Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years' Sprint

九年目(1)





 新しい年は、またロードで始まった。ワールドツアーの締め括りとして、冬の二カ月間は二度目の北米ツアーとなる。ツアー終盤、ニューヨークのホテルでスケジュール編成会議が行われた。バンドと主要スタッフ、マネージャー陣にマネージメントオフィスの社長やレーベルの担当A&R、エージェントの担当者も交えて、次のシリーズの大まかなスケジュールを決める。バンドのプロデューサー兼アドバイザーとして、アーノルド・ローレンスさんも毎回参加している。これはサードアルバムリリース後、初めてヘッドライナーとしてワールドツアーを始めてから毎年続いてきたものだった。
「さて、『Polaris』のツアーも、あと少しで終わりだね。一年間、本当にご苦労さん。いつも通りの大反響で、一五二回、全公演ソールドアウト、観客動員も五百万人を軽く突破し、アルバムも六千万枚以上売った。各国でダイアモンドディスクだ。このCD不況の時代に、君らだけが別世界に存在しているかのようだ。もう君たちには、何ものもかなわないね。飛ぶ鳥を落とす勢い、などという生易しいものでもない。君たちは本当に、史上最大のモンスターだよ」
 コールマン社長は会議の席で、そう口火を切った。ひとしきり沈黙。関係者たちは笑顔で頷き、僕らはちょっと面映げに顔を見合わせる。
「さて、それで三月からはオフだね」
 社長は言葉を継ぎ、ちょっと頬をかいた。
「君たちの活動ペースは、サードアルバムで大ブレイクしてから、実に安定している。もちろん、外部的にはあれこれ妨害も入ったし、前作のツアーでは大変なアクシデントで、半年近くブランクがあいたが、基本的には、ずっと精力的な活動ペースが続いているね。アルバム製作に半年、ツアーが一年、オフが三ヶ月。多少期間の伸び縮みはあるが、ほぼそのペースだ。これは新人や発展途上の中堅アーティストならいざ知らず、君らほどのレベルのアーティストとしては、異例のハイペースと言っていい」
「レーベルとしては、それにエージェントとしても、それは非常にありがたいことなんですけどね」
 レーベルのA&R部長、シュレーダー氏が笑い、エージェントの副社長、メイビス氏も頷いている。
「つまり、現状は良くても長い目で見た場合、少しオーバーペースなのではないかと言われるのですね」
 レオナが社長を見、ついで僕らを見て言った。
 少々意外な言葉だった。僕らは普通にやってきたつもりだ。でも常に頭の中にあるリミットのために、無意識に走ってきたのかもしれない。だが、創作意欲が燃え立ち、アイデアが泉のように湧いてくることも、ステージで演奏することに深い喜びを感じ、ベストのプレイができた、観客たちも最高の反応を返してくれたと満足することも、僕らがアーティストとして、今もっとものっているということに他ならない。そう、バンドとして、今すべてのピークを迎えつつある──。
 ピーク? そこまで思って、僕は少しはっとした。頂上ということは、今が頂点なのか。バンドをスタートさせてから、無我夢中で上ってきた。目もくらむような上昇気流に巻き上げられ、はるかな高みまで上らされた僕たち、だが、ここがその頂点なのか? 頂点ということは、もうこれ以上は上らない。あとは下降があるのみ、ということなのか?
『Polaris』の製作時、たしかに僕らにはひとかけらの迷いもなかった。すべてがスムーズに、何の引っ掛かりもなく製作が完了した。いや、いつもレコーディング段階からは楽なのだが、今回はその前、プリプロダクションの時点から苦労がなかった。『Children〜』の時には、あれほど悪戦苦闘したというのに。それは僕らが成長したから。それは確かだ。だが、それだけで片付けて良い問題だろうか。
「うーん。オーバーペースっていうより、はまり過ぎって感じなのかなぁ」
 エアリィは微かに首を振った。
「問題なさ過ぎってのも、テンションが落ちるもとになるかもしれないし。あまりにもすべてが完璧に流れすぎてる、快適過ぎるって、僕もたしかに感じてはいたんだ」
 そう、前作の再開ツアー以降、たしかにすべてがよどみなく流れ、何もかも恐ろしいくらい順風満帆に進んでいる。僕もそうは感じていたが。
「でも、テンションは落ちていないと思うけどな」
 僕は首を振った。
「ああ、たしかにテンションは落ちてないよ。ステージでも、『Polaris』の製作だって、そうだ。それに快適が悪いってわけじゃ、当然ないんだけどさ。でもあまりに何もかもうまく行き過ぎて、快適すぎる状態って、なんだか少し怖くもあるんだ」
「うん。言ってみれば、凪状態なのかもね、今は。でも、ちょっと疲れてきたよ、僕個人としては。もちろん毎日が楽しくて、ステージは最高に好きだけれど、でも僕にしてみると、このバンドのテンションは、高すぎるっていう気がするんだ。ずうっと張り詰めていなければならない。だからずっと休みなく走ってきて、ちょっと疲れたなって思うよ」
 ロビンが珍しく、はっきりとそう主張した。
「ああ、まあ、そうだな。実を言えば、俺もそうだ。俺たちは良いプレイヤーにはなれたと自負してはいるが、モンスターでも天才でもないからな。ずっと引っ張られ、刺激されて、オーバーザトップのギアで走り続けてきたようなものだ。疲れた、っていうのは、正直なところだな」
 ジョージが頭をかきながら苦笑している。
「それは、僕も否定しないね」
 ミックも少し肩をすくめていた。
 疲れた? そうか。彼らは快適という以前に、精神的な疲れがきているのか。エアリィは何もかも快適に流れすぎるからと戸惑い、ジョージやロビンやミックは、ずっと走り続けて疲れたと言う。
 では、僕はどうなんだろう? 疲れた? まあ、たしかにそれはある。そもそも『Children〜』アルバムの大ブレイク以降、僕らはそれこそオーバーザトップで、それもレッドゾーンで走り続けてきたようなものだ。恐ろしいほど巨大に膨れ上がった、AirLaceというバンドのメンバーとして。精神的な疲労がないといったら嘘になる。だがここに来て、僕らの必死の走りも、ようやく報われようとしている。音楽という領域の、人間に達しうるベスト。アーディス・レインという音楽的モンスターが要求するレベルに、さほど苦労なく到達できるだけの力を身につけた。妙なこだわりもコンプレックスも、すっかり消えた。だが、逆に彼はこの状態がテンションの低下を招くのではと、危惧しているようだ。僕もたしかに感じている。今がバンドのピークなら、立ち止まるべき時なのかもしれないと。
