制度
政府は制度を作り法令として発布する。周知期間を設け、施行するのが常であり、その結果、守らないものには罰則が設けられる。そのため、広報誌、テレビ、ラジオ、あらゆるメディアを使用し広報する。しかし、それでも、その情報を知らない情報難民はいるものである。この星の岡村正もその一人である。 * 各紅商事の営業課オフィスで将来を嘱望されているエリート社員岡村正が机に向かって忙しそうに事務処理をしている。4月の入社から半月、社内研修を終了し、配属先の営業課に勤めだして1週間が経とうとしていた。窓際に座っている磯部課長が末席の岡村を呼んだ。 「岡村君、ちょっと来てくれるか?」 岡村は磯部課長の席の前に直立した。 「君、アフリカのツマランカ王国知ってるだろ?」 「はい、もちろんです」 「今度、そこに支店を出すことになりそうなんだけど、君にプロジェクトに入ってもらいたいんだ」 「光栄です、ぜひ、参加させていただけますか。しかし、ツマランカ王国の言語はいまいちなのですが」 岡村にはまったくツマランカ王国など、アフリカのどこにある国か、聞いたこともないくらいで、当然、言語など全く聞いたこともない。しかし、期待されている自分が知りませんでは通じない。ここは知ったかぶりをして言語は勉強すればいいことだ、と思った。 「え? うちの会社にトップの成績で入れたんだからしゃべれないなんて謙遜しなくていいよ。まあ、君の取説書を更新し、人事に提出しておけば、大丈夫さ」 「ありがとうございます。期待にこたえられるよう頑張ります」 岡村は課長に一礼し、席に戻ってふと考えた。 「ツマランカ王国は直ぐ調べられそうだけど、はて? 取説書って何のことだろう?」 岡村は取説書という言葉を過去に何度となく聞いてはいたのであるが。人に対しても使うとは知らなかった。どんな商品にも取説書は付いてくる。しかし、人にも使うとは驚きである。いや、思い出せば過去に何度か聞か されたことがあったような気がしてきた。しかし、何故かそのことに関してだけ、彼らしくなく、分からないままにして今日まで来てしまった。いや、分からない、ままにしていたわけではなく、分かろうとしたが何故か知る機会を与えられなかっただけである。 例えば、ホテルのホールで開催された新入社員歓迎会の席でも、そういう場面に遭遇した。あのとき、司会者が2次会のアトラクションに移ることを宣言した ときだ。 「さあ、恒例の取説交換タイムでございます。では、これはという方がいらしたらどんどん交換しましょう」 人と人が一組になって、必ずと言っていい、取説交換室に入って行くのである。 これで2度目である。 初めて見たのは岡村が入社した初めての社屋のホールで催された入社式だった。来賓者が祝辞を終えると、取説交換室とネームプレートの掛かった部屋に入っていく。あれは何かと思って、隣のこれから同僚となる 初対面の男に聞いてみた。 「ねえ、あれ何やってるの?」 「ああ、取説交換さ、俺たちは新人だから、これからさ」 「そうなの、取説って何かなあ?」 男が話したとき、来賓の挨拶が終了し、拍手が起き、男の話は全く聞き取れなかった。気にはなったがそのままにしていた。 そして、今度は歓迎会の宴会。今、やはり、個室の入り口には取説交換室と表示されたネームプレートがある。恐る恐る入って行く男女がその個室から出て来たら、二人は熱々のカップルのように肩を並べていた。思わず岡村は同期入社の遠藤に聞いた。 「あの個室って何でしょうか?」 「あれ? 君、変なこと聞くね。周知の取説交換室さ、俺も先月、取説を登録更新したばかりなんだ。もう、成人したしな、国民の義務だろ?」 更に詳細を聞こうとしたら、先輩連中が二人の間に割ってきた。 「若者よ、さあ、我々も交流を深めよう、さあ、飲め飲め」 岡村は先輩からつがれたアルコールを飲みながら、今度は先輩に聞いてみた。 「先輩はもう取説は登録されているんですか?」 「何だ岡村? 変なこと聞く奴だな? そんなの国民の義務だろ? 俺なんか、何回も登録更新してるぞ。なんだ、お前、ひょっとして更新が未だなのか? まあ、若いからな、無理ないか、でも、更新、早いほうがいいぞ」 「ええ、そうします」 なんとなく登録したり、更新したりするものであることが分かってきた。