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「えっ?」
僕は一瞬、言われた言葉の意味が飲み込めなかった。
「どういうことだい、マイク?」
「三年前の全米ツアー第二レッグを覚えていますか? あなたがたが世界的に大ブレイクした年、僕があなたの専属セキュリティとなって二度目のツアーを」
「ああ『Children〜』のワールドツアー、最終シリーズだね」
「ええ、ニューヨークの最終公演で、あなたにも脅しがかけられた、あのツアーです」
「ああ……」
思い出した。三作目『Children for the Light』の大ブレイクに伴って行われたワールドツアー。その最終日、ニューヨーク公演の前夜、ホテルの部屋にかかってきた電話。妻と子の安全を保障してほしくば、友の歌手生命を絶ち、バンド活動を終わりにさせろ、そう脅されたあの夜。翌日のミーティングの席で、実際にエアリィのカップに劇薬が混入され、だが幸いにも未遂に終わってひと騒ぎあったあの時、帰りの飛行機の中で、ロブとレオナが示唆していた。この一連の事件には、内部からの情報提供者がいたはずだと。
「まさか……」
僕は固唾を飲んで目の前の男を見つめた。
「まさか君が……?」
「ええ」ホッブスは目を伏せたまま頷く。
僕はしばらく言葉を失い、ただ彼を見つめていた。マイクは大きな身体を縮めるようにして、うなだれている。その姿を見て責めようとは思えなくなったが、しかし驚きだった。
「なぜだい……?」
少し声がかすれているのを意識しながら、僕は問いかけた。
「なぜ君が、そんなことを……?」
「いろいろと理由はありましたが、第一にはやはり……嫉妬でしょうね」
マイクは目を伏せたまま、そう答えた。 「あなたがたが強烈にうらやましかった。妬ましかったんです。家族にも愛情にも経済的にも、すべてに恵まれて、苦労もせずに、一気に成功への階段を駆け上がっていく、あなたがたが」
「…………」
「僕の半生は、そんなものとはまったく無縁でしたから」
彼は相変わらず膝に置かれた両手を見つめたまま、話し続けた。
「僕の父は、腕の良い大工でした。子沢山だったので、生活は楽とは言えなかったのですが、それほど貧しくもなく、笑いの絶えない家族だったのです。父はよく、僕らと遊んでくれました。家族が多いので、旅行などにはとても行けませんでしたが、休みの日にはランチを持って公園に行き、キャッチボールをしたり、フットボールをしたりして、みなで遊んでいたのです。母はいつも家事に追われていましたが、子供たちはお互いに面倒を見て遊び、父もよく世話をしてくれました。食べ物も、空腹を感じない程度にはありました。でも、僕が十歳になった頃、まるで呪われたように、次々と悪いことが起きてきたんです。当時六歳だったエドワードが事故で死に──この弟は兄弟の中で一番器量よしで賢く、しかも愛嬌ものだったので、家族中に愛されていたんですが、通りをすっ飛ばして来た大きな車にはねられて、あっけなく死んでしまったのです。しかも相手の車は逃げ去って、犯人はとうとう捕まらなかったんです。一番可愛がっていた息子に死なれた打撃に追い討ちをかけるように、当時二才だったアニーの障害が発見され、父はすっかり心を乱されてしまったようです。それで、判断が狂ったのでしょうか、仕事中に高い足場から落ちて、もう二度と歩けない身体になってしまいました。それで、僕らは貧乏のどん底に落ちたのです。ケガをしてからの父は酒浸りで、いつも不機嫌でした。母は小さい弟妹たちを抱え、末っ子はまだ赤ん坊でしたが、ともかく自分が働くしかないと、昼間は工場で働き、夜は食堂で皿洗いをしたのです。でもそれだけでは、とてもやっていけないので、ジェームズと僕も近所の店の手伝いをしたり、草むしりや雑用をして、できる限りお金を稼ぎました。それで、まだ九才のキャサリンが小さい連中の面倒を見て、家を切り回していたんです。それでも父がかなりの稼ぎを飲んでしまうので、家族は食べるものにも事欠くありさまでした。一日に一、二回、薄いお粥やスープをすするのがせいぜいで。学校へ行ってもランチはなく、給湯室で水を飲んで我慢していました。家にいる小さい連中はなおさらで、僕らはいつも空腹を抱えていたんです。一番下のティモシーは、一才になるかならずで、肺炎になって死んでしまいました。たぶんかわいそうに栄養失調だったのと、キャサリンだけでは世話の手がまわらなかったせいもあるのでしょう。ローラもチャールズもアニーも栄養が足らず、がりがりにやせこけたせいで今も太れず、丈夫な体質にもなれません。あのままだったら、三人ともティモシーの二の舞だったかもしれませんが、幸い、と言っていいのでしょうか、父にもまだ良心が残っていたんですね。自分が働けず、アルコールに逃げているせいで、家族が悲惨な状態になっている。でも自分から酒は止められない。それで父にできるただひとつのことを、僕らのためにしてくれたのです」
「お父さんは……」