 話し合った後、結論は比較的すんなりと導かれた。上層部には最初から、そのことが頭に合ったのだろう。僕もすぐにわかったし、他のメンバーも同じだったようだ。しばらく立ち止まろう。ここで一度バンドの枠をはずして、休んでみようと。『Polaris』は、たしかにバンドのキャリアにとって、一つの到達点だ。でも、ここでピークでは困る。だが、ここを八合目の山小屋とし、さらなる飛翔を目指そうとするなら、このままでは難しいだろう。今までの活動で消耗した力を取り戻し、バンドから離れることによって得られる新しい視点と、長いブランクの間にたまって行くであろう情熱、そういうものを再合流後のアルバム、おそらく最後のその作品に生かすことができるように、少し休もう。十一年という期間の端数の一年は、そのために当てて良い。そうすればちょうど次のサイクルも、切りよく終わる。本来のオフの三ヶ月と、さらに加えて一年、バンドは活動休止だ。
「そうなると、AirLaceは来年の六月から再始動か」
 コールマン社長が僕らを見まわし、手にした書類の束を机でとんとんと揃えた。
「その間に、少しコンピレーションを出したいんですがね。『Polaris』ツアーのDVDの他に、PV集と、それからCDの方も、ライヴとベスト盤を」
 レーベルのA&R部長、シュレーダー氏がそう要望を出し、
「ああ、それは別にかまわないです」と、僕らは頷いた。
「それとだね、これは個人的なオファーなんだが、アーディス君、バンドがしばらく活動休止なら、君個人として仕事をやってみないか?」
 コールマン社長は書類に目を落とした後、向き直って声をかけていた。
「えっ、仕事? って、僕一人で?」
 エアリィはちょっと驚いたような顔で社長を見た。
「そう、バンドではなく、君個人としての活動だ。相当な数のオファーが来ているんだが、今まではバンド活動だけでも相当に密度が高かったから、断っていたんだ。君のオフがなくなりかねなかったからね。でも、余裕が出来たらぜひ検討してみて欲しい、と相手が言ってきたものは、ずっと保留していた。映画やミュージカル、CM……」
「ええ? CMはいいです、もう」
 彼は一年ほど前に、すでに有名衣料ブランドのCMに、ポスターのみだが出ていた。音楽を使用することは、イメージ的に合うなら許可していたが、僕ら自身がCMに出ることはない。この衣料ブランドは、エアリィの最初の継父であったレーサー、カーディナル・リードさんの、長年のスポンサーであった縁で出たもので、いわば例外中の例外だった。
「そう言うだろうとは、私も思っていたよ。まあ、この件では、無理押ししない。では、映画はどうだい?」
「うーん、ものによるけど、あんまり演技って好きじゃないです。時々PVでやらされるだけでも、やなのに」
「これはどうだい? 君にはきっと興味があると思うが」
 社長は書類の山から一つ抜き出し、差し出した。
「これは君のお祖父さん、アリステア・ローゼンスタイナーの幻の映画だ。彼はクランクイン直前に飛行機事故で世を去り、映画撮影されることのないまま、お蔵入りになった。このシナリオ原案も、彼が書いたんだ。『森の向こうに』以来の、アリステア・ローゼンスタイナー二本目、そして最後のシナリオ原案らしい」
 エアリィは渡された台本をぱらぱらめくると、少し驚いたように声を上げた。
「なんかこれ……すごいSFファンタジー。お祖父さんの作品にしちゃ、異色だなぁ。で、僕は何の役やれって言って来てるんですか?」
「セリスだ。セリス・アルフェディア。主役だよ」
「えっ! いきなり主役? それに十七歳の役なんて!」
「あなたは十七歳にも見えるわよ、充分に」
 レオナが微笑している。
「だけど僕、六月には二三だし。六つもサバよむって、読みすぎな気がする」
「いや、映画俳優は必ずしも年通りの役じゃないからね。そう見えれば、それで良いんだ。それに本来は君のお祖父さん、アリステアさんがやる予定の役だったんだよ。彼はその当時で三十を超えていた。それでも十七才役なんだからね」
「そういえば、そうか……とんでもなくサバ読んでるけど、お祖父さんならなりきれたかもね」
 エアリィはあきれているような、感嘆しているような表情で、首を振っていた。
「それともう一つ、これはジーノ・フレイザー氏が持ってきたんだが、今NYで新進気鋭のシナリオライターが、君に触発されて書いた脚本らしい。『The Innocent Soul』──これがその脚本だが、どうだい?」
 社長はさらに、もう一冊の台本を差し出している。
「うーん」
 エアリィは再び台本をぱらぱらと読み、肩をすくめた。
「で、まさかこれも、主演のリーフィ役?」
「当然そうだよ。なんと言っても、君に触発されて、君のイメージで書いたらしいから」
「ええ、え……なんで未経験で、どれもいきなり主役? なんかすごく無茶な期待されてる気がする」
「それで、君としては受けるかい? 映画とミュージカル。少し考えてくれてもいいが」
 社長の言葉に、エアリィはしばらく考えていたようだが、やがて頷いた。
「じゃ、やります……やってみる。バンドの枠はずすなら、他のことやってみるのも良いかもしれない。どこまで出来るかわかんないけど、お祖父さんや母さんの夢を知るためにも……やってみます」
「そうか。ではそういうことで、先方へも伝えておこう。君の課外活動には基本的にモートンが専属でつくから、ロブは補佐ということで……よろしく頼む」
 社長は口元を緩めながら頷く。ついでシュレーダー氏が訴えるように聞いていた。
「ソロは作らないかい、エアリィ?」と。
「ソロって、僕一人のアーディス・レイン名義で? それはいやです」
 彼はにべもなく、そう答えているが。
「いいと思うがね、君なら十分に出来ると思うんだ。ソロでも、バンドに匹敵するくらい充分……」
 言いかけて、さすがにそれは僕らインスト陣に対して失礼か、と思ったようにシュレーダー氏は苦笑し、口をつぐんだ。
「僕はソロって、好きじゃないんです。僕個人の名義だと、何もかもしょわなきゃいけない気がするから、なんかいやで。めんどくさいし。音楽やるなら、パートナーが欲しい。ジャスティンやミックやロビンやジョージみたいな。僕はバンドの一人でいたい。仲間で協力して作っていきたいから、もしやるならバンド名義、じゃなかったらプロジェクトでやりたいです。ただ相手もあることだから、そうなるとエアレースとは違うレーベルになる可能性の方が大きいと思うけど」
「そうか……」シュレーダー氏は半ばあきらめ、半ば落胆の表情で、ため息をついている。
「だから、それは難しいんじゃないかと、私は言ったんです、シュレーダーさん」
 社長氏は苦笑したのち、今度は僕に向き直った。
