言った。始めから何かに似ていると思っていた違和感はこれだった。その女の前髪を垂らし ている姿が、何か映画で観たことがあった。昔、リングとか言うホラー映画でその中に出て来た女の名前が貞子 だった。そう思ったら、真一の腕に鳥肌が立った。そう思った瞬間。真一は前に組んでいた片腕をその女に突然 捕まれた。
「ウウウウウーーーーーウーー」
 女は前髪を振り乱しながら真一に近づいて来た。びっくりした真一は女に捕まれた手を振りほどこうとして後 へ下がろうとしたら、女に捕まれた手を急に解放されたので、勢いあまって後ろへ飛んでしまった。ゴキンと嫌 な音が聞こえて、真一はその瞬間、目の前が暗くなっていった。
  *
「大丈夫ですか? 大川さん、大丈夫ですか?」
 真一が目を覚ますと、目の前に誰かの顔があった。心配そうに真一の顔を覗き込んでいる。結構美人である。 大きな瞳に見つめられていた。
「あれ? 何処かで……観たような」
 真一はぼんやりする記憶を振り絞った。何故こんなところで寝ているのか?
「あら、良かった。頭をぶつけたみたいだけど、記憶喪失にはなってないみたい」
 真一ははっきりしていく記憶ですっかり女の顔を思い出した。お得意先のブティック「コスメ」の店長代理、 五十嵐である。まだ、20代という若さで、時代に合ったデザインの買い付けは若者の支持を集め店は繁盛して いる。真一が経理を見ていて承知の事実である。
「あれ、五十嵐さんが何でここにいるのですか? 」
「ごめんねえ、大川君。ちょっとからかって上げようと思ったら、こんな事になって」
 五十嵐の話はこうだった。1週間前、空き室だった隣に人が越して来るというので様子を伺っていたら、店の 経理をみて貰っている佐藤会計事務所の大川だった。それを知って、うれしくて、プランを夜な夜な練ったとい う。今日の日を待ちに待っていたという。ファッションのアイデアに飽き足らず、日常でも茶目っ気を持った魅 力的な女性である。その人の隣に越してきた大川もまたこれからの生活に何か楽しい予感を感じた。


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