「自殺したんですよ。小さなティモシーが死んで、二週間後のことでした。父はロープの端をドアノブに引っ掛け、開く方ではない側のぎりぎりまで車椅子で進んで自分の首に輪を通し、車椅子から前に飛び降りたんです。変則的な首吊りですよ。ジョンとキャサリンが学校から帰って来た時には、父はもう死んでいて、ローラとチャールズは床に座り込んで泣き、アニーはにこにこしながら、父の身体をなでまわしていたそうです」
「…………!」
「それからは、いくぶんましになったのですが、今度は母が働き過ぎと心労から身体を壊し、夜の皿洗いくらいの仕事しか出来なくなってしまったのです。それでジェームズと僕は仕事を続けました。朝は新聞配達を、放課後は工場の雑用係として働いたものです」
「たった十歳でかい?」
「ええ、そうしなければ生きていけなかったのです。幸い兄も僕も昔から身体が大きかったので、いくぶん年も誤魔化せましたし。でも、学校はやめたくなかったんです。勉強することは好きでしたし、事情が許せば大学へ行きたいなんて、考えたこともありました。家がそんな状態になってからは、あきらめてしまいましたが。でもやっぱり働かなければならない分、学校はおろそかになって、小学校を出るまで二年も余分にかかってしまいましたし、やっと義務教育を終えた時には、僕はもう十八でした。そのころには、ようやく一家の生活も貧しいながらも安定していたんですが、僕はそれ以上の教育は望みませんでした。それよりも、僕より頭が良くて向学心に燃えていたジョンを大学へあげてやりたかったから、僕は近くに住んでいる日系人のおじいさんに、雑用を引き受けるから柔術を教えてくれと頼み、十九才で警備会社へ勤めたんです。しばらくはビルの警備をやり、一年たってイベント警備を、それから一年後には、給料が二倍以上になるという条件に引かれて、あなたのマネージメント会社のセキュリティ求人に申し込んだのです。アメリカの東部や北東部にも、求人が来ていたので。それで幸運にも採用されて、あなたの警護を担当することになったのですが……」
彼はそこで顔を上げ、僕をじっと見つめた。
「その時の僕の気持ちを、わかってもらえるでしょうか? 不公平だ。あなたに会って、あなたを知って、僕は強烈にそう思わないではいられなかったんです。あなたのように何不自由ない、恵まれた家庭で育ったお坊っちゃんが、才能にも容姿にも恵まれ、運にも恵まれて、何の苦労もなく成功しているのが、強烈に妬ましかったんです。なぜ神さまは、こんな不公平なことをなさるのかって」
何も言えなかった。たしかに僕は人から見れば、幸運に恵まれすぎていると思われても仕方がないのは事実だ。僕は逆境の苦しみや痛みを、ただ想像してみるしかないのだから。
マイケルはしばらく黙り、それから話を続けている。
「二度目の全米ツアーが始まる頃、僕は電話を受けたんです。『協力する気はないか?』って。それに僕はのってしまったんです。嫉妬心もありましたし、あなたがなかなか打ち解けてくれないのにも、多少いらだっていて。ネイトやファーギーが自分の担当と雑談していたり、打ち解けてもらったりしているのを見ると、よけいに気になって。でも僕は、なんとなくあなたが僕を敬遠しているような気がして。もっとも、その次の年に他のアーティストの全米ツアーに付き合って、エアレースでの仕事がどのくらい恵まれていたのか、痛感させられましたが。それで相手に何をするのかと聞いたら、まずあなたと奥様との、結婚にいたるまでの細かい経過が知りたい、というのです。家庭環境とか大雑把な生い立ちとか、アウトライン的なことは調査できたが、それだけでは弱いと。僕はそれほど詳しくない、あまり話もしたことがないし、いきなりそんな話はとてもできないと言うと、それならセキュリティ仲間から聞けないか、と。僕はそれで、ジャスティンさんだけピンポイントで聞くと疑われるかもしれないので、既婚メンバーは今の奥さんと、どういう風にして結婚したのだろうな、と、ファーギーに話を振ってみたのです。そうしたら、彼は話してくれました。ジョージさんから聞いた話だが、と。それで、あなたのケースに興味を持ったフリをして、彼から詳しい話を聞きだしたのです」
「ああ、そうだったのか。パターソンから……」
とは言っても、ファーギー・パターソンを責める気はないが。彼はただ、話好きなのだろう。ジョージといろいろ話している間に出てきた話題の一つ、それだけに過ぎない。そして、ほかのことはすべて、相手が調査していたというわけか。実家の病院のこと、兄弟たちの職業、エアリィの就学状況なども。ただ彼の私小説作家と違って、それ以上突っ込んだ詳しい調査はしなかったのだろう。
マイクは硬い表情のまま、硬い口調で話を続けている。
「それと前後して、ステージの見取り図を教えて欲しいと言ってきました。見取り図といっても、会場によって違うと答えたら、シンシナティだけで良いと。会場入りは当日だし、見取り図は組み立て段階で広げるものだから、その頃には僕はまだ会場入りしていない、と言ったら、使えない奴だと。それなら、パイロスポットはどこにあるか、と聞いてきたんです。それで、パイロスポットはドラムライザーの後ろだと教えたら、それでは誘爆は無理だな、と」