「君にも、いくつかオファーがあるんだが、ローリングス君。やってみるかい?」
 げ、まさか映画やミュージカルやコマーシャルじゃないだろうな? 僕は一瞬冷や汗ものだった。とんでもない。エアリィならいざ知らず、僕にはその分野の素養はない。モニター契約をしているギターメイカーのポスターに出るだけで、たくさんだ。その、ただギターを抱えてちょっとポーズを取るだけの写真ですら、なんとなく面映かった。
 だが幸い、それは杞憂だった。依頼する側も人を見るのだろう。僕にきたオファーは、プロデューサ依頼が一件、セッション依頼が二件、ギターのインストラクションDVD作成、そして今年の五月に世界の何か国かで開催される予定の、ギターコンベンションへの出演だった。だが、僕はみな断った。プロデュースする相手にあまり魅力を見出せなかったし、その人たちと面識もないのに、その音楽について遠慮会釈のない意見を言わなければならないというのは、気が重い。セッション依頼二件のうち一件は超大物のベテランで、もう一件はSwifterのカバーアルバムだったが、最初の経験の苦さから、僕はすっかりセッション嫌いになってしまったようだ。後者は少し惹かれたが、でもあとのメンバーとはほとんど面識もなく、しかもギター部分をファイルにして送ってくれれば良い、というオファーはあまり歓迎しない。ローレンスさんも「カヴァーアルバムか……」と苦笑いをしているし、パスしておいたほうが良いだろう。インストラクションDVDも、何をしていいかわからないし、台本があるならよけいにわざとらしくなりそうだ。それにギターコンベンション――ギタリストだけを集めての早弾き競演会なんて、出たくない。そもそも僕は技術をひけらかすタイプのプレイは嫌いだし、他の出演者たちもシルーヴァ・バーディット以外、知らない人ばかりだ。しかもシルーヴァでは、話し相手にならないだろう。居心地の悪い思いをすることは確実だ。
「そうか……残念だが、仕方がないな」
 社長は少々がっかりしたようでもあったが、それほど打ちひしがれた様子でもなく、頷いていた。
「ギターコンベンションは、最大の売りが消えるんだな。シルーヴァ・バーディットVSジャスティン・ローリングスのトップバトルが。まあ、うちが企画したわけじゃないからいいが、向こうの主催はがっかりするだろうな」
 メイヴィスさんは、ちょっと苦笑いをしている。
「それにスィフターのカヴァーアルバムも、最大の売りが消えるわけだね」と、シュレーダーさんも首を振って苦笑し、
「まあ、別に僕は構いませんけれどね」と、ローレンスさんは肩をすくめていた。
 そうか――僕が参加することで、少しでもカヴァーアルバムの売り上げがブーストするなら、やっぱり参加しよう。それで少しでもローレンスさんや、他の三人の残された家族に印税がいけば――彼らとてお金に不自由しているわけではないとローレンスさんは言っていたが、あって困るものでもないとも話していた。ギターコンベンションは、売りが消えようが何だろうが、どうでもいいが。
「あ、やっぱりカヴァーは参加します」
 僕は前言を撤回した。
「そうか。じゃあ、それだけはOKと申し伝えておこう。あとは休養かい?」
 社長は微かに微笑して頷き、問いかけてきた。
 休養か──そうだ。一年三ヶ月の休養も悪くはない。カヴァーの仕事は、長くとも数日で終わるだろうから――だが、それだけの長い間何もしないというのも、最後には退屈になるかもしれない。そう言えば以前、思ったことがある。『バンドが一年ほど活動停止しなければ、実現は難しいだろう』――何のために? ソロだ。ソロアルバムを作ること。AirLaceというバンドの枠を超え、悪い意味では決してないが、アーディス・レインという絶対者から離れて、ジャスティン・ローリングス個人の可能性を試すために、実現できたらいいなと思ったこと。それがソロアルバムの制作だった。難問はあるだろう。メンバーの人選やレーベルとの交渉など。しかし、今ならできないことではない。シュレーダー氏も、エアリィほどには歓迎してくれないかもしれないが、反対はしないだろう。
「出来たらその間に、ソロを作ろうかと……」
 僕がおずおずと言いかけると、
「そうか。では君だけでも、お願いするよ」
 シュレーダー氏は、即座に同意してくれた。
「では、あとの三人はどうする?」
 ロブにそう問いかけられ、ジョージ、ミック、ロビンは顔を見合わせていた。そしてみなで頷いたあと、ミックが代表して答えている。
「僕らは完全休養で良いですか? それぞれに好きなことをしたいと思いますから」
「ああ、かまわないよ。君たちも疲れているだろうから、少し休んで英気を養うといい」
 社長もシュレーダー氏、メイビス氏も笑顔を浮かべ、頷いていた。

 それから二週間が過ぎ、ロードも残すところ数日となった頃、コンサート前の楽屋で、僕らは来るべき休暇について話していた。みな、一年あまりの長いオフに何をやりたいか、だいたいのプランが決まったらしい。
「僕は大学院で勉強しようと思うんだ」
 ミックは嬉しそうな口調で、報告していた。
「僕が大学時代に懇意にしていた教授に、できれば講義を聴講したいと、あの会議の翌日にメールしたんだ。そうしたら、一般聴講でもいいが、社会人聴講生待遇なら、もっと専門的な講義が聞ける。何か論文を送ってくれたら審査しよう、と言うんで、これまでのオフに書いていたものを、オンラインで送ったんだ。そうしたら、三月からの聴講を認めてくれると、昨日返信が来たんだ。社会人聴講生待遇として。いずれ編入試験を受けて、正式な院生になりたいけれど、今はまだ一年しかないからね。でも、興味を持った分野の勉強をしたい。僕が音楽以外で一番やりたいことは、それなんだよ」
「俺は農場をやることにしたよ」
 ジョージも同じように、楽しそうな口調だった。
「あの会議の二日後に従兄弟に連絡したら、タイミングよく伯父さんの農場の近くが売り出されたって言っててな、そこを買ったんだ。セントキャサリンズの郊外で、俺たちも子供の頃、よく遊びに行っていた所なんだよ。まあ農場経営は難しいし、俺も素人だから、従兄たちの協力が必要なんだ。それに俺が関われるのは、一年しかないんだぜ。実際の作業は、従兄が良い人を紹介してくれるそうだ」
「僕らも、その近くに家を買おうと思って」
 ロビンが目を輝かせる。
「セントキャサリンズは良い所だよ。景色はきれいだし、静かだし。そこで本を読んだり、趣味のドールハウスを作ったりして暮らしたいな。それに僕、一度じっくり小説を書いてみたいんだ」
「ということは、三人とも一年三ヶ月間、完全に音楽から隠遁するのか?」ロブがそうきくと、
「ああ。僕たちはそう言う時間が欲しいんだ」ミックが頷く。
