パッチワーク
平八郎の母は裁縫が上手だった。縦20センチ、横30センチ、高さ20センチの四角い木箱に母のお気に入りの裁縫アイテムが入っていた。彼はその箱が裁縫箱という名前だと母から聞かされた。その箱には小さな引出が付いていて、開けると綺麗な糸が何色も入っていた。小学生の平八郎はその小さな箱を覗くのがとても好きだった。母は6畳の和室の真ん中にちょこんと正座すると、裁縫箱を身体の左脇に置いて、1日の大半をそこで過ごす。小学校から彼が帰宅すると、母に尋ねた。
「お母ちゃん、何作ってるの? 」 「ああ、姉ちゃんの服さ、お前のもこれが終わったら作ってやるからね」
彼は作ってくれることをあまり喜べない。どちらかと言えば、既製の服を買ってくれたほうがいいと思っていた。何故なら、余った生地を継ぎ接ぎして作るからだ。上の兄弟の余った生地で彼の服は作られることが多い。
昭和30年台、戦後から復興し、かなり洋服も洒落たものが出ていた。継ぎ接ぎの服を着る人はほとんどいなくなっていた。周囲の皆が継ぎ接ぎの服を着ているなら、可笑しくもないが、一人だけというのは辛い物がある。今でこそ、パッチワークというちゃんとしたデザインのものが売られたりしたり、作ったりしている方もいる。これは悪い意味の継ぎ接ぎではなく、ちゃんとしたデザインなのである。平八郎にはそんな価値は、幼い頃には思いいたらなかった。
パッチワークを着ている人と出会うと、50歳を過ぎた平八郎には時々幼い頃の母の記憶がよみがえってくる。今、彼は亡き母にこんな言葉を掛けてやりたいと思っている。
「お母ちゃんはパッチワーク・クリエーターだね? 」
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