永遠の命

 

 N寺住職・田辺昭夫(たなべあきお)は祭壇の前に数珠を片手に立っていた。80帖ほどの畳の上には7、80名の檀家が正座をし、彼の説教に耳を傾けている。彼を注視していた人々が一斉にお辞儀をした。やがて最前列に座っていた初老の男が彼の前に歩み出た。

「きょうもいいお説教をお聞かせていただきました。ありがとうございました」

 それだけ言うと、祭壇にある卒塔婆を手に持って本堂を出て行った。

だれもが、昭夫の前を通りながら礼の言葉を掛け、深々とお辞儀をし、本堂から出て行く。卒塔婆の隊列が徐々に短くなっていく。昭夫は、一人一人に会釈を送り、後ろ姿を見送った。全員が出て行くのを見届けた後、彼はほっと一息ついた。

 彼は改めて祭壇に積まれた献上の供物を見た。その中に今朝早く出掛けて買ってきた饅頭があった。どんなに忙しくとも、御仏様に差し上げる饅頭だけは自ら出向いて伊勢屋という所から購入してくるのである。伊勢屋は、彼が小学生のころ、何軒も回ってやっと見つけた饅頭屋である。小学生のころは自転車で通ったものだった。供物は献上する心が大切である。彼は自ら実践しながら心の底からそう思った。今はこの仕事も小学3年になる息子健一郎に譲っている。彼岸の時期になると、健一郎は彼と同じように自転車で買いに行ってくれた。健一郎もまた饅頭は大好きであった。

 彼は饅頭を摘むと表面の艶を見た。時間が経ち、乾燥してしまった。今の彼岸の法要がきょうの最後だった。1日祭壇に置いておくとすっかり水分が飛んでしまう。たかが饅頭だが仏様への供物とあって彼にはこだわる理由があった。仏様が饅頭にこだわるからだった。

「もう皆様お帰りになりました。きょうは本当に朝からお疲れ様でございました」

 彼は祭壇の前に座って誰に言うでもなく独り言をつぶやいた。

「どうぞごゆっくり召し上がってくださいませ」

 彼は正座していた足をさらに正し、額を床に着けるほど深々と礼をした。

 彼は祭壇から遠ざかり、お堂の出口まで来て、ちらっと後ろを見ようとしてためらった。自分に言い聞かせるように扉を静かに閉めると足早に家族のいる居間へと歩を進めた。人がいては召し上がることのない事を知っているからだった。このことは妻の美枝子にも話していない。

彼が気づいたのは小学6年生のころ、迎え盆のあけた翌日だった。饅頭を伊勢屋で買ってお供えするようになってから饅頭の異変に気がついた。祭壇に飾った饅頭が減っていたのである。彼以外出入りするはずがない本堂で饅頭が減っていた。一体誰が取るというのであろう。

 

  *

 

「少しだけキャッチボールをやるか? 」

「うん、やる」

 部屋にいた健一郎に声をかけた昭夫は、健一郎の明るい声を聞いて目を細めた。小学校4年になって、徐々に体もできてきて、身のこなしも見違えるようになってきた。キャッチボールは寺のすぐ隣に原っぱがあった。

「ほら、行くぞお」

 昭夫の投げたボールをトンネルした健一郎は、ボールを追いかけて雑草の中へ消えていった。

「健、まだかあ? どうしたあ? 」

 健一郎は雑草の茂みに入ったきり出てこなかった。それきり、健一郎の行方が分からなくなった。昭夫の見ている目の前で、消えた。

 昭夫は何度も健一郎が入ったあたりの雑草を調べた。原っぱは300坪の敷地で、西側には昭夫の寺があり、東には食品会社の倉庫がある。南には6メートル道路が走っている。北には川が流れていた。仮に雑草が生えていなかったら、ボールは転がって寺の墓地に転がっていったかもしれない。しかしあり得ない。寺の敷地の周りには高さ2メートルの漆喰の塀が囲われていた。

