遺伝子

 

 いよいよ私の命も残すところ数時間である。現代科学が進歩し、遺伝子情報解析が進み、病気になる時期が分かるようになった。その遺伝子情報によれば私の寿命は明日午前三時二四分一〇秒、急性心不全により生涯を閉じるらしい。現在五三歳。男の平均余命八三歳であるからちょっと早いかな、と思う。しかし、ここまで正確に寿命というものが分かるのであるのか。科学の進歩というべきか。

 しかし、視点を変えればここまで正確に分かるのであるならどうして死ぬことを防げないのか、遺伝子操作をして変えられる技術が確立しているが、倫理委員会がこれを許可していない。私はそう推測している。

 しかし、そんなことはもうどうでも良い。既にやりたいことは全てやってしまった。もう、思い残すことはない。ただただ死を静かに迎えるのみである。時計を見る。午前〇時を過ぎた。残すところ、三時間少しである。こうして平静を保って死を迎えられるのも長い時間、カウンセリングをしてきたお陰というものである。

  *

 今から一年前、人間ドッグの遺伝子検査を受けた。かなり高価な検査料ではあったが、新しい物が好きな私は話の種に受けてみた。結果は二〇一〇年一一月二三日午前三時二四分一〇秒に急性心不全により死亡する、という診断である。我が耳を疑った。それから今日まで一年弱、それまでできないで躊躇していたあらゆることにチャレンジし続けた。人間死ぬ気に成れば何でも出来るという例えはあながち嘘ではなかった。五三年余、蓄えた蓄財を半年で使い果たした。そして、なりふり構わず、あらゆる金融機関から借金をし、その元手でやり残した事業を起ち上げ、経営も試みた。もう思い残すこともないくらい人生を十分楽しんだ、と言いたいところであるが、もうにっちもさっちも行かなくなっている。あと少しで死ねるというのは実に好都合である。こんなことになったのも、起業が原因であった。起こした会社は当初の二ヶ月は順調だった。ところが顧客に騙され、たちまちのうちに経営不振となり、あれよあれよのうちに倒産し多額の負債だけが残った。元金の千倍以上の負債を抱えてしまった。それでも、めげず一発逆転を狙って、借金をしてやったギャンブルは大負けし、これまた、借金だけが残った。

幸か不幸か、子孫はない。まあ、子孫に借金を残すなんてことにならないだけ良かったと思っている。私が死ねば借金の回収は困難である。債権者には悪いことをした。いわゆる踏み倒しという奴である。もし、私に子孫がいたら、恨まれたことは間違いないであろう。嫌、私に金を貸した奴等は子孫以上に恨むであろう。天涯孤独な私には迷惑をかける家族などという身内はいない。それだけでも安らかに死ねるというものである。

 私はロッキングチェアに身を委ね、最後の時を静かに待っている。時計を見ようと思ったが、もはや、そんなことはどうでもいい。静かに死を迎えたい。

  *

 日の光が眩しくて目を開けた。つい、寝入ってしまったようだ。時計を見る。午前六時。

「えっ、」

思わず声を上げた。そのとき、電話がなった。とっさにどうして私は生きているのであろう。そう思いながら、受話器を取る。

「袴田さまですか。日本健康促進センターの谷口でございます。朝、早くから失礼いたします」

 谷口は私の最期を迎えるためのメンタル相談を親身に相談に乗ってくれていた担当カウンセラーである。

「袴田様の検査結果の診断にミスがあることが判明しました。袴田さまの死亡はまだ先の二三年後の…」

 私は即座に何をいおうとしているか理解できた。いわゆる誤診というやつである。喜ぶべきであろう。しかし、喜んでもいられない。

「これから二〇年以上、借金を返す人生」

 そんな人生、真平である。私は谷口カウンセラーから処方されていた残りの精神安定剤を取り出す。一粒ずつ、口に含んではゆっくり水と一緒に飲み下していった。

 

 

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