「誘爆?」
「ええ。何か発火物を投げ込もうとか、そういうことだったかもしれませんが。それで、相手は言ったのです。シンシナティに着いたら、僕のホテルの部屋番号を教えろと。教えたら、しばらく後に物音がして、見たら、小さな包みがドアのところにかかっていました。そのあと電話がかかり、その包みの中を開けてはいけない。そのまま会場である男に渡してくれと。その男の目印も書いてありました。それで、そのとおりにしただけなんです。でも結局、何も起こりませんでした」
「そうなんだ。それで、それだけなのかい、君がやったことは?」
「まだあります……」
マイクはうつむき、少し小刻みに震えながら首を振った。
「あのニューヨークのホテルで、最初の晩に、あなたの部屋番号を教えてくれという電話がかかってきました。そしてその日はショウの前に何をしたのか、これからミーティングはあるのか。もしあるなら、席は決まっているのか、決まっているとしたら、どういう順番か、と。それから、当日朝の九時ごろでしたが、ミーティングが延期になって、あなたも部屋で休んでいるのというので僕も部屋にいたら、再び電話がかかってきたんです。今から僕の部屋のドアノブに、薬の袋を引っ掛けておく。今日のコンサートは理由があってどうしても流したいから、その薬をミーティングの時、アーディス・レインさんのコーヒーカップに落としてくれと。いや、僕には機会はないだろうと、その時は断りました。僕は伏せてあるカップをひっくりかえすだけですから。ああ、あの人の場合はカップとソーサーを左側に移動させもするから、もし注ぎ手がファーギーなら、なんとかごまかせるかもしれないけれど、それでも見つかるかもしれない。もし注ぎ手がレオナさんだったら、薬なんか落としたら確実に気づかれる、どっちに当たるかはその時次第だから、わからない。アーディスさん側のコーヒーを用意することになるかどうかも、わからない、と。『そうか、それでは不確実すぎるな。向こうも用心しているだろうしな』相手はしばらく黙り、『わかった。また後で連絡する』と、その電話は切れました。それから一時間ほどして、また電話が来たのです。ミーティングの時の全体の席配置の確認と、どういう風にコーヒーを注いで行くのか、砂糖とミルクの有無などを。そして、もう一つ聞かれました。『一応確認のために聞いておく。アーディス・レインは、左利きだったりしないだろうな』と。『ええ、あの人はそうですよ』と僕が答えると、『なぜ、そんな重要な情報を話さない!!』と怒られました。利き手がそんなに重要なことなのだろうか、と僕は思ったのですが」
「ああ……」
だが、相手には重要だったのだろう。妨害者たちはエアリィが左利きであることを知らなかったので(ギターやベース奏者なら一目瞭然だが、マイクをよく左手で持つくらいは右利きの人でもやることがあるから、わかりづらいのだろう)、彼のカップに薬を落とすのは簡単だと、僕に言ったのだろう。ミーティングの席順からして、右利きならカップは普通右側におくので、僕が左手をちょっと伸ばせば届く、と。
「それで、結局薬はどこに入っていたんだい?」僕は聞いた。
「砂糖だと思います。レオナさんが推理していた通り……」
「あの話を、君も聞いていたのか。寝ていると思っていたよ」
「目を閉じてはいましたが、あの時には起きていました。あなたが起きていて、話を聞いているのも知っていました」
「そうか……」
「十二時半を過ぎた頃に、また電話がかかってきたのです。ミーティングでは、何もしなくていい。ただ一つだけ、砂糖ポットに手を触れるな。特に奥側には、と。そして万が一ミーティングが何事もなく終わったら、気づかれないように奥の砂糖ポットをポケットにでも入れて回収し、スミスという従業員に渡してくれ。ミーティングのあと、その部屋に行っているはずだから、と。ポケットに入るような砂糖ポットなのかと僕は聞いたら、大丈夫だ、小さいからと。それで僕は承知する前に一応、念を押したんですよ。それは本当に一時的なものなのか、その晩だけはお流れになっても、明日になればちゃんと治るたぐいのものか、と。相手は大丈夫だと保証したんです」
「そうだったのか……」
「結局、騒動は起きたので、僕もそのままにして、部屋に帰ったのです。たしかに小さな金属製の平たい砂糖ポットでしたから、ポケットには入りそうでした」
「そうか。ああ、でも、レオナが砂糖ポットの中には二つしか砂糖がなかったと言っていたけれど、そうなると、どっちかが当たりを引くことになるから、何事もなくは考えにくいんじゃないかな。どういう意味だったんだろう」
「そうですね。はっきりとはわかりませんが……連中は万が一、と言っていたので、その時には砂糖を使わなかったとか、別のポットから取ったとか、そういうイレギュラーを考えていたのだと思います」
「ああ、そうか。それならわかるな」