「今までずっとタイトロープの上を歩いてきたようなものだから。その緊張と疲れを解きほぐして、また立ち向かって行くだけの英気を養う時間が、僕らには必要なんだよ。完全に音楽から離れてね」
「たまには遊びに来てくれよ。俺たち、四月から田舎暮らしだからさ」
 ジョージが笑った。
「じゃあ、時々押し掛けていくよ」僕は頷く。
「ああ、そういう浮世を離れてのんびり、ってすごく憧れるなぁ」
 エアリィは少し感嘆したような口調だった。そして、ちょっと笑って続けている。
「僕もできればそうしたかった! って、今後悔しても遅いけど」
「おまえはミュージカルと映画が、しっかり入っているもんな、エアリィ。さすがに休ませてくれないか。どっちを先にやるんだ?」
 ジョージが笑って聞いた。
「ミュージカルが先だよ。もともと劇場の関係で、四月五月の公演が決まってたらしいから。四月六日が初日で、千秋楽は五月三一日だって。四月に入ったら、リハーサルがあるけど。他のキャストは、もう三月十日からはじめるらしいけど、僕は三月一杯は休みたいし、フレイザーさんも――今回の監督さんなんだよ、それで良いって言うから。だから僕も四月五月は、ニューヨーク暮らしになりそうなんだ」
「家族も一緒に行くのか?」
 エアリィの場合、台詞や振り付けを覚える必要がないから――見ただけで記憶し、再現できる奴だから、リハーサル期間が五日間でも、十分すぎるくらいだろうなと思いつつ、僕は聞いた。
「いや、僕だけ。子供たちをあんまり、いろんな環境の中に引っ張りまわしたくないし。ロードに出てるようなもんだから、彼女たちも慣れてるよ。で、七月から映画。ロケ地とスタジオが半々くらいって言ってた。これも僕一人で行くことになるけど。まあ、どっちもモートンとネイトは一緒なんだけどね。クランクアップが八月末の予定かな。僕は自分の出番のとこだけ、まとめ撮りなんだ。撮影はそれで終わり。年末くらいにアフレコがあるらしいけどね」
「そうか。じゃあおまえのオフは、九月からだな。実質は九ヶ月か」
 僕がきくと、エアリィはちょっと肩をすくめて首を振った。
「うーん……休めればよかったんだけど、結局だめそうなんだ。僕には、一ヶ月以上のまとまったオフは、なくなるかもしれない」
「えっ、なぜだ? また仕事が入ったのか? ひょっとして、ソロでも作るつもりか?」
「ん。ソロじゃないよ。プロジェクト。これって、今言っちゃって良いかどうかわかんないけど、シルヴィーのバンドに合流するんだ。SBQとのジョイントプロジェクトって感じかな。僕は昔の約束、まあ子供の頃だからって、それほど絶対的なものだとは思ってなかったんだけれど、彼はけっこう本気だったらしくて。SBQがインストバンドなのは、シンガーは約束の指定席だから、なんて言われて、まあ、そう言われれば、約束はやっぱり約束なのかな、って。今なら実現に動けそうだし。たぶん秋からそのプロジェクトでアルバム作って、ケンカ別れしなかったら、ツアーもって感じかな」
「シルーヴァ・バーディットとジョイントプロジェクトだって! おい、エアリィ、その話は聞いてないぞ!」
 バンドのみなも驚いた表情だったが、ロブもすっかりあわてた様子だ。
「ああ、だって昨日彼と電話で、決めたばっかりだし。秋から半年以上まとまってオフになったって言ったら、『それなら、約束の実現が可能になったな! 半年だけで良いから、一緒にやってくれ!』って言うからさ。んー、それだと、めいっぱい仕事で終わっちゃうじゃないか、とも思ったけど、まあ一応、約束だしね。みんなに話したのは初めてだよ。となると、これからお互いクリアしなくちゃなんない問題がいっぱいあるね、なんて彼とも言ってたとこだし。マネージメントやレーベルの扱いとか、だよね、ロブ?」
「そうだ。向こうとは所属マネージメントもレーベルも違う。どうすり合わせるか、折衝しなければならないな。社長も驚くだろうな。おまえの行動の自由は認めるが――大変なことだぞ。世間的にもな、おまえがSBQとジョイントするとなると、きっと大騒ぎになるだろう」
 ロブはため息をついている。
 僕もちょっと複雑な心境だった。エアリィとシルーヴァとの交友は知っていたが――あの本のおかげで、いまやファンもほとんどが知っている。でも、まさか本当に一緒にやってしまうとは。さぞかし話題を呼ぶだろうが、エアリィの長年のパートナーである僕としては、彼が他のギタリストと組んで、それが僕よりずっと良いコンビネーションだった、などということになったら、自信をなくしてしまいそうだ。ジョージやロビンも同じ気持ちだったようだ。相手のバンドのリズムセクションは、双子なだけに呼吸もぴったりで、その上ギターに劣らず超絶テクニックとフィーリングを持った、それこそ天才的なコンビなのだから。
 シルーヴァ・バーディッツ・クエイサーは、ある意味で究極のインストバンドだ。三人の才能、テクニック、自己主張、それが絡み合って放散される凄まじいインパクトに、とてもシンガーの入る余地はない、というのが一般的な意見だった。シルーヴァも以前は、そう言っていたらしい。ただ三年前、夏のフェスティヴァルでエアリィと再会した後は、彼は過去をオープンにインタビュアーたちに話すようになり、こうも言ったという。
『僕はシンガーと一緒にやるつもりはない。ただ一人を除いて。それは大切な昔の思い出、約束の指定席なんだ。他の誰も、そこに座ることは許されない。僕らには叶わないだろうしね。でも、彼なら出来る。ただ残念ながら、君たちも知っているとおり、彼は今フリーじゃないけれどね』
 約束の指定席。十六年前、ノース・カロライナの小さな農場の居間で交わされた約束、『君が歌う時には、僕が傍らでギターを弾く』――それが、とうとう実現することになるのか。
「来年の六月には、本当に戻って来るんだろうなあ、エアリィ。向こうに行きっぱなしになったりするなよな。あくまで課外活動だってことを忘れるなよ」
 ジョージは危ぶむような口調だったが、その懸念はきっと、みんなが感じていただろう。
「えっ? 戻るよ。逆に戻ってこなくて良いとか言われたら、すごく困るんだけど」
 エアリィは笑って答えていたが、こうも付け加えていた。
「僕にとってエアレースってさ、我が家みたいなもんなんだ。すごく落ち着けて、くつろげる場所って言うか。けど逆に、あまりに快適過ぎるってのは、少し怖くもあるんだ。一つ間違うと刺激がなくなって、テンションが落ちてくる可能性だってある。ミュージカルや映画もだけど、シルヴィーたちと一度組んでみようって思ったのも、それなんだ。新しい人たちと新しい刺激の中でやれば、逆にこのバンドのこともよく見えてくるような気がするし、新鮮に向き合えるんじゃないかなって」
