莓(いちご)狩り もう幾つ苺を食べたろう。倉持市郎は口に運ぶ手を休めて苺を見つめた。洒落た装飾の深鉢に盛られていた苺が残り少なくなった。 「一山350円で売っていたのよ。すごく安かったでしょ」 そう言って直子が10分前に置いていった。市郎は最後の一つを口に運んだ。歯で軽く噛んでいくと甘い汁がほとばしり出た。甘酸っぱさがじわりと口の中で広がっていく。また、目の前が暗くなった。 * 「ねえ、ほんと、おいしいわねえ」 中年の着物姿の美しい女が口元をほころばせながら苺を口に運んでいる。左手には小さなカップを持っている。 「後15分よ」 市郎は足下に実をつけた苺をもぎ取ろうとして左手がふさがっていることに気が付いた。左手を見ると、小さな紙コップを持っていた。女性と同じ物だ。白い液体が入っている。その白い液体に苺を付け口に入れた。やはり練乳だった。練乳には苺の小さな茶色の毛が浮いていた。もうかなり食べているようだが、そんな記憶はない。まあ、苺など腹の膨れる食べ物ではない。そう思いながら市郎は食いたらなさに憤りを感じた。 「ここの莓小さいんだもの」 市郎が不満そうに言うと、女は笑っていた。 「そう、じゃ、帰りにお土産を買っていきましょうね」 女はそれきり食べるのをやめて市郎を見ていた。市郎は大きく膨れた苺を探した。どの低木も小粒の苺ばかりである。市郎は温室の時計を見た。2時37分。しかし、何分までここにいられるのか。どうして、この温室にいるのか。どうして苺を食べているのか。どうして、市郎と女しかこの温室には人がいないのか。市郎の額にじわりと汗がにじんでいた。市郎は右手の袖で汗をぬぐった。そして初めて自分は半ズボンをはいていることに気が付いた。どうして、半パンなのだろうか。これでは小学生だ。 「ねえ、叔母さんはだれ? 」 「和志(かずし)さんのお友達、内緒よ。絶対秘密。お母さんには絶対言っては駄目。はい、指切りげんまん嘘付いたら針千本飲ます」 * 市郎ははっと我に返った。苺を食べると必ず見る白昼夢である。いつ頃から見始めるようになったのだろう。自分で買って食べているときは何でもなかった。今年10月、直子と同棲した。会社の同僚である。妙に馬があった。同棲最初の日曜日、近所のスーパーへ直子と買い物に行ったときだ。 「市郎さん、苺好き? 」 「別に好きと言うほどのことはないけどね。どうして……? 」 「別に……嫌いでなければいいの。ねえ、この苺一山450円よ。買っていきましょう」 「ああ、いいよ」 直子は買い物かごに苺のパックを1個入れた。 この苺は全パックその日の夕飯の食卓にガラスの大鉢に盛られて並んだ。買って来た総菜のトンカツと付け合わせのキャベツ。そして苺。 「ねえ、市郎さんて苺が好きなの? 」 「まあ、食べたくなるけど好きと言うほどではないよ」 「でもそれって好きって言うのではないの? 」 「好きではないよ。ただ食べたいだけさ。無性に食べたくなる。うん、もう病気かなあ、これは」 直子はケタケタ笑っていたが、市郎は少しもおかしくなかった。事実そうなのだから。 そして、大鉢に最後の一個の苺が残った。 「半分ずつしましょ」 直子はナイフで綺麗にカットした。 市郎は苺の先を唇に挟んでから歯に力を徐々に加えていった。目の前が暗くなった。温室で女と市郎の二人きりでいる夢を見るようになった。直子には話してはいない。何か話してはいけない気がした。 市郎は苺を食べるのをやめた。しかし、食べるのをやめてからは、苺を見ただけで例の白昼夢を見るようになってしまった。仕方なくまた毎日苺を食べ始めた。そして、その日最後の苺と思うと、例の女が出てくる。 * 「ねえ、どうして叔母さんのことは内緒なの? 叔母さんはなんて名前なの? 」 「サエコよ。これはあなたの妹のナオコ」 市郎と二人きりと思っていたが、初めて女の陰に7歳くらいの女の子がしゃがんでいることに気が付いた。市郎を見て下唇をかんではにかんでいた。 * 市郎は愕然とした。小学生3年のころ、確かに父親に連れられて莓狩りに伊豆へ行った。春の暖かな日が降り注ぐ日だった。月に一度、父親に連れられては伊豆へ行くようになった。そして、父親はこの女と会っていた。旅館で、市郎はこの女の子と一緒に寝た。父親と女は別の部屋で一緒に寝た。 「決してこの部屋を開けてはいけないよ」 女はうきうきと笑顔を見せながら、ふすまを閉めた。市郎はこの女の子によく作り話をしてあげた。そうこうしているうちに女の子は寝入ってしまった。ときどき、隣から女の低いうめき声が聞こえることもあったが、気にすることもなく眠ってしまった。そんなことを思い出し始めた。 ある日、父と母が大げんかをしてから伊豆へぱったりと行かなくなった。それきり女の子にも会っていない。父親には母とは別の人がいて子どもまでいたのだ。 * 「市郎、大丈夫。ねえ、どうしちゃったの? 」 白昼夢に入った市郎を心配そうに直子が肩を揺すっていた。市郎は白昼夢を直子に話した。直子の顔が真っ青になった。 「どうしよう。あたしたち最低だわ」 そう言いはなった直子は寝室にかけていってしまった。市郎は訳が分からず直子を追って寝室に入った。 「ううう…… 」 直子は泣きながら市郎の胸にしがみついた。 「あたしたち、会わなければ良かったね」 何で直子がそんなことを言うのか市郎には理解できなかった。 直子と市郎の父親が同じことを知った。夢はそれを知らせるための警告だったのだろうか。しかし、市郎も直子もお互いを深く愛していた。二人の同棲は続いていた。 「おにいちゃん、莓買って来たよ」 「ああ、食べよう。なあ、こんど莓狩りに行こうか」 「うん、賛成。行こう、行こう」
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