夢見心地
「ANNニュースです。本日、厚生労働省は健康器具製造販売業、大手の桃源郷に対し、「仮想眼鏡・夢見心地(ゆめごこち)」の生産中止と、製品の回収を1ヶ月以内に行うよう期限付きで命じました」
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「おーい、重子、また、ハンカチ忘れちゃったよ、持ってきてくれないか」
田所平八は玄関から台所にいる平八の妻重子に向かって叫んだ。
「あら、また、もう、でも、今日は思い出しただけましかしらね? はい、」
重子はあきれ顔でハンカチを平八の前に差し出した。
「ありがとう」
平八はハンカチを受け取るとズボンのポケットにねじ込んだ。
「じゃ、行ってくるから」
「いってらっしゃい。あ、今日は早く帰ってきてね」
「え? 何? 」
「あら、今日はあたしたちの結婚記念日でしょ? 夢見心地で出会ってもう3年よ」
「そうだったっけ? うん、分かった。なるべく早く帰る。じゃ、行ってくるよ」
歩きながら平八は顔をしかめた。
「重子が言う夢見心地って、何だったろう」
思い出そうとしたが思い出せない。結婚相談所だったろうか。最近、ときどき、もの忘れが増えた。
気がつくと、会社の机の前にいた。時計を見ると、午後6時である。
「あれ、なんか、ずいぶん時間が飛んだ気がするが… 」
地上43階の重役室から見る窓の外は真っ暗であった。眼下に街のネオンが輝いている。平八はいつの間にか個室を与えられる身分になっていた。豪華な机、ふっくらした革張りの椅子に深く腰掛けながら感慨にふけった。
「長い道のりだったなあ」
とは、思ったが、苦労した気がしないから不思議である。いつの間にか重役になっていた。
「あなたお帰りなさい」
「あ、ただいま、」
目の前に重子が立って白い歯を出し笑っていた。その重子の顔を見たらほっとした。
「なんか変だなあ。今まで仕事をしていた気がしたけど」
そう思った途端、体の力が抜けた。膝が崩れ、その場に倒れ込んだ。体に力が入らない。まるで自分の体ではないようだ。何もかもが重い。やけに頭が締め付けられるように重い。金縛りになったように動きがとれない。やがて、意識が遠のいていった。
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「田所平八。N商事営業課渉外係。45歳。独身」
警視庁の鑑識課と生活安全課の警察官が5人ほど、ベッドの上で身動きしない平八の周りを取り巻いていた。
「死後1週間ですか」
「また、この人も餓死ですかね? 」
「ああ、この眼鏡を掛けると、ずっと、夢にのめり込んで、食べることも忘れる。危険な機械だ」
平八は水中眼鏡のように大きな眼鏡を掛けていた。それは、桃源郷が開発した夢を見る眼鏡「夢見心地」であった。現実を観ることなく夢を見続けられる現実逃避の眼鏡。厚生労働省がこの使用を警告した矢先の事件であった。
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