「そうだな」
 たしかにそうだ。僕たちは頷くしかない。しかしエアリィにこれだけ派手な活動をされると、少し考えてしまう。僕はソロを作ると言ったが、絶対に完成させようという、強い意志があったわけではない。退屈しなかったら、ずっと休んでいてもいいとさえ思っていた。いろいろと旅行して、あとは家でのんびりするのも悪くない、と。でも、それで本当に良いのかという気分にも、なってしまう。のんびり休んでいるだけで良いのか、と。
 英気を養い、戻ってきた時に新鮮な気持ちで音楽に向かい合う。それだけなら、ただ休むだけでも良い。やりたかったけれど出来なかったことをする。それがミックの場合は大学院であり、ジョージは農場であり、ロビンはドールハウスや小説なわけだ。それは同時に、休養にもなって良いだろう。エアリィの場合、外から「やってほしいこと」がいっぱいあって、それが本人の「やってみよう」という気と結びつき、ほとんど休む間のない課外活動の連続となった。休養にはならないだろうが、しかし収穫は相当大きいだろう。だが彼がこれ以上飛躍していってしまって、僕らは果たしてついて行けるだろうか。僕も英気を養うだけでなく、やはり是が非でもソロを完成させよう。

 二月の終わりに、僕たちはツアーから解放された。これから一年以上の長いオフが待っている。
 まとまったオフは、もうこれで最後だろう。家路についた時、誰もがそう考えたに違いない。僕も我が家の門をくぐり、ソファに座ってくつろいだ時、その考えが頭をよぎっていくのを覚えた。それも、この時期に長い休暇を取った理由の一端かもしれない。最後のアルバムに向けてバンドの英気を養うだけでなく、この世界での最後の楽しみのために、与えられた休暇。ずっとやりたいと思っていたが、バンドの活動が忙しくて出来なかったこと、それをやる時間が欲しい。もっとずっと長く、愛する者たちと一緒にいたい。潜在意識のそんな願いが、一年間の活動休止期間を生み出したのかもしれない。
 一年や二年のブランクは別に珍しいものではなく、ファンたちも騒ぎはしなかった。この休止期間中に、最新ツアーのライヴCDとDVD、それにベスト盤と今までのPV集を出すということも、レーベルと話が付いている。その作業は主にローレンスさんがやってくれることになっていた。

 僕は目を閉じ、ソファに寄りかかった。スタジオのラウンジ、ホテルのスィートルーム、楽屋のソファ──たとえどんなに座りごこちの良い豪華な調度でも、我が家のリビングルームのソファくらい、僕にとってくつろげる場所はない。結婚した当初は真新しかったモスグリーンの皮張りソファは、六年の間に多少色がくすみはしたが、表面の感触には、ほどよいやわらかみが加わった。大理石張りのテーブルもクリスがシールを貼り付けたりはがしたり、ミニカーを走らせたりするおかげで、ちょっと輝きがなくなったようだ。でも、その生活のあとがあればこそ、このリビングルームに柔らかなくつろぎの雰囲気を与えているようだった。そして僕の隣にちょこんと座り、子供向けのDVDを見ているクリス。エプロンをかけ、アップルティーを運んできながら、僕を見て微笑むステラ。二人の存在があればこそ、我が家が最上のオアシスとなりえるのだ。
「疲れたでしょう? ゆっくり休んでね」
 ステラはカップをテーブルに置くと、僕の隣に腰を下ろした。
「それで、今度のお休みはいつまでなの? やっぱり五月一杯くらい?」
 そんな質問をしてくるところをみると、ステラは僕らの休養宣言を知らないのだろう。
「ああ、そうだよ」
 僕はカップを取り上げながら頷くと、妻を見やり、笑って続けた。
「ただし、来年のね」
「えっ?」
「AirLaceは来年の五月まで一年三ヶ月間、活動休止することになったんだ」
「あら、まあ!」
 ステラはぽかんと目を見張り、手を口に当てている。
「まあ、そんなことって……何か問題でもあったの?」
「いや、違うよ。少し休養して、新しい視点に立とうっていうことになってね」
「あら、まあ!」ステラはもう一度繰り返した。
「いつ、決まったの?」
「一ヶ月ほど前だよ」
「そんな大事なことを、どうして決まった時に知らせてくれなかったの?」
「いや、二週間前にオフィシャルサイトに告知したんだけれど、君は見なかったのかい?」
「ええ。わたしがパソコンやネットに疎いのは知っているでしょう、ジャスティン。機械操作の類は、いまだに良くわからないのよ。メールもまだ打てないくらいですもの。それにあなた、電話でも手紙でも何も知らせてくれなかったし」
「ああ。それはね、君をびっくりさせたかったんだ」
 僕は苦笑して肩をすくめた。
「ええ。本当に驚いたわよ。その間、あなたはどうするの?」
「とりあえず、ゆっくり休むよ。しばらく家でのんびりしていたい。旅行にもいろいろ行きたいな。でも一年三ヶ月もそうしていたら、きっと退屈だろうから、秋くらいからソロアルバムを作る予定なんだけれど」
「まあ……うれしいわ……」
 ステラは頬を紅潮させ、うわずった声を出した。
「それなら、少なくとも夏までは、ずっとあなたと一緒にいられるのね」
「僕だって、うれしいよ!」
 僕は手を伸ばし、妻をかたく抱きしめた。

 とにかく夏までは休もう。その決心のもとに最初の二週間を家で過ごし(二日ほど、スィフターのカヴァーアルバムの仕事を少ししたが)、それから旅行に出た。三週間はバハマの別荘へ、戻ってきて十日ほど家で休んだあと、今度はキプロスで二週間、コテージを借り切って過ごした。それは至福の日々だった。

 再びトロントへ戻ってきた時は、春の盛りだった。五月上旬に僕は招きを受けて、ジョージの牧場に家族連れで遊びに行った。
 セントキャサリンズの郊外にあるこの牧場は、ジョージの話では十四エーカーほどの広さで、三エーカーの小麦畑と、十エーカー弱の牧草地があるという。牧場には鶏が約六十羽と牛が十五頭、馬が三頭いる。ジョージもパメラも牧場経営には全くの素人なので、スタンフォード兄弟の母方の従兄に当たるジェームズ・バートランドがアドバイザーとして定期的に訪れ、その人の紹介できている住み込みの管理員が二人(母屋に隣接した小さな家が、彼らの住居らしい)と、通いの作業員三人で運営されているという。
 クリスは牧場の門をくぐると、その広さに歓声を上げ、初めて間近に見る牛や馬に、目を丸くして見入っていた。母屋からプリシラとジョーイが出てきて息子を歓迎してくれ、ジョーイが、「ね、ね、鶏の卵拾いにいこ!」と、クリスの手を引っ張って、三人でどこかに駆け去っていった。
「子供には、ここ全体が良い遊び場なのよ」
 パメラはにっこり笑っていた。
「良いですね、本当に。こんなに広々とした場所で、たくさんの動物たちと一緒に暮らすなんて」
