大洪水

世間では3連休であるが、田中育代は出勤である。穏やかな午前中が過ぎて、午後2時になり、客足が少しずつ増してきた。

「アア、嫌になるなあ。午後は雨かあ」

育代が鈴鹿図書館に異動してきてから半年が過ぎた。相談カウンターに座っていても、客はまだ朝から一人も来ない。

「なんかすごいことでも起きないかなあ。もう寝ちゃいそうよ」

育代はカウンターに座りながら、独り言をつぶやいた。そのとき、カウンターの電話が鳴った。

「田中さん、落ち着いて聞いてね。テロよテロ。1時間前、ジャマイカ鉄道の騎士と名乗る団体が犯行予告を政府に送ってきたらしいのよ。内容は中川堤防を爆破するというの。爆破時間は午後3時。時間がないわ」

育代は襟川夏子の言葉が信じられなかった。

しばらくすると、館内に放送を促すチャイムの音が鳴った。
「ただ今、テロによる爆破予告が出され、避難勧告が発令されました。住民の方は速やかに避難してください。まもなく、爆破場所は中川堤防です。大洪水が起きるおそれがあります。避難してください。繰り返します…… 」

「なんだってえ、てえへんだあ。俺は泳げないんだあ」
 大雨の中、先を争うように、住民が玄関から飛び出していく。
「堤防がテロの爆破で決壊したなんて話は聞いていない。デマさ、はったりに決まってる。大丈夫さ」
 高をくくって、安心を決め込む幾人かの住民もいる。そう言う連中が数人図書館のソファーに残っていた。

 午後3時、大爆発が起こった。その爆発音の轟きが図書館まで到達した。

 ズシーンという重低音が書架を大きく揺らした。

「あれ? 何の音、もしかして爆発しちゃった? 」

 ソファーに座っていた数人が立ち上がった。

「避難しておけば良かったかなあ」

 中川の水は江東区の99パーセントを浸水させた。江東区は被害地救済地区に指定された。図書館の本は全て水浸しになったことは言うまでもない。

  *

田中育代は、何事もなく並んでいる書架を眺めながらほくそ笑んだ。図書館のカウンターに座りながらまたうつらうつらしながら時計を見る。まだ、午後3時前である。

「本当に爆発が起きたらどうなるんだろうなあ」

 育代は、そう心の中でつぶやきながらため息をついた。閉館まであと2時間余。育代はまた別の設定を頭の中で考えながら時間をつぶすのであった。

 

 

短編小説の目次に戻る