僕は頷き、考えた。最初から二個とも毒入りを仕込まなかったのは、なかなかうまく細工ができなかったのか、レオナが先に飲んでしまって気づかれるのを避けたのか。それでも、二つの内一つと言うのは、かなり不確定要素はある。エアリィがたまたま二つのうち、当たりを引いてしまった。レオナが飛行機の中で言っていたように、トングの向きと砂糖の位置を考慮して、心理的に取りやすい位置にあったのだろうが、彼が当たりを引かなかったら、その次に取ったレオナに当たるだろう。
「なんて危ない橋を渡ったんだ」
思わず、そう声が出た。
「あいつらは、他人を巻き込むことなんて、なんとも思わないんだな。本当に、大変なことにならなくて良かった」
「そうですね。運悪く、アーディスさんは薬入りをとってしまいましたが、結果的には飲まなかった。それで本当に良かったと思いました。薬品で、火傷はさせてしまいましたが」
「ああ、エアリィがカップを落としたからね。夢の中で出てきた魔女がまた浮かんだ、と言って。あいつの土壇場でのカンは本当に鋭いなと、時々思うよ」
「そうですね。あの人のことはネイトやマネージメントの人や、大勢の人が守っていますが、それ以上に、何か目に見えない大きな力で守られているような、そんな感じがします」
「僕もそう思えるよ。今度のことにしても……」
頷きながら、ふと思った。もしかしたらエアリィは無意識に、あえて当たりを取ったのだろうか、と。彼は普段、非常に勘が鋭い。いくら心理的に取りやすい位置に毒入りがあったとしても、無造作に取るということは、なんとなくありそうもないような気がする。それに、彼はミルクと砂糖を入れて、かなり時間がたってからコーヒーを飲もうとした。飲む直前に入れると少し冷めるから、砂糖が溶けにくいというのもあっただろうが、でもわりと直前に入れていることの多いエアリィが、あの時はかなり前に取った。レオナは彼が入れるのを待って取った、と言っていたが、いつまでもは待っていないだろう。ランチを食べ始めた時点で、先にとって入れる。これまでのミーティングでも、そういうケースは多かった。だからあの時は、レオナに当たるのを防ぐために、あえて先に取ったのだろうか。自分が取らなかったら彼女が取って(確率は半分だが)、何も疑わずに飲んでしまうだろうから――いや、もちろん単なる偶然なのかもしれないが。
僕はため息をつき、首を振った。
「あの事件の真相は、そういうことだったのか。最初にレオナが、砂糖が怪しいと言うのを聞いた時には、またそんな推理小説みたいなことを、と、僕も思ったんだけれど、まさか、それが本当に正しかったとは……」
「レオナさんは鋭い人ですよ。あの時飛行機の中でこっそり話を聞いていて、僕は冷や汗が出ました。彼女の目を盗んで薬を落とすのは無理だと、最初に断って良かったと、ほっとしたくらいですから」
「ああ……」僕も頷き、さらに問いかけた。
「それで、君がやったのは、それだけかい?」
「いえ、次のツアーで連中に言われて、ロサンゼルス公演初日後の深夜、僕は会場まで戻り、アリーナにいた夜間警備員の交代を待って、男を三人中に入れました」
ホッブスはうなるように続けた。 「たぶん、みんなグルなんですよ、その警備員も。全員じゃないでしょうが、裏口のドアを、一人が勝手に開錠していましたから。僕はそいつらを無人のステージに案内し、すぐに帰りました。三日連続公演でしたから、セットは組んだままでした。その夜にたぶん、そいつらが照明装置のボルトを緩ませたんでしょう。次の日の午後に来た時には、そいつらは当然もういませんでした。その日の公演は何もなく終わったので安心していたのですが、その次で照明が落ちて……」
「ああ……そうだった」
「夕食のコーヒーの中に、アスピリンを入れたのも僕です。連中に言われて。今度は危険な薬品でないよう念押しし、では自分で持っているアスピリンを使えばいいと言われて。メーカーからポットに移す時に、錠剤を三つ落としました。アスピリンだから、別に他の人が飲んでも害はないし、いいだろうと。アーディスさんが薬品アレルギーだということは知っていましたが……カークランドさんやネイトがそのことで、いつもぴりぴりしていましたから。でも、蕁麻疹が出るくらいかな、いや、あの最初のコーヒー騒動の時にも、熱が出て点滴を打っていましたね。だから熱も多少は出るのかもしれないけれど、と。でもまさか、あそこまでひどい状態になるとは思いませんでした。あの人はみなさんにコーヒーを注いで渡して、最後に自分のものをついでいましたから、薬が濃かったのかもしれません。アナフィラキシー・ショックについては全然知らなかったわけではなかったですが、実際に見て、思わず震えました。とんでもないことをしてしまった、と」
「ああ……」
前作のツアー、最初の全米の終盤に起きた一連の事件を思い出し、僕はぼんやりと頷くしかなかった。
「あの時、連中は僕に薬を落とすだけでなく、カークランドさんがいつも持っているアドレナリン注射の中身を抜き取れ、とも命じたんです。アンプルを捨てろと。それは無理だと僕は答えました。ネイトなら可能かもしれないけれど、僕はチームAではなくJだから、そんな機会はないし、普段あの人がどこにそれをしまっているのかも知らない。バッグに触れる機会もない、と。そうしたら、そうだな、それはたしかにそうだ、それはこっちで何とかする、と言っていたのです。でもカークランドさんはいつも、あのバッグを持ち歩いていますから、連中も機会がなかったようで。それで、本当に良かったと思いました」