 ステラは感嘆したような口調で声を上げていた。
「おまえたちも農場をやってみたらどうだ、ジャスティン。面白いぞ。気持ちも豊かになるしな」
 ジョージは愉快そうな笑みを浮かべている。
「悪くないけれど、一生の仕事にしていくには、ちょっと考えるな。本気で経営するのは難しそうだし、僕は農場のことなんて、なにも知らないから」
「俺だって、似たようなものさ。従兄のジムなんぞ、はっきり言ったぜ。おまえのはお遊びだって。最初からそれだけで暮らしていかなくとも良い気楽さがあるから、のんきなことを言っていられる。現実は大変なんだぞ、とな。俺は、まあそうだろうな、と言ったよ。たいして腹も立たなかったな。だって、本当のことなんだからな。たしかに俺のは、大きな道楽かもしれない。じいちゃんの会社にかかわらなくたって、俺にはAirLaceという基盤があって、もう一生金には困らない。そのおかげで、これだけ壮大な道楽を楽しめるってことさ。それで良いじゃないかと思っているよ。逆にそういう結構な身分だからこそ、採算なんて度外視して、好きなようにやっているんだ。牛も馬も放牧して、新鮮な牧草を腹いっぱい食べさせてやる。飼料だって、全部有機栽培の天然もので、合成飼料なんて、これっぽっちも使わないぜ。鶏だって雄鶏も混ぜて、平飼いにしているんだ。だから卵もミルクも、とびっきりうまいものができるぜ」
 ジョージは立ちあがると奥へ行き、大きなガラスのジャーを右手に、いくつかのカップを左手に持って戻ってきた。
「ほら、これは今朝絞ったばかりのミルクだ。飲んでみろよ。上手いぞ!」
 彼は泡立つ牛乳を、カップに入れて勧めてくれた。たしかにおいしい。妙な油っぽさも苦さも匂いも何一つなく、さらっとしたのどこしに、かすかな甘さが残る。
「バターも自家製よ。バターメイカーを入れて、作っているの。ひと味違うでしょう?」
 パメラもにこにこしながら、パンとバターを振る舞ってくれた。バターもふうわりとして、舌の上で自然にほぐれてとろけるようだ。
「良いな、この牛乳とバター」
「本当。家でも食べたいわ、こういうの」
 ステラと僕が声を上げると、パメラはにこりと笑った。
「お譲りするわ、良かったら。バンドの活動が始まっても、この牧場はバートランドさんと雇い人たちとで運営されるから、ずっと牛乳とバターと玉子は出荷するつもりなのよ」
「いいんですか? じゃあ、買います。売ってください」
 僕は思わず身を乗り出し、
「あら、じゃあ、お客様第一号ね」と、パメラは弾んだ声を出す。
「小麦が取れる頃になったら製粉所と工房を建てて、パンも作るつもりなんだぜ」
 ジョージは満足そうに笑って、そう付け加えていた。

 やがて戻ってきた子供たちも交えて、ランチタイムになった。近所で売っている手作りパンと、ここで作っている自家製バター、新鮮な牛乳とゆで卵、有機栽培農家から買ってきた野菜で作ったサラダ。近くの牧場で売っているハムとソーセージ。クリスは牛乳も卵も、おかわりして食べた。
「プリシラちゃんは小学校、どうしていらっしゃるのですか?」
 ステラがそう聞いている。
「とりあえず、お休みさせたわ。こちらの学校に行かせることも考えたんだけれど、ここに永住するつもりは、わたしたちにはなくて、来年からは夏の間だけ過ごすことにしたのよ。そうなると、また来年の春にはトロントへ戻るわけでしょう。一年ちょっとでまた転校では、かわいそうだから。この子、性格的に慎重なのか繊細なのか、新しい環境に慣れるのに、他の子より時間がかかってしまうのよ。だから無理させるより、一年くらいなら、ここでのんびりジョーイと遊んでいる方が、良いのではないかと考えたの。もちろん週に四日家庭教師に来てもらって、お勉強はさせているわ。トロントに戻った時、お友達に遅れないようにね」
 パメラは、傍らでミルクを飲んでいる娘を見やりながら答えた。
 九才になったばかりのプリシラは、トロントで見た時より健康そうに見えた。頬はピンク色になり、彼女の悩みの種だというそばかすも、あまり目立たないくらいになっている。体つきもふっくらとして、日に焼けていた。黒い髪をお下げに編んで、黄色いギンガムチェックのシャツにジーンズのショートオールを着た彼女は、元気なおてんば娘に見えるほどだ。弟のジョーイは緑のギンガムチェックシャツに姉とおそろいのショートオールといういでたちで、丸々と太った剥き出しの膝には、いくつかばんそうこうがはってあり、日に焼けた顔にも引っかき傷がある。栗色の縮れ毛や、いたずらそうな顔つきとあいまって、こちらは本当に腕白坊主という感じだ。その横でバターつきパンを食べているクリスは、ずいぶん色が白く、線が細く見えた。ずっと海で過ごし、日に焼けたはずなのに、やっぱりこの環境にはかなわないのか、それとも元々の素質だろうか。

 お昼過ぎには、ロビンとセーラもやってきた。二人はセントキャサリンズにセカンドハウスを買っていて、三月からずっと住んでいるらしい。午後は馬に乗ったり乳搾りやえさやりを体験したりし、夕食には外でバーベキューをして、その日はジョージの牧場の家に泊めてもらった。
 この家は階下に広い土間があって、真ん中に大きなストーブが置いてあり、煙突が通っている。そのまわりに、座り心地の良いアームチェアが五客置いてあった。
「昔の農家の作りだな。買い取ったまま、あまり改造してないんだよ。ずっとここに住むことになったら、本格的に手を入れたいんだがな」
 ジョージは大きなマグカップにたっぷりとカフェオレを注ぎ、僕らめいめいに手渡した。ジョージとロビンと僕、三人がそこにいた。今は五月なので、ストーブは使っていない。それぞれの奥さんや子供たちは土間に隣接した居間(ここはちゃんとフローリングがしてあって、ソファやテーブルが置いてある)の方にいた。
「ありがとう。ジョージは前から考えていたのかい? 牧場をやろうって」
 僕はカップを受けとりながら、そう聞いた。
「ああ、俺は昔から会社経営には興味がなくてな。農場暮らしに憧れてたんだ。子供の頃、母さんが俺たち兄弟三人を――まあ兄貴は十五になったら来なくなったが、伯父さんの牧場、この近くにあるバートランド農場っていって、ここより少々広くて、菜園なんかもやっているんだが、今はジムが継いでいるんだ。そこに毎年夏に、遊びに行かせていた影響もあるんだろうな」
「ああ、そういえば君たちは毎年夏に、農場へ行くんだって言っていたものね」
「うん、覚えてる、ジャスティン? 毎年僕らは夏に二、三週間くらい、セントキャサリンズの農場へ行っていて、君たちはプリンスエドワード島へ行っていたものね」
 ロビンは懐かしんでいるような表情を浮かべた。