では、一体、何処へ行って登録したり更新したりするものであろうか? 岡村は成人するまで、両親から不思議なことにそんな話を一度たりと聞かされたことがなかった。両親はこの話を避けていたのであろうか。岡村は気になり始めた。周囲の様子を見回し、そっと席を外し、トイレに入った岡村は個室に入るなり、持っていたスマホを取り出し政府機関の人生サポートセンターに問い合わせした。 「お尋ねします。取説とは何でしょうか?」 「え? お声からするともう成人の方でいらっしゃいますか? 」 「はい、今まで登録したことがないんですが、しないとどんな不都合が起きるのでしょうか?」 「失礼ですが、アルコールを飲みすぎたか、薬物を服用か、していらっしゃいますか?」 「いいえ、真面目です」 「私からこのようなことを申し上げて良いか分かりませんので、上司の意見を聞いた上で書面により回答をしたいと存じます」 「え、登録していないだけでそんな大ごとなのでしょうか?」 「はい、国民皆取説制度に故意に登録しなかったわけですから」 「とんでもありません。故意だなんて、人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。私はただ、そんな制度、生まれてから全く知りませんでしたので、どんな制度なのかを今教えていただきたいと申し上げているだけです」 「先ほどから申し上げておりますよう、私の一存でこの制度を教えていいのか判断できないと申し上げております」 「だって誰でも知っている制度なんだから、たまたま知らなかった私に教えて何の問題もないではありませんか?」 話は平行線のままで、トイレの中で話す話ではなくなってきた。岡村はいてもたってもいられなくなってきた。その時、ドアを激しくノックする音が聞こえた。 「トイレで何やってるんですか、いい加減出てください」 「すません、もう出ますから」 後で調べればいい、20年間、必要に迫られたことなどなかったのであるから、この制度あってもなくてもいいものに違いない。そう、自分に言い聞かせて安心しようとした。トイレから出て宴会の席に戻った岡村は改めて周囲が話す話題が取説のことばかりであることに気が付いた。こんな関心のあることなのに、何故に今まで自分は知らなかったのであろうかと思った。そう思っていたとき、席にサングラスを掛けた男4人が岡村の前に現れた。 「取説登録書を拝見したいのですが」 低い声で聞く男に岡村は恐る恐る答えた。 「え? そんなもの、生まれてこの方、持ったことなんかありません」 岡村の答えに、一瞬、4人は驚いた顔をしたように見えた。 「取説不携帯は罰金刑ですが、無登録は罪が重くなりますが、いいんですか?」 「いいんですかって、持ってませんもん、それって、一体何なんでしょうか? いい加減、誰か、教えてください」 「我々の権限の範囲を超えております。あなたを取説不携帯で現行犯逮捕します。取説管理庁までご同行をお願いいたします。なお、あなたは不利益になることを発言しなくてもいい黙秘権を行使することができます」 「やっだー、何なんだよ、誰か教えてくれー」 岡村は取説管理庁の役人に拘束服を着せられた。それを見た同僚たちはひそひそ話をしていた。 「ねえ、岡村さんって、取説登録違反だって、驚いたねえ」 岡村は黙秘権を与えられたので取説管理庁の役人による取調べに対し、一切の発言を黙秘したまま、裁判の当日になった。裁判所に出廷した岡村は裁判官に訪ねられた。 「君はどうして取説登録しなかったのかね」 「いや、そんな制度があるなんて知らなかったものですから」 「そうやって知らないふりを装うつもりですね」 「とんでもございません。本当に知らなかったのです」 「これは許しがたい国民の義務違反で重罪です」 岡村は裁判官から終身刑を言い渡され、重罪人として独房生活をすることになった。独房の中で岡村は必死に叫んだ。 「誰か、取説って、何か教えて!」
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