「そうか……連中は、そこまでやろうとしていたのか」
僕は再び軽い戦慄を感じ、頷いた。アナフィラキシー・ショックに対して、アドレナリン注射が迅速に行われなければ、ダメージはどんどん進行する。救急車が来て、病院に運んでからだと――アスピリンに対するアレルギーは、エアリィは幼少期に一度、起こしているらしい。あの小説に書いてあった。彼の母親アグレイアさんが、レーサーのカーディナル・リードさんと暮らしていたころ、二人の留守中、発熱した彼にシッターさんがアスピリンを飲ませ、救急車で搬送される騒ぎになったという。アスピリン混入は小説が出る数か月前なので、その事実を妨害者たちが知っていたかどうかはわからないが、二度目のアレルギーだと、症状は重篤化しがちになる。万が一進行が早くて、注射が間に合わなかったら――妨害者を寄せ付ける隙を作らなかったカークランドさんの職業意識に、感謝するしかない。
「本当は、いやだったんです。最初のコーヒー事件の時のあの薬品の強さを見て、連中は危険で信用ならないと思いました。僕は決してアーディスさん個人に対して、否定的な感情なんて持っていませんから。あの人はあのステータスにもかかわらず、僕にさえにこっと笑って挨拶してくださるし、本当に良い人で、それにこんなことを言っては怒られそうですが、可愛い人だなと思っているので。それなのに、火傷をさせたり、ライトを落としたり、アナフィラキシーまで起こさせてしまって、本当に後悔しか残りません。ネイトにこんなことを知られたら、殺されますよ。彼とは本当に良い友達なので、隠れて裏切りをするのは、ひどく辛いのです。それで最初のコーヒー事件の後、次に電話がかかってきた時に、もう手を引くと言ったのです。でも相手はマネージメント会社に、妨害工作に僕が関わったことをばらすと脅してきて。母の病気のこともあり、今の職を失いたくはなかったのです。でも、その『Eureka』ツアー最初の全米が終わった時、さすがにもう限界だと思いました。もうどうあっても続けることは出来ないと、次に連中が連絡してきた時、僕はきっぱり断りました。幸いそれ以降、相手もずっと沈黙していたので、僕は内心びくびくしながらも、ほっとしていたんです。僕も今の仕事をやめたくはありませんでしたから」
「そう……」
「でも、去年あなたが黙っていなくなってしまった時、僕は自分の行為の報いを受けたような気がしました。自分にやましい行為があったから、あなたに心から信頼してはもらえなかったんだと、そんな気もしたので、あなたのセキュリティをやめることになっても、仕方がないという気になったのです」
聞き終わってしばらく、僕は言葉を探せなかった。
「君が協力していた妨害者たちって、誰?」
やっと、それだけ聞いた。
「わかりません。ある業界の大物ということだけしか。名前も知らないんです。僕は、直接話をしたこともないし。電話ではいつも、その人の秘書とかいう中年の男でしたから」
「その男には、会ったことはあるのかい? 指示はいつも電話だけ? 謝礼の受け渡しなんかは、どうなっていたんだい? それがあるならだけれど」
「ええ。指示はいつも電話を通してです。謝礼は、一応ありました。一件につき、数百ドル程度ですが。いつもホテルの部屋のドアノブにかかった袋に、入っていました。封筒の中に。それも事前に電話があり、すぐに回収するよう言われました」
「相手は君の携帯電話にかけていたのかい? そうしたら、相手の番号が残っていたりはしないかい?」
「いえ、いつも非通知でしたから、番号はわからないのです」
「本当に? いや、疑うわけじゃないけれど……」
「ええ、本当です。信じてください」
「わかった。信じるよ。でも、それ以外に、何か知っていることはないかい。どんな細かいことでもいいから、教えて欲しいんだ」
「本当にお役に立ちそうなことは、何もないんです。すみません。いつも電話だけの指示でしたから。そう言えば、一度あなたたちに何か恨みでもあるのかって、聞いたことはあります。そうしたら相手が言うには、予定を狂わせたって。あなたたちの大ブレイクは全く予想外で、彼らにはコントロールできなかった。おかげで彼らの稼ぎ手であった人たちが、軒並みセールスが落ちてしまって、すっかり損害を被ったからって。『あんな常識を越えた、とんでもないモンスターの存在を許したら、音楽シーンはめちゃめちゃになる』と、言っていました。お役に立てるかどうかわかりませんが、僕の知っていることはそれだけなんです。本当に申しわけありませんでした」
「そう……」
僕の胸に一つだけ針が引っ掛かっていた。それを確かめたい。
「一昨年の秋、ディーン・セント・プレストンさんのセッションで僕が陥れられた時、君はかかわっていたの?」