「あの頃からロビンは、伯父さんの農場に行くより、ジャスティンと一緒にいたい、なんて言っていたんだぜ。でも、ジャスティンだって毎年夏には家族で海に行くんだから、一緒には遊べないって、宥めすかして引っ張っていったんだ。だから俺たちが農場に行くのは、いつもおまえんちが避暑に行く時だったんだ。そうでもしないと、ロビンが行かないからな」
「へえ、本当に? 知らなかったよ。だから、いつも同じ時期に行っていたんだ」
「だが、こんなにジャスティンべったりで大丈夫か、あまり度が過ぎると、うんざりされるんじゃないか、大きくなってやばい感情でも持ったら、まずいんじゃないか、なんて俺はちょっと心配していたがな。実をいえば、母さんも少々気をもんでたんだぜ。だがまあ、そのロビンも今やセーラさんという嫁さんもらって、すっかり嫁さんべったりだもんな。おい、今は離れていて大丈夫なのか?」
 ジョージにそうからかわれ、ロビンはちょっと顔を赤らめて、「いやだなあ、兄さんは」と、少々決まり悪そうに苦笑していた。
「俺は農場が好きだったんだ、その頃から」
 ジョージはマグカップの中味を半分ほど飲んでから、憧憬をこめた口調で続けた。
「馬に乗ったり牛の乳絞りをしたり、広い牧草地を駆けまわったりするのがさ。大きくなったら、俺もこういう生活をしてみたいと思っていた。でも、ロビンはあまり好きじゃなかったんだな。動物を怖がったし」
「うん。牛や馬は大きすぎて怖かったんだ。今は大丈夫だけれど、それでも積極的に近づきたいとは思わないよ。それにハエがいっぱいいるし、あの独特の匂いでしょう? 僕は農場をやるなら、果樹園が良いな。セントキャサリンズにも、たくさんあるんだ。家の近くにも、りんご園があってね。秋になったら、たくさんりんごを買おうと思っているんだ」
「だが果樹園にだって、おまえの嫌いなものはいるぞ、ロビン。虫がな。果物は黙っていても、なるもんじゃない。いや、なるにはなるが、虫食いだらけだぞ。消毒して虫取りをしないと。おまえ、出来るか?」
 ジョージは、にやっと笑っている。
「虫はねえ、うちの庭にもいるよ。バラの木はすぐアブラムシがたかるし、ポプラやりんごの木には、油断しているとすぐ毛虫がぶらさがっていたりね。ステラなんて、見つけるたびに悲鳴を上げているよ。庭師が駆除しているんだけれど」
 僕は肩をすくめた。
「ま、少なくとも虫嫌いな奴に、農園は無理だな。あと、清潔好きな奴にもな」ジョージが苦笑して肩をすくめ、
「それは言えるかも」
 僕らは顔を見合わせ、笑った。
「ところで、おまえはどんな具合だ、ジャスティン? 楽しくやっているか?」
 ジョージが身を乗り出して、そう問いかけてきた。
「ああ、楽しくのんびりやっているよ。二回、大きな旅行に行ったんだ。バハマとキプロスに」
「そうか。それはよかった。まあ、来てくれてうれしいぜ、ジャスティン。ロビンは近くに住んでいるくせに、めったに来ないしな。元々農場は好きじゃないんだろうし、二人だけの世界に浸ってもいたいんだろうがな」
「セーラは馬が好きなんだけれどね」
「じゃあ、来いよ。おまえも一緒に、乗馬を教えてやるぜ」
「兄さん、多少は乗馬ができるようになったの? 昔は乗れもしないのに馬に乗ろうとして、よく振り落とされたじゃない。一度なんて、熟成中の肥だめの中に落ちたよね」
「わっ、言うな、バカ! ロビン! あれは俺の人生最大の汚点なんだからな!」
 ジョージは顔を真っ赤にして、立ちあがりかけた。
「うわっ、汚いな! 本当か?」
 僕は思わず吹き出した。
「運が悪かっただけだよ、たまたまな。笑うな、ジャスティン。ロビンも人の失敗をばらすんじゃないぞ。俺は少しおまえに外に出て欲しかっただけなんだからな」
「でも兄さん、僕は外に出たくないから、休養したいって言ったんだよ」
「まあ、みんなそれぞれ好きなことをするっていうのが、今回の休業目的だからね」
 僕は苦労して笑いを収めると、カフェオレを飲み、ちょっと肩をすくめた。
「まあな」ジョージも笑って頷く。
「でもなんだか、おまえらの顔を見て、久しぶりに懐かしかったぜ。もっとも普段でもオフは、こんなものなんだがな。みんなてんでんばらばらで、三ヶ月ほとんど音沙汰なしってのは、珍しくないんだが。でも、これから一年もこんな調子だって思うと、ちょっと妙な気分もするんだ」
「うん。あと一年以上あるんだもんね」
 ロビンもちょっと吐息をついていた。
「ところで、おまえはトロントに住んでいて、ミックに会うか、ジャスティン? ああ、おまえはほとんど旅行してたって言っていたな。あいつはトロント大のハイデンバーク教授のゼミに行ってるんだぜ。こないだ、メールが来てたよ」
「ハイデンバーク教授って──僕はトロント大学のことは良く知らないけれど、何の専門なんだい?」
「超常科学だよ、専門は。一つ間違えばオカルトだな。一応政治家の跡取りなんだから、政治経済はやらなくていいのかって聞いたら、大学でやったから、それはもう良いって言うんだ。大学院は、好きなものを勉強したいんだとさ」
「へえ。まあ、たしかに彼はそういうものに興味はあるだろうけれど、でも心理学をやりたいって言っていたのに。ユング理論は、もうやらないのかな?」
「いや、そっちも聴講しているらしいぜ。ブルースター教授のゼミでな。だがユング理論も、人類の共通意識とか曼荼羅とか、一つ間違うとやっぱりオカルトだろう? あいつはそういうの、好きなんだよなあ、本当に」
「僕もそういうの、興味あるなあ」
 ロビンが少し首を傾げ、小さく声を上げた。
「おまえも受けたらどうだ? もっともミックのは社会人聴講生用のゼミだから、受けるにも資格がいるが、一般向けのゼミもあるんだぜ」
「でも僕、今はセントキャサリンズに住んでいるんだしね」
「ずっとこっちに住みっぱなしでなくともいいんだろう、おまえは。時々トロントへ帰ったらいいじゃないか」
「うん……」
「あっ、僕も興味のあるゼミなら、出てみたいな。一般向けのを。だけど……」
 言いかけて、僕は思わず考え込んだ。トロント大学へなんて行ったら、さぞかし注目されるだろうな、と。そのおひざ元のクイーンズパークへ親子三人で行った時にも、じろじろ見られ、声をかけられた。休業中とは言え、僕らはやはり完全な一般人にはなれない。
「まあ、ジャスティンは目立つかもな」
 ジョージも苦笑していた。
「知ってるか? ミックは大学じゃ、髪短くしてめがねかけて、まったく普通の格好で通っているんだ。マイケル・ストレイツとして。だから、あまりわかっていないらしいぜ。あいつ、この間のメールに写真を添付してよこしたんだが、見てみるか? 思わず笑ってしまうぞ」
