夏休み
サラリーマンの田所長七郎は、暑くて目を覚ました。広い野原にいた。 「何処だろう? 」 辺りを見回す。遠くに山並みが見える。何処かで見たような気がする。後ろで誰かが名前を呼んでいる。振り向くと、妻のミヤコが手を振りながら駆けてくる。 「おーい、転ぶなよ」 長七郎はミヤコに向かって大声で叫んだ。 * 長七郎は会社のデスクに向かって書類の計算をしていた。真夏だというのに冷房が効いて快適な空間である。しかし、都会の風景はあまりに殺風景だった。 「これが高原だったらいいのになあ。高原の山小屋で仕事ができたら、気持ちいいだろうなあ」 長七郎は瞼を閉じながら、妻と行った八ヶ岳を空想した。 「こんなときはあそこでのんびりしたいなあ」 妻のミヤコは、昨年の夏、病気で突然亡くなった。まだ、50になったばかりだった。あれほど、毎年八ヶ岳に行こうと約束していたのに。昨年ミヤコと2人で行った八ヶ岳が最後だった。今年はたった1人で行く気にもなれない。 長七郎はあと僅か2年で定年退職する。仕事を続けていれば気が紛れるが、ふと息を抜くと、事あるごとにミヤコの思い出がよみがえってくる。 「うーん」 ため息を吐きながら長七郎は机に向かった。 「田所君、この書類のデータを去年のと比較してくれないか? 」 係長から書類の束を受け取った長七郎は、文書保管庫に入った。冷房が壊れているのであろうか、室内が暑かった。書類の箱を開けると中を取りだして、目的のものか確認していった。そのとき、大音響と共に建物が揺れ出した。しゃがんでいた長七郎の上に書類の箱が転がり落ちてきた。長七郎は息ができなくて苦しんだ。 * 「何処に行っていたんだよ」 「やっぱり、下のビジターセンターで待ち合わせすればよかったかしらね」 「え、待ち合わせ? 」 「いつもあなた言ってたじゃないの。俺たち、なんかあったら、八ヶ岳高原で待ち合わせような、って」 「うん、そんなこと言ってたな。でも、何で、ここにしたんだろう? 」 「そりゃ、思い出の場所だからじゃないの? 」 そう言われると、そうだ。何で、そんな大事なことを忘れてしまったのだろう。 ミヤコと結婚したのが26歳の時だった。新婚時代、夏休みは何処に旅行するか話し合って、東京に近くて環境のいい八ヶ岳にした。東名高速を利用すれば4時間で来られる。その分、のんびりできるというわけである。途中、子どもが2人できた。子どもが成長するにつれ、高原は思いも掛けない楽しい場所になった。毎年、夏休みには必ずこの高原に来た。ペンションがおしゃれだったこともある。 「子どもたちがいないな」 「ほら、あそこで遊んでいるわ」 ミヤコの指し示す方向を見る。子どもたちは虫取り網を持って何かを追いかけていた。 「暑いわね。木陰に入りましょうよ」 子どもたちが走り回る高原の真ん中に高さ50メートルはあろうかと思う大木が立っていた。ミヤコはその大木に向かって歩き出した。 「こんな大木があったんだ」 「あら、毎年来ていたのに気が付かなかったんですの? 」 長七郎は頭をかいた。近づいたが、幹はさらに随分太い。 「でも、こんなに大きな木があったら気が付いていたけどな」 ミヤコはくすっと笑い、持っていたバスケットからビニールシートを取り出し広げた。ミッキーマウスの絵がこの高原の雰囲気と比べると何とも不釣り合いだった。何時間もそこにミヤコと並んで座っていた。別に話すことはなかった。そうやって毎年過ごしてきた。 「ねえ、そろそろ行きますわよ」 「え、何処へ? 」 ミヤコはにっこり微笑んだ。 「オジサン、行くよ」 子どもたちがいつの間にか側にいた。でも、長七郎の子どもではない。長七郎は辺りを見回した。 「子どもたちがいないぞ」 「もう、あの子たちはとっくに自分たちの道を歩んでるわ。もう、安心して行きましょう」 「オジサン、見てよ」 大きな幹には直径30センチほどのほこらがあった。その中に、成長した長七郎の子どもたちがいた。彼らの子どもたちと一緒に凧を揚げている。 「きみたちのお母さんは何処なの? 」 「うん、あそこ。おじさんを迎えに来たんだよ」 子どもが天を差した。雲の切れ目から光線が八ヶ岳の山々に降り注いでいた。ミヤコが長七郎の手を握った。 「あなたは死んだのよ。さあ…」 長七郎は辺りを見回した。 「八ヶ岳か。また、来たいな」 ミヤコはにっこり微笑むだけだった。
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