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悲しみのロンリガイ ある日、一通の手紙が届いた。差出人は田中とだけあった。中学まで同級だった田中君からだった。それは、三十五枚に渡る手紙だった。長い手紙を読む前に田中君のことを思い出してみた。
「より速く泳ぐ」ことは、田中君の目標だった。
小学生のころ、泳ぎだけは誰にも負けなかった田中君は、誰からも称賛を浴び、オリンピック候補とも、神童とも騒がれた。僕は水泳の時間になると、田中君の泳ぎを憧れのまなざしで見ていた。そして中学生になると、僕と田中君は水泳部に入部した。僕はただのスイマーだったけれど、田中君はオリンピックに出て、ついに金メダルまで頂いてしまった。しばらく騒がれていたけれど、田中君は誰よりも遅い奴になった。そう、僕よりも泳ぎが遅くなってしまった。
田中君はプールサイドに座って僕に悲しそうに言った。
「水に入って足や手を必死になって掻くが、体が前へ進んでくれない。まるで、水を捕らえると言う感触がないんだ」
なるほど、その場で止まっていたと言ったほうが早かった。体育の先生も不思議がった。「水を得た魚」という絶好調のときに使う言葉があったが、まるで水に馴染めなくなっていた。長いスランプが田中君を容赦しなかった。僕が引き止めたが、田中君は水泳部を止めていった。彼はやがてノイローゼになり、病院へ入ってしまった。何回か訪ねたけれど、面会は出来なかった。先生に言わせると、自分の世界を作っていて、現実の世界と接触すると精神崩壊を起こし、危険だと言うのだった。
ぼくの知っている田中君はここまでだった。中学を卒業して、僕は高校へ行った。それから、大学を卒業して、社会人になって、普通のサラリーマンを僕はやっていた。いつのまにかせわしない毎日が、田中君のことを忘れさせた。
僕は田中君の手紙を手に取った。
*
こんにちは。元気かい? 今、僕は、ちょっと落ちこんでるんだ。
久しぶりに君と会いたいね。会って話せるといいんだけど、今の状況じゃ、多分話せないと思うんだ。近況を書くから。しかし、顔だけでも見たいなあ。
何処から書けばいいだろう。最初から書くか。まあ、何処が最初かも分からないけれど。取り敢えず、僕たちが会えなくなった、中学卒業あたりから書くか。
高校一年の夏、僕は近所の区営プールへ久しぶりに泳ぎに行った(実際、泳いでも前へ進まないから、泳ぎに行くという表現は正しくないが)ときのことだ。水に漬かっていた僕は、突然水中から弾き飛ばされ、水面に転がった。水面に接した僕の体は、ブヨブヨした水の感触を感じていた。指の先を水面に押し当てるが、まるでビニールの幕がかかったように水の中に指を入れることすら出来なかった。僕の体が、水を拒否していた。
それからというもの、僕はプールへ歩きに(泳げなくなったから)行くようになった。プールサイドに座った僕の前をピンクのゴーグルを着けた女の子が、水飛沫を上げて横切っていった。僕は条件反射のように女の子を追いかけていた。僕が無類の女好きなのは君も知ってのとおりだ。
「ねえ、きみって、魚座だろう?」
女の子の泳いでいる横に並んで、ほふく全身しながら、よだれを垂らし、唐突に声を掛けている。(君は真面目だったから、ナンパなんかしなかったね)すると、すぐ側の足元で
「あんた、ここは泳ぐとこよ……」
僕は声のするほうを向いた。中年のおばさんが、僕のすぐ側で、蔑むような視線を浴びせていた。
「そこの男性!水の上を歩いてる人。泳いでいる人の頭を踏むと危険ですから、すぐにプールの外へ出てください! 」
プールサイドから褐色に日焼けした二十歳くらいの監視員が、僕にメガホンを向けて怒鳴っていた。僕は水の上に呆然と立ちすくんでいた。すると、監視員は間髪を入れず、
「ねえ、きみ、早く出たまえよ。歩くならプールの外で歩きたまえ、外で」
「そうだ。プールで歩くくらいなら、外で歩けばいい」
頭の禿げた五十歳くらいの親父さんが、真っ赤な顔を、半分だけ水から出して、足元のほうから僕を迷惑そうに見上げていた。
「す、すみません。すぐ出ますから」
気の小さい僕は、条件反射のように謝っていた。(何で謝っているんだ僕は)謝りながら、僕は思った。水の上をゆっくり歩いてプールサイドへ上がった。みんな僕の優れた能力に嫉妬しているんだ、と僕は思った。
「ウソー。ホント。まじー。キャー! 」
廻りで騒ぐ黄色い声が聞こえた。僕は平然を装いながらプールサイドに上がり、おもむろに椅子に腰掛け煙草をくわえた。そう、僕はこのころ不良の高校生だった。金メダリストと言う頂点から泳げない取り柄のない奴に転落したら、人間なんて、なかなか這い上がれないものさ。煙草はアウトローぽくていいね。君はもちろん吸ってなかっただろうね。
「プールで歩いてもいいじゃないか。水の上は軟らかくて、冷たくて気持ちがいいんだ。お前らにはこの気持ちが分からないだろうな」
独り言をいいながら煙草に火を付けようとするが、吸いなれないせいか、手が滑って煙草を落としてしまった。やっぱり高校生は煙草を吸ってはいけないな。君だって、そんな失敗はあるだろう? そうか、ないか。君は吸わないんだろうなあ。体に良くないもの。慌てて転がった煙草を拾おうとしたら、誰かの足が煙草の側にあった。顔を上げると、いつのまにか、ハイレグ姿の五、六人の娘たちが、僕を取り囲んでいた。
「ねえ。一人で歩きに来ているの? 」
とびきりの胸と尻が飛び出したナイスバディの娘が、僕の顔をじっと見つめながら言った。僕は、娘の白い右胸にできたほくろを見ながら、言った。
「ぼ、僕のことかい。水の上をちょっと歩きに来ているだけさ。もちろん一人きり。僕みたいな奴は特別扱いでね。つねに寂しいものさ。そう、悲しみのロンリイガイさ」
「キャー。やっぱり。歩いてたんだあ。かっわいいー」
水さえあれば、どこででも女が集まり騒ぐ。そして、周りの男は嫉妬する。今のところこの能力を社会に役立てようなんて、僕はまるで考えていない。とにかく目立ってもてることに生きがいがあった。以前のように。でも、この能力の生かす道が何もなかったら、それはそれで惨めだ、とも思うさ。君もそう思うだろう。
君も知っているだろうけど、ぼくの母は心配性なんだ。こんな体になってすごく心配している。僕は別に不便を感じていないけど、母のすすめで仕方なく大学病院を受診した。僕は受付から取り敢えず内科を受診させられ、それからいろんな所を回って精神科に行き着いた。
大学病院のお偉い先生によると、速く泳ぎたい、目立ちたいという強い願望が精神を変えたという。どう精神が変わったか、すぐに分析できないらしいが。世の中分からない事だらけだ。
「命に危険はないから安心していいよ」
特殊能力の診断だったはずなのに、どうして精神科なのかわからなかった。精神科の医者は、にこにこして楽しむような顔をして僕を見ていた。
「諦めず、根気よく治療していこう。そうすれば、水の中にも入れるから」
高額な診察料を払ったのにこれだけだった。治療していこうと、医者は言っていたが、治療しなければならない理由が僕には分からなかった。別に水の上を歩けても困らないのだからね。
プールもいいが、やはり海が最高だった。広がる大海原の水面をさっそうと走る姿はさすがに注目の的だった。褐色のサーファーも真っ青だった。