 ジョージはつと立ちあがり、スマートフォンの画像を見せた。ミックが教授らしき人と写っていたが、言われなければ彼だとは、わからなかったかもしれない。茶色の髪を耳のあたりで切って撫で付け、七三分け。黒ぶちの眼鏡をかけ、キャメル色のポロシャツにカーキ色のカーディガン、チャコールグレイのチェック柄ズボンと言ういでたちだ。これではたしかにどこからどう見ても、かなり体格の良い、ちょっと年のいった、ふつうの大学生だ。僕はやっぱり吹き出してしまった。
「だからロビンも髪を切って、今みたいに眼鏡をかけていれば、わからないだろうがな」
 ジョージがにやっと笑う。ロビンもあまり目はよくなく、プライベートでは眼鏡をかけていることが多い。ミックと同じように、ステージやビデオ撮り、フォトセッションの時には、使い捨てコンタクトを使っているが。今ロビンは銀縁の眼鏡をかけ、髪もジョージと同じように、後ろで一つに引き結んでいた。服装もフランネルのシャツにジーンズとスニーカーだ。
「まあ、俺らはその気になれば、一般人にまぎれることもできるだろうさ。それっぽい格好をすればな。だがまあ、おまえは難しいだろうな、ジャスティン。髪を切って普通の格好をしても、おまえは目立つよ。すぐに素性がわかっちまう。それだけ存在感があるんだろうな。旅行に行っていても、声をかけられるだろう、やっぱり」
 僕は苦笑して頷いた。「ああ、多少はね」と。
「一般人になれないのなら、エアリィみたいに、思いっきり芸能人してみるのも良いかもしれないがな。聞いたか? ブロードウェイであいつがやっているミュージカルの評判。ものすごいぜ。ローリングストーンやほとんどの芸能雑誌で、大激賛だ。あまりにチケットの売れ行きが凄いんで、十日目から一日二回公演になったらしいが、それでも切符は手に入らないんだとよ。千秋楽まで、全部売り切れだ。それもブロードウェイで一番でかい、キャパ六千人の劇場なんだぜ」
 ジョージは感嘆したような口調で言い、そして続けた。
「あの規模の会場を二か月押さえるってのは、ブロードウェイじゃ相当な冒険だったらしいが……で、俺はちょっと不思議に思ったんで、ロブに聞いてみたんだ。エアリィが前に言ってたみたいに、四月五月は会場押さえ済みだったってことは……ハナから向こうの関係者はその時期に、あいつを主役に据えて興行する気満々だったのか、と。他のやつじゃ、とても無理だろう。良くて二週間くらいがせいぜいだ。そうしたら、ロブは答えていた。たしかにそれは正しい。二月にツアーが終わって身体が空くから、その興行分だけ休暇を長くセッティングできないかと、去年の夏ごろ、フレイザーさんが社長に要請してきたのだと。しかし、ずいぶんな冒険をするなと俺は思ったよ。あいつがもし断ったら、どうするつもりだったんだとな。フレイザーさんは自信満々で、他のキャストのオーディションも去年の秋から始めて、準備してたらしいが。『もしアーディスが渋ったら、私が説得に行く』と言っていたらしいぜ」
「へえ……じゃあ、この長期休暇の発端はミュージカルとフレイザーさんだったのか」
「そう。それと、映画の件もあるらしい。あれも四、五年くらい前から懸案になっていたらしいが――なんでもアリステア・ローゼンスタイナーと長年組んでいた監督さんが、自分の寿命が尽きる前に、ぜひアリステアさんの遺稿、そして最後の映画を、その孫の主演で実現させたいと言ってきていたらしいんだ。自分の息子を通じて――って、これはだいぶ前に、エアリィに引き抜きをかけてきた業界人なんだがな。その人がプロデューサーをやり、老監督が久々にメガホンを取ると。いつかきっとこの映画に日の目を見せたいと思っていたが、今までふさわしい主演が見つからなかったと。それでまあ、AirLace自体、精力的な活動で多少オーバーペースかなと思い始めていたこともあるし、いっそのこと一年ほどバンドは活動を休んで、その間にミュージカルと映画、両方実現できたらいいと思ったらしいな、社長は。それと俺たちの利害関係が一致したわけだ。たしかに俺たちにとっても、ここで一休みは、いいアイデアだと思うからな。おかげで俺たちみな、やりたいことがやれているわけだから」
 ジョージは立ち上がってマガジンラックの中から雑誌を一冊抜き取り、テーブルに置いた。「これはロブが先週、送ってきたんだ」と。ミュージカルの専門誌らしいが、カヴァーストーリーは『The Innocent Soul』――エアリィが出演中のミュージカルで、表紙も彼だ。オフホワイトの半袖Tシャツにジーンズのカバーオール、首に巻いた水色のバンダナ。ブロンドの髪が肩にふわっとかかり――ひと筋の青い髪束とともに――肩の下五センチくらいの長さに切られている。『表紙撮影って、なんとなく緊張するからヤダな』と本人は時々ぼやいているが、写りが悪かったことなど、まったくと言っていいほどない。元の素材のおかげもあるだろう。たぶんエアリィ以上に写真嫌いな僕には、羨ましい限りだ。
「あいつ、ちょっと髪を短くしたのか」
 僕はそう呟きながら、ぱらぱらと雑誌をめくった。この物語は、天界から間違って地上に落ちてしまった天使の話――たしかに、なんというはまり役なんだと、僕は吹き出しそうになった。この脚本家はここ十年ほどの間に台頭してきた若手で(とはいっても三十代らしいが)、何作かのオリジナル脚本もヒットさせているという。その人が、僕らのPVをいくつか動画サイトで目にし、『シンガーの浮世離れした中性的な美を見ているうちに、稲妻が落ちるようにひらめいた』ものだそうだ。『あの子の存在感は人間離れしている。この世のものとも思えない』――それは僕が彼に出会った時の第一印象に似ている。きっとそれは、たいていの人がそう感じることなのだろう。
 その脚本家は憑かれたように三日間ほどで一気に脚本を書き上げ、それをフレイザーさんのもとへ持ち込んだという。それまでに何本か一緒に仕事をしていたので、氏がエアリィの母親と何度も組んで仕事をしていたことと、彼自身のヴォイストレーナーを務めたこともあると、知っていたかららしい。そしてフレイザーさんも脚本を見るなり、『ぜひ実現させよう。もちろん主演はアーディス・レインで!』と言ったらしい。今、その舞台が実現しているわけか――。
「それでな、ミックがこの間メールで書いてきてたが、一度ニューヨークまで行って、エアリィの舞台見てくるかって。まともにはチケットが取れないが、マネージメントが少し回してくれるかもしれないと」
 ジョージはそうも言い、
「そうだな。一度くらいは見ておかないと、という気はしていたんだ」と、僕は頷いた。




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