「いいえ」彼は真剣な顔で、首を振った。
「そんなことをしたのがあの連中だとしても驚きはしませんが、僕は全然かかわっていません。神に誓って本当です」
「そうだよね。君は『Eureka』ツアー最初の全米から先は妨害から手を引いたって、さっき言っていたね。それに君は、あの時一緒じゃなかったし……」
そういえば、連中も言っていた。セキュリティが来なかったのは、幸いだったと。それは、もう彼が連中のコントロール外であったことを、はっきり示している。
「ええ。それにアーディスさんの部屋に発煙筒を投げ込んだのも、金属バット男を手引きしたのも、楽屋に変なプレゼントを持って行ったのも、僕ではないです。たぶんホテルの従業員とか、会場のスタッフとか、そういう中にもぐりこませているんだと思います。あの時のホテルのように」
「ああ。僕は君を信じるよ」
僕は頷き、相手をじっと見ながら、ゆっくりと尋ねた。
「君は、最初は僕らが憎らしかったと言っていたね。今でもそうかい? 君は、僕が君を嫌いなようだと気にしていたけれど、君自身は僕が嫌いなのかい?」
「いいえ、とんでもない! それに最初から憎んでるなんて、そんな強い悪感情ではなかったんです。ちょっと憎たらしいというか、単なる嫉妬なんですよ」
「だったら、僕は前言を撤回するつもりはないよ」
僕は立ち上がり、マイケルのそばまで行って、軽くその手に触れた。
「それに、今だったら、連中がまた何か言ってきても、きっぱり断れるだろう。だって、僕はもう知ってしまったんだから。君は仕事をするなら僕らと一緒が良いと、最初に言ってくれたじゃないか。それならば今でも、そしてこれからも、僕の専属セキュリティでいて欲しいと思っているよ」
「ジャスティンさん……」
マイクは声を詰まらせ、僕を見た。
「いいんですか。僕なんかで。僕はあなたがたに、ずいぶんひどいことをしたんですよ。それでも、許してくれるって言うんですか?」
「ああ。僕は君に恨みなんて持っちゃいない。少しはショックだったけれど、詳しい事情がわかったから、君を責めようとは思わない。エアリィだって、たぶんそうだよ。あいつは人に恨みを持つ奴じゃないしね。ミックもロビンも、それにジョージだって、わかってくれると思う。ああ、でも僕からみんなには言わないよ。その判断は、ロブに任せる。ロブには、話しておかないといけないと思うから。連中が万が一君をまた脅迫しようとしても、大丈夫なようにね。ロブもきっとわかってくれるよ。それに万が一マネージメントが渋ったとしても、僕が絶対君をやめさせないよ。危ない仕事には違いないから、絶対辞めないでくれなんて強制はできないけれど、もし君がこれまで通り続けてくれたら、僕もとてもうれしいんだ」
彼はしばらく無言で、じっと僕の顔を見つめていたが、やがて痛いくらいにぎゅっと手を握って、頷いた。驚いたことに、ぼろぼろと涙を流している。
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
まさかこの大男が泣くとは思わなかったので、僕はいささか面食らい、何と言葉をかけていいかわからなかった。それで返事のかわりに、相手の背中を軽く叩いた。この時、仕事中ではもっとも身近にいる彼に、僕は真の好感を抱くことができたのだった。
部屋を出てリビングスペースに入ると、ジョン、ローラ、チャールズ、アニーの四人がそろってテーブルに座り、お茶を飲んでいた。どうやら兄の言いつけを守って、ずっとここにいたらしい。
「ジャスティンさーん。お帰りになる前に、こちらで、ぜひ、あたしたちと一緒にお茶を飲んでいってくださーい! お願いします!」
僕の顔を見るなり、ローラが立ちあがって、素っ頓狂な声を上げた。
「ローラ! ジャスティンさんはもう僕の部屋で、お茶は飲んでもらったんだ。煩わせるんじゃない! 忙しい人なんだからな」
「ああ、でもいいよ、マイク。帰りの飛行機は八時なんだ。まだ時間がある。ここでみなさんと一緒に、もう一杯お茶をいただいても、僕はちっともかまわないよ」
ローラとチャールズは同時に「うわぁ!」と嬌声を上げ、ガタガタと椅子を直して、一人分のスペースを開けた。そこにジョンが、予備のものらしい椅子を持ってきた。アニーもにこっと笑って立ちあがり、カップを持ってきている。ポットの中に新しい葉っぱを入れ、わざわざお茶をいれなおしてくれた。そしてにこりと笑って、僕の前に差し出す。僕も微笑して受け取ると、用意してくれた予備の椅子に腰掛け、二杯目の紅茶を飲み、二個目のビスケットをつまんだ。
「ただし、おまえたち、プライベートな質問や音楽記者のインタビューのようなまねはするなよ。サインや握手も禁止だからな」
マイケルが言うと、ローラとチャールズは「ええ?!」と、がっかりしたような声を上げる。
「いいよ。少なくとも、握手やサインぐらいなら」僕は苦笑した。
「やった!」
二人は同時に声を上げ、立ち上がって部屋を出ていった。それぞれ自分たちの部屋へ飛びこんでいったようで、すぐに二人ともスケッチブックを抱えて戻ってきた。
