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忠犬
田所には15年間飼っていた芝犬がいた。犬はすっかり年を取り、人間の年齢に換算すれば、田所の年齢を既に抜き去り、機敏だった動きも鈍くなり、日がな一日田所が座るリビングのソファーの傍らで寝ていることが多くなった。
あるとき、田所がいつもと同じように、犬をリビングに置いて、勤めるオフィスに出勤し、執務をしていた。もうすぐ、昼休みという時間に、彼の犬が突然現れた。田所の机の端に前足を掛け、長い舌を出しながら、クイーンと静かに泣いて顔を出した。絶対出られない部屋の中に置いて来たのに、田所は驚いた。
「太郎、どうやって来た？ 」
田所が身体を犬に向けると、犬が飛びついてきて田所の顔を盛んになめた。
「分かった、分かった、もう、止めなさい」
田所は笑いながら犬の身体を撫でてやった。
田所が不思議に思うのも無理はない。彼は地下鉄に乗って出勤するが、たっぷり1時間は掛かる距離である。犬が地下鉄を使ってやって来られたとは思えない。大体、家の鍵は閉めたのを確認して出て来たし、犬が出入りできそうな窓は全て閉めてきた。
彼は犬連れで仕事をする訳にも行かず、上司に話しその日は休暇を取った。
「おお、忠犬だなあ。そんなに飼い主さんが恋しかったのか？ 」
口うるさい上司も愛犬太郎の顔を見てにんまりとしていた。
「しかし、ここの会社、一応、セキュリティが厳しいと思うんだけど、良く犬とは言え、入れたな？」
田所も不思議に思った。田所の会社はＩＴ産業、玄関もＩＣを埋め込んだ社員証をシステムに読ませないと、各部屋のドアは開かないことになっている。
「さあ、一緒にうちに帰るぞ、太郎」
そうは言っても犬をゲージに入れず地下鉄にも乗れないから、田所は会社の前でタクシーを拾い帰宅することにした。
「太郎、お前のお陰で今日は散財だぞ」
そういう田所の言葉には、自分を慕ってきてくれた犬への思いに、うれしい気持ちはあっても、怒る気持ちは微塵もなかった。
自宅について、玄関のドアの鍵を開ける。
「やっぱり、ちゃんと閉まっているよな」
開けると、脇にいた太郎は音もなく家に入っていった。
田所が犬の後に続き、家に入る。スーツを脱いで、部屋着に着替えてリビングに向かった。
「太郎、お前のお陰で、特別休暇だな」
リビングに座ると、いつものように、リビングの傍らに太郎は静かに横たわっていた。
「今日は疲れたのかい、太郎？ しかし、お前も歳を取って散歩もろくすっぽ出来ないのにあんな遠くまで良く来られたなあ」
田所が声を掛けても太郎は少しも動かなかった。田所は動かない太郎を大急ぎで動物病院に運んだ。医師の見立てでは死後2時間以上は経過していて、死因は老衰という診断であった。
「そんな……ほんの少し前まで一緒にいたんです」
太郎は最後の別れをするため、田所に会いに会社に来たとしか考えられなかった。仕事で留守がちだった田所は随分寂しい思いを犬にさせてきたが、愛犬の最期を看取れて彼は満足だった。
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