オアフ島

体重の減る男

 ある日、少年は通う高校の帰り道、いつもの書店に入った。買うお金がないため、本を立ち読みするのが楽しみだった。図書館も好きだったが、書店に置かれた新刊は彼の脳を新鮮にさせてくれた。書店の中の本や雑誌を隅から隅まで眺めて回る。何度も来ていたのに見たこともない一冊の雑誌が彼の目に止まった。手に取ってページをめくる。それは懸賞金付きの募集要項をまとめた雑誌であった。

「いろいろなものを募集しているんだな。文学賞優秀賞なら50万円か? ちょっと書いてみるか」

 彼は児童施設の自室に帰ると早速手ごろな短編の小説を書き始めた。別に文章が得意だった、という訳ではない。彼は小学一年生の頃から父親がわりの園長を見習って、一日も欠かさず日記を書いて来た。ただそれだけだった。男は児童施設で育った。園長夫婦が両親代わりだった。施設の職員は誰もが親切で幸せだった。募集締め切りから二か月後、一通の手紙が彼の元に届いた。最優秀賞の決定通知だった。

「あれが賞に入ったの?」

 彼は信じられない気持ちだった。何度もその通知文を読み返した。読み返す度にうれしさが実感となって気分が高揚してきた。かつてない気持ちである。施設の皆が喜んでくれた。

 初めての受賞式の日、会場に施設の皆がお祝いに集まってくれた。みんなの笑顔を見ると、彼の心臓の鼓動が早くなった。式典が始まった。

「アイデア、展開が実に斬新でした。特に…(略)…審査委員満場一致の決定です。第31回芥山賞はKさんです」

 審査委員長の講評は彼を絶賛した。彼は次にいろいろな短編小説の応募をした。そして、出すもの全てが最優秀賞に選ばれ、短編小説ながらわずか1年の間に賞金総額は500万円を超えた。審査結果に彼の名前が出る度、彼の名前は徐々に世間に注目されていった。短編の神様、とか、短編キングとか、いろいろな肩書きで呼ばれた。そして、立ち替わりいろいろな出版社が本の発刊交渉にやって来た。彼の文筆活動は軌道に乗っていった。

 彼が高校生卒業を間近に控えた頃、園長が彼に言った。

「一郎、もう君は1人で生きていける。けど、皆が応援しているのを忘れるなよ。1人じゃない。苦しくなったらいつでも私たちに会いに来ればいい」

 その言葉に押されて男は懸賞金でワンルームマンションを借りた。執筆活動は順風満帆で出版する作品全てが読者に受けた。数ヵ月が過ぎた頃。

「ちょっと最近、お痩せになりましたか? なんか顔が小さくなったように見えるのですが、気のせいでしょうか」

 訪れる出版会社の編集員が心配そうに尋ねた。

「顔色でも悪く見えますか?」

「なんて言ったらいいのでしょうか。何処かおかしいのですよ。おやつれになったように見えるのです」

 編集員の前で、彼は鏡に顔を写してみた。なるほど、顔色に生気がなさそうにも見えるし、ほおがこけてきたようにも見える。彼は押し入れにしまっていた体重計を出して来て乗ってみた。もともと痩せてはいたが、65キロだった体重が55キロになっていた。

「食事も普通に食べているし、別に体の具合も今までどおりだし、何ともないようだけどな」

「自覚症状がなくても、万が一ということもありますから、確認のためと思って病院へ行かれたほうがよろしいのでは…」

 3日後、彼は時間を取って大学病院を受診した。結果は体重以外の数値はすべて正常であった。身長が170センチもあるのに、病院の体重計で35キロ。必要な肉まで削げ落ち、既に動く骸骨と言って良かった。しかし、体力測定では健康そのもの年齢相応の数値を示していた。医師の所見は仕事が忙しくてストレスになっているかもしれないから神経科を受信してみたら、とすすめられた。

 翌日、彼は静かなバックミュージックが流れる神経科の待合室にいた。やがて、名前を呼ばれ診察室に入ると、髪の長い色白の女医が部屋にいた。女医にすすめられ彼は彼女の脇に据えられたソファーに座った。彼は大学病院の紹介状を女医に手渡した。彼女はそれをしばらく眺めていた。