北に面した川は警察によって徹底的に捜索された。警察はボールを取ろうとして落ちた可能性を考えた。昭夫は川の流れが見えるところまで来ていた。原っぱは2メートルの高さがあるフェンスが張られていた。どこにも途切れてできた穴などなかった。ボールが転がりでる隙間もない。そして、原っぱのどこを探しても健一郎は見つからなかった。そして、キャッチボールをしていたボールも。

 この事件があってから美枝子も病気がちになり、寝込むようになってしまった。誘拐だったら身代金なりを要求してくるのだろうが、それすら何もなかった。まさに神隠しにあったとしか考えられなかった。

(神様が健一郎をお隠しになったのだろうか)

 そんな非現実的なことを考えたこともあった。考えながら頭を振って、このもって行き場のない迷宮の事件を昭夫は呪った。

 

 健一郎がいなくなり、伊勢屋へ饅頭を買いに行くことが途絶えた。2年間、あれほど続けていた饅頭の供物を忘れていた。しかし、さすがに2年も経つと、諦めの気持ちが大きくなってきた。しばらくぶりに足を伸ばして伊勢屋に行った。そして、いつもの饅頭を祭壇に供えた。

 そのとき、饅頭がなくなることになんとなく気が付いた。初めは檀家の子どもが忍び込んでつまみ食いをしたのだろうと思った。それがいつしかひょっとすると健一郎が食べているのではないのだろうか、とも思うようになった。誰にも見つからず、ひょっこり出てきては饅頭を摘み、人のけはいを感じては隠れる。健一郎が生きていてくれたら、そう思うばかりに思う苦し紛れの考えである。

 仮に健一郎だとしても、健一郎が何故そんなことをする必要があるのだろう。あり得ないことだった。では、饅頭はいったい誰が食べているのであろう。

 

  *

 昭夫は祭壇に饅頭を供えると、本堂を下がった。

「御仏様、どうかお姿をこの愚僧に拝見させていただけませんでしょうか」

 答えてくれぬことは分かりながらも問いかける。いつか答えてくださることを願いつつ。

「いいよ」

 どこからともなく声がした。何となく健一郎の声に似ていた。

「今、お答えになりましたか? 」

「うん、いいよ、って言ったんだよ」

「その声は健一郎ではないか? 」

「そう、僕…」

 昭夫は我が耳を疑った。あれほど探していた健一郎がいたのである。

「おまえ、今どこにいるんだ」

「天界って言う所。父さん知ってる? おじいさんに教えてもらったの」

 昭夫は首を振った。目からは涙がこぼれ落ちていた。無理もなかった。2年余り消息の知れなかった一人息子の声が今聞こえたのである。

「健一郎、天界にいるのかい? そうか、そうか」

「うん、」

「しかし…一体そこで何をしている」

「何もしていないよ。キャッチボールしていたでしょう? ボールを追いかけてきたらここへ来ちゃったんだ」

「そうか、じゃ、そのボールはもう見つけたんだな」

「うん、ここにあるよ」

「よし、そのボールをまた投げろ」

「やっと見つけたのに、また投げるの? 」

「そうだ、早くしなさい」

 昭夫は本堂に出て原っぱに行こうとした。そこで気がついた。数ヶ月前から原っぱにはマンション建設のための工事が行なわれていた。すっかり仮囲いがされている。昭夫は塀を乗り越えた。

「健一郎! 」

 目一杯、声を振り絞って叫んだ。

「父さ〜〜〜ん」

 健一郎の声がした。姿は見えない。昭夫は工事現場の中を駆けずり回った。何処にも健一郎の姿は見えなかった。

「父さ〜〜〜ん」

「健一郎、健一郎、健一郎… 」

 昭夫の呼ぶ声も虚しく、工事現場にはそれきり声はしてこなかった。

  *

 何回か目の彼岸法要が終わった。

 昭夫は祭壇に話しかける。

「健一郎、聞こえたら返事してくれ」

「そうか、そうか、うまいか、うまいか、伊勢屋のだからな」

 昭夫は祭壇に供えてある饅頭をかじった。饅頭をかじっていると、健一郎の声が聞こえてくるような気がした。しかし、健一郎の声はしなかった。あのときの声は何だったのだろうか。健一郎は永遠にどこかで生きているのであろうか。昭夫はそう思わずにはいられなかった。 

 


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