「友達にもあげたいんで、四枚くださいませんか、サイン。名前をつけてくれたらうれしいんですけれど」
ローラがまずスケッチブックとペンを差し出した。
「いいよ、名前は? 君はローラだよね。あとの三人は?」
「ジェーンとミリセント、それにエリザベスです」
「わかった」僕はペンを受けとり、四枚のサインを書いた。
「すみません、俺も!」
ローラの分が終わるや否や、チャールズがスケッチブックを突き出す。
「俺は五枚。バンドの連中に持っていってやりたいんです」
「いいよ」
僕はチャールズのスケッチブックにもペンを走らせた。
「おまえたち、いいかげんにしろ!」
マイケルがため息混じりに、そう怒鳴っている。
「すみません。申し訳ないんですが、僕にもお願いします」
ジョンまでがスケッチブックを持ってきたので、僕は思わず苦笑し、マイクはあきれはてたという顔だ。
「本当にすみません。でも大学にも多いのですよ、あなたがたのファンが。とくに親友のピーターと、ガールフレンドのケリーには、ぜひ持っていってあげたいのです」
「わかった。君の分と三枚だね」
僕は笑って、再びペンを走らせる。
「握手は帰り際でいいかい?」
「はい」
ローラとジョンは頷いたが、チャールズはつと進み出て、僕の手を取ろうとする。
「すみません、ちょっと触らせてください。うわあ、感激だア! これがエアレースのジャスティン・ローリングスの手なんだア! ギターの天才の手なんだア!」などと叫びながら、僕の右手を取り、さわりまくっている。
「こら、チャーリー! いいかげんにしろ! だいたいおまえ、さんが抜けている。呼び捨てにするなんて失礼だぞ!」
マイクとジョンがあきれたように、同時にいさめていた。
「別にいいけれど、それは……」
僕は面映くてしかたがない。やっとチャールズが渋々ながら手を放してくれたので、僕はいくぶんほっとして少年に向き直った。
「そういえば君も、バンドでギターを弾いているって言っていたよね。学校で?」
「はい。一年前に結成したんですが、バンド名は『Little Vigilantes』と言うんです」
「あれ、それはひょっとして……」
「そうです。あなた方のファーストアルバムの曲から取ったんですよ! あれって、アルバムタイトルと一部かぶりですから、あれと、それから『A Spirit in Calling』とのあわせ技ですよね。ファーストアルバムのタイトルって」
「まあ、そうだね。両方あわせてだから、二つとも実質上のタイトルトラックだよ」
「非公式フォーラム最大手も、同じ名前ですけどね。Little Vigilantes通称LV」
ローラがお茶を飲みながら、口をはさんできた。
「ああ。そうらしいね。僕は見ていないけれど」
「あそこは結構、公式にない裏情報があって、便利なんですよ。名所マップとかストーカー情報とか。ストーカー情報は一つ間違うと危ないから、会員でなおかつ完全に素性がわかってないと、そのセクションには入れませんが」
チャールズは肩をすくめて、そんな説明をしている。
ああ、ニコレットが言っていた名所マップとは、このことか――非公式ファンサイトの活動に、あまり口は挟みたくはないが、思わず肩をすくめたくなった。
「そうなんだ。まあ、非公式は僕らの管轄外だから、なんとも言えないけれど。君たちのバンドも僕らの曲名からだと、もしかしたら、僕らのトリビュートバンドなのかい?」
「ええ。あまりレパートリーは多くないですけれど、この名前を名乗るからには、そうです。そうでなければ、客に殴られますよ」
「あのレベルでトリビュートというには、おこがましいと思いますがね。逆にそれで客に殴られると思いますよ」
ジョンが苦笑しながら、そう付け加えている。
「『Eureka』よりは、ましだと思うけどなぁ。いや、三年にそんな名前のバンドがいるんですよ。へったくそなトリビュートバンドで。まったく、おこがましいたらありゃしない。あのアルバムは神なんだから。CftLやVIもそうですが……名前変えろと言いたいです」
「あんたが言える義理じゃないと思うわ、チャーリー」 ローラが肩をすくめ、
「でも本当に、そう思わないか?」と、チャールズは真面目な顔で言う。
「まあ、でも高校生たちが僕たちの曲をやってくれるのは、嬉しいよ。僕らも最初はSwifterのコピーをやっていたんだ。でも、プロを目指すならコピーだけでなく、オリジナルにも挑戦したほうが良いね。僕らは結成して三ヶ月目くらいから、オリジナル曲を作り始めたんだ」
「そうですね。オリジナル……作りたいです。でも、あなた方の曲をやっていると、オリジナルとか、とたんにつまらなくなってしまって」
そう言うチャールズに「わかるわぁ」と、ローラが相槌を打つ。
「それにしても、AirLaceって凄いなぁって思います。結成したのって、ジャスティンさんロビンさん十六の時で、ハイスクール卒業から四か月でメジャーデビューって。しかもあなたがたってみんな頭が良くて、十七でハイスクールを出ていて、エアリィ、いえ、アーディス・レインさんに至っては、十四の誕生日前に卒業してて……若いですよねぇ、デビュー。チャーリーやあたしくらいの年には、もうプロだし」
