最期 勇は道路で脱げた靴を履こうとしていた。これから恵子に会って婚約指輪を手渡すつもりでいるのに。なかなか靴が思うように履くことができない。 「おかしいなあ。もう、裸足でいいや。恵子が待ってるし」 勇は脱げた皮靴を持って、街を歩く。怪しげな男と思われるかと思ってキョロキョロと道行く人の顔色を見るが、誰も素知らぬ顔をしている。 「へえ、案外人の格好っていうのは無関心なものなんだなあ」 渋谷のアルタ1階の喫茶フォルテが待ち合わせだ。勇がフォルテの玄関の自動ドアから入ると、奥のテーブルにすでに恵子が来ていた。 「やあ、お待たせ」 勇が恵子の対面に座ると、ウエイターがすかさずオーダーを取りに来た。 「レスカください」 恵子はいつものを頼んだ。 「僕はアイコ」 ウエイターは軽い会釈をすると厨房へ消えていった。 「ねえ、これから何処へ行こうかな」 そうは言ったが、勇は行く所は決めていた。そこのロマンチックなムードの中で、これを渡すんだ。勇はジャケットのポケットの中に手を入れて確認する。確かにある。給料3か月分の大枚をはたいて購入してきた恵子に渡す婚約指輪だ。 恵子はさっきから玄関のほうと時計をちらちら見ている。一体何が気になるのだろう。 「どうしたんだい。さっきから一言もしゃべらないで、そわそわしているねえ」 勇が恵子に話しかけたところで、「おにいさん、もういいでしょ? 」という声が直ぐ横から聞こえた。びっくりして見ると、8歳くらいの少年がいる。あろうことか、素っ裸だ。 「どうしたんだい? そんな格好で。お母さんか、お父さんは? 」 少年の姿に驚いているのではと思って恵子の方を見ると、静かにストローをくわえ、レスカを飲んでいる。 「ねえ、この子、裸で寒くないのかなあ。おかしいよね」 恵子は相変わらずドアのほうを見ている。そのとき、恵子の携帯電話が鳴り出した。ショルダーバックから取り出したピンク色の携帯を耳に持っていく。話し方からするとどうやら、恵子のお母さんからのようだ。恵子の顔色が豹変した。何か重大な電話のようだ。彼女のこんな深い悲しみの顔を見たことがなかった。しばらくすると、恵子はテーブルに顔をうずめて低く嗚咽している。一体どうしたというのだ。 「恵子、どうした? 何があった? 」 恵子は顔を上げようともしないで、泣いているばかりだ。 「おにいさん、話しかけても無理だよ。お兄さんの声は聞こえないもの」 「なんだ。まだいたのかい? 」 「天国へ行く前に恵子さんに一目会いたいって言うから、待ってるんだよ。さっき、僕は天使だって言ったでしょ」 そのとき、勇の体から激痛の記憶が蘇ってきた。つい3時間前、ジュエリー店でこの指輪を買って店を出て横断歩道を渡っていた。そのとき、クラクションの音で横を見ると、乗用車が接近してきた。そこまでしか覚えていない。気が付くと転んで倒れていた。脱げた靴を履こうとしていたらなかなか履けなかった。 「おにいさん、もう幽霊だから足がないんだよ」 靴が履けなかったのは足がなかったからなのか、勇は自分の足元を見た。そして、恵子の髪を静かになでながら、勇はテーブルの上に指輪を置いた。しばらく考えてから、指輪を掴んでポケットに押し込んだ。 「早く別の指輪をはめろよな。絶対、幸せになれよ。俺がついてる」 「おにいさん、かっこいいよ」 そう言うおませな天使の頭を、勇は軽く小突いた。
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