僕はこの超能力のお陰で大海原をジョギングするのが好きになった。しかし、東京湾をジョギングしたのは大きな間違いだった。
タンカーやらコンテナ船、釣り船、屋形船、ヨット、軍艦などが所狭しと往来している。風の強い日はとくに危険だった。高い波頭で遠くが見渡せないと思っていたら、案の定小さな屋形船が波間の陰から突然現れて、僕は呆気なく轢かれてしまった。
「い、今、人を跳ねなかったかあ」
「何、寝ぼけとるんだあ。ここは海の上だぞ。ばっかもの、しっかり目ん玉開けてろ! 」
そんな会話が聞こえたかと思ったら、船は遠ざかっていってしまった。僕は死んで超能力が無くなったら、僕の体は昔のようにまた水の中へ入れるのだろうか。水面の上で仰向けに横たわりながら思った。僕はちょっと懐かしい気持ちがして嬉しくなった。水の中に入れるようになったら、また、君と一緒に泳げたらいいなあ、と思った。
何時間経ったろう。目を覚ました僕は、深い海底へと吸い込まれていくのが分かった。遥か上のほうから淡い光りが射している。水の中なのに苦しさはまったくなかった。
「まだ生きている。おまけに水の中でも呼吸ができる」
僕は地上に出ようと、もがくように水を手足で掻いた。やっと水面に出ようとした途端、何かに頭を思い切りぶつけた。両手で触ると、それはとても軟らかい。しばらくして、空気の塊と分かった。
どうやら今度は水から出られない体になってしまったようだ。こんなことになって、僕は何よりも話し相手がいなくなってしまって悲しいんだ。本当のロンリイガイになってしまった。毎日、魚が食事を持って来たりするだけ。ときどき、魚とも話すけど、僕には何の話しをしてるのか、よく理解できない。だから、こんな手紙を書いている。僕には君だけが頼りだ。
よかったら、顔だけでも見せに来てくれないだろうか。待ってるよ。
僕の友へ
田中
*
田中君の手紙はそこで終わっていた。今、田中君はまだ病院にいるのかもしれない。いや、本当は田中君の手紙にあるように、東京湾にいるのかもしれない。
日曜日、僕は東京湾に浮かぶ人工島「海蛍(うみほたる)」に行ってみた。冬だと言うのに、暖かな日が体を包んでいた。心の底から田中君に会ってみたくなった。ここなら、田中君がいそうな気がした。彼は目立ちたがりやだったから、有名な海蛍が好きだと思った。久しぶりに田中君の顔も見たかったし。
海蛍の海岸に立った。肌にあたる風が冷たく、遠くにたくさんの船が浮かんで、ゆっくり動いていた。
僕は海の中を覗き込んだ。僕の顔が映っていた。しばらく見つめていると、田中君の顔が海の中からのぞいていた。僕がにっこり笑うと、田中君も笑った。
「やあ、」
僕が片手を挙げて挨拶すると、田中君も同じ動作をした。
「来てくれたんだね」
田中君が涙を流しながらそう言った気がした。僕も田中君の気持ちを思うと、涙が出てきて泣いてしまった。
そのうち、いつか僕は田中君とまた一緒に泳ごうと思っていた。そのうちなんて言っていると、またいつになるか分からない。僕は履いてきた靴を片方ずつ脱いだ。そろえて後ろに置くと、冷たそうな凍えた水を見つめた。
「田中君は寒くないのかい? 」
田中君は僕の問い掛けにただ笑っていた。昔のように暖かな笑いだった。寒くないように、僕は着て来た上着のボタンをひとつずつ丁寧にはめた。そして僕は静かに海の中へつま先をつけてみた。押し寄せた波が足首まで濡らした。水は冷たかった。けれど、どこか暖かだった。田中君がいるからだろう。この冷たさは、田中君と泳ぐための儀式みたいなものなのかもしれない。僕は押し寄せる水の中へゆっくりと足を進めていった。
(了)
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