「十七だったんですよね。ジャスティンさんのデビューは。俺と同い年だ。アーディスさんは十四で、それで俺より一こ下の年であの神アルバム『Childeren for the Light』を作ってて、大ブレイクしているわけだから」
「まあ、エアリィはいろいろな意味で、規格外だからね」僕は苦笑した。
「でも……そう、僕らは結成してからデビューまでは早かったけれど、アマチュアバンド時代がなかったわけじゃないよ。ハイスクールのギグにも時々出たしね。君たちのバンドは、君のほかのメンバーはどういう感じなんだい?」
「ドラマーとキーボーディストは年上の三年生で、ベースのボビーと僕が同級生なんです。なんとなくあなたがたと似ているでしょう?」
「偶然、偶然」
相変わらずローラは水を差すのが好きだ。
「でも惜しいかな、ヴォーカルは年下じゃないんです。僕らと同じ学年ですけれどね。フィーナという女の子で……」
「へえ、女性ヴォーカル?」
それだと、編成は完全に同じとは言い難いが――。
「いや、男も探したんですが、いないんですよ。あそこまでハイトーンの出る奴が。あれ、無理ですよ。フィーナだって結構うまい方なんですが、ものによっては出ませんから。それに男のハイトーンより、上手い女の子の方がイメージに近くて。だいたいエアレースのコピーやってるバンドって、シンガーは女の方が多いですよ」
「そう……?」
僕は思わず苦笑した。エアリィも聞いたら、絶対に苦笑するだろうな、とも思う。たしかに、『ええ! エアリィって女の子じゃないの!?』などと、今も昔も本気で驚く人は多いのだが、コピーバンドまで、女性主流だなんて。たしかに彼の音域は高くて広いから、なかなか男には難しいとは思うが。
「でも僕に言わせれば、女性でもやっぱりちょっと、ニュアンスが違うね。男よりは近いというだけで。実力は桁外れだから置いておくとしても、アーディス・レインさんという人は、そういう点でも唯一無二の人じゃないですか? 男でも女でも出し得ない感触、両性的でもあり、中性的でもある。それは、ファーストアルバムの頃からそうでしたよ。あの人はルックスもそうですしね」
ジョンが考えこむように、そんな感想を述べている。
「それは正解だね、たしかに。君は鋭いね、ジョン」 僕は思わず頷いた。
「三人の中で一番ミーハー的でなくエアレースを聴いているのが、ジョンですからね」
マイケルが弟にかわって、ちょっと肩をすくめながら言う。
「僕だって、ミーハー的に聴いているわけじゃないですよ。ローラは知りませんが。でもジョンみたいに頭が良くないから、冷静に分析することができないだけです。エアレースのトリビュートをやろうと思ったら、ヴォーカルの人選にはえっらく苦労するって言うことで、痛感してますから。しかも仮に力量があっても、ブサだと客に殴られるし。本当、やばいですよ」
チャールズはちょっと頬を膨らませた。そして思い出したように、と言うより、前から機会を待ち焦がれていたような調子で、言葉を継いだ。
「そうだ、ジャスティンさん。僕のギターで『Morning after Dark』のギターソロを弾いてくださるっておっしゃってくださいましたよね! お願いですから、一度本物を聴かせてください。ああ、その前に僕が一度弾いてみますから、どこを注意すればいいのか、教えてくださいませんか」
「ああ、いいよ」僕が頷くと、
「じゃ、すみませんが俺の部屋に来てください!」
チャールズが手を取り、引っ張った。
チャールズの部屋はマイクとジョンの隣だったが、彼らの部屋の半分以下の広さしかなく、さらにニコレットの部屋のように、壁に目一杯ポスターが張ってある。部屋の真ん中に安っぽい小さなアンプと、同じく安物の赤いギターが置いてある。それでも少年がアルバイトでもして、一生懸命お金をためて買ったもの、精一杯の犠牲を払って買った宝物だということは理解できたし、チャールズ自身もそう言っていた。
少年はストラップを肩にかけ、チューニングを直してから、弾き出した。僕らの最新アルバムからのナンバー、『Morning after Dark』インストの難易度は中程度といったところだが、その曲の中間、三二小節のギターソロを、その部分だけ取り出して弾いている。
うん──新作は完全再演だから、この曲もランニングリストに入っている。何度となく弾いているので、頭の中にすべてのノートが叩きこまれているから、よけいにはっきりとわかる。他の音が何もない状態で弾いているのに、テンポがあっているというのは、よほど繰り返し弾きこんで、チャールズ少年の頭の中にも、すべてのフレーズが叩きこまれているのだろう。技術的には、まだまだ未熟だし荒削りだ。でもこれから磨きこめば、いいものを持っているかもしれない。そう感じさせてくれるプレイでもあった。失礼ながら、予想よりは、よほど良かったと言える。
「はっきり言って、技術的にはまだまだだけれど、いいものを持っている。練習次第で、プロになれる素養を身につけられるかもしれないよ」
「本当