「気持ちを楽にしてくださいね。体重が減ってしまって心配でしょうね。痩せ始めたと感じたのはいつ頃ですの?」

「2週間くらい前です」

「10キロも減ったのに気が付かなかったの?」

「体力も筋力も変わらないし、体が軽く感じられて、返って調子が良いくらいでした。自分でも不思議です」

 彼は自分の細くなった両腕を揃え見つめた。二の腕は箸ようになっていた。

「不思議ですね。暫く創作活動を休んでみてください」

 彼は医師からの指示で入院し小説を書くことを止めた。1か月後、彼の体重は元に戻った。

「元に戻りましたね?」

 医師は困惑した顔をして言った。医師の説明によると、創作活動中、アイデアを出し表現することで身体エネルギーを消費するらしい。小学校から高校まで、作文の課題を出されなかったことがこの症状の発見を遅らせた。精密検査の結果、400字詰め原稿1枚につき1グラム体重が減ることが判明した。現在、ベスト体重が65キログラム。このまま、また原稿を書いていけば163枚目で体重はゼロになる。短編小説家の彼の場合、1作品5枚として32作品目を書けば、身体は消滅してしまうことが予想される。このまま創作活動を続ければ命の保証はできない。予防策は体重の増える食品を多く摂取することである、体重の変化に注意し、毎日、体重計に乗ることと女医は彼に強く言い渡した。

 それからというもの、彼はエネルギー消費に負けまいとして、がむしゃらにカロリーの高い食物を食べた。夜、就寝前に電子体重計は65sを表示していることを確認した。体重が減っていないことの安心感からか、小説のアイデアも更に奇抜さを増していった。施設にいたときから話すことが苦手で友人に恵まれなかった。園長から進められた日記が唯一の話し相手であった。彼にとって、今では文章は彼の思いを伝える手段であった。体重の増減は彼にとって一進一退の闘い。しかし、体重は以前以上に急激に減っていっていた。自宅のデジタル体重計が故障していたことに彼は気が付かなかった。

 

 数日後、青空出版社の山口から、クリスマスイブに児童養護施設を慰問してほしいと訪ねてきた。童話も書いて来た彼を慕う子供のファンも多かった。彼は暇さえあれば高カロリーのケーキをむさぼるように食べていた。久しぶりに養父と養母に会いに行きたくなった。 

「家にこもってばかりでは身体に良くありません。きっと子どもたち喜びますよ」

 彼は子どもたちの喜ぶ顔を想像した。山口が帰ってから彼は思いついた。

「ただ本を読みに行くんではつまらないな。そうだ、熊のきぐるみでも着て行くか。きっと喜ぶぞ」

 3日後、山口の運転する車で施設へ向かった。久しぶりに自分が育った児童施設の建物を見る。彼は自宅から熊の着ぐるみをかぶっていた。施設の職員と子どもたちが玄関で彼を待っていた。お世話になった園長先生と奥さんが前に立っている。園長は着ぐるみを見て驚いていたが、子どもたちは大喜びであった。

「一郎だな、待っていたぞ。その格好は?」

「こんにちは、園長先生。子どもたちを喜ばそうと思って着ぐるみを着て参りました」

「ほ、そうか。まあ、入れ」

 職員に挨拶を済ませていよいよ子ども達の待つ談話室に入る。子どもたちは32名。小学生から高校生まで、相変わらず年齢は様々だ。彼がいたときと変わらない。小学1年生くらいの女の子が彼に近づいてきて彼の体に触りながら言った。

「ホントの熊さんなの? 柔らかくて気持ちいいな」

「そう、僕は熊のぷーさんだよ。よろしくね」

 女の子は縫いぐるみに顔をうずめて喜んだ。

 小さい子は熊のぷーさんが来てくれたと喜んでくれたし、物心付いて小説を読む子は作家の一郎が来てくれたことを喜んだ。

 用意していた本を読み始めると、子供達は目をくりくりさせて彼の話を静かに聞いた。みんな自分と同じようにそれぞれ生い立ちを背負って暮らしているが、明るかった。希望があるからきっと元気なんだ。男にも希望があった。どうしてこんな体質になったか親に聞かなければ分らない。きっと何か訳があるのだ。 男の朗読が30分ほどで終了した。

「熊のぷーさん、ありがとうございました」

「いいえ、とんでもありません。僕も嬉しいです」

 園長が手を差し出して一郎に握手を求めた。彼は握手をしながら言った。

「僕、帰って来られてうれしいで……」

 そう言ったきり、園長と握りしめていた手の力がなくなった。

「どうかしたか?」

 問い掛けた園長に体を預けるように倒れてきた。

「一郎君、どうした?」

 全く動かないので慌てた園長が一郎を寝かせ、着ぐるみの背中のチャックを開けた。そこに一郎の姿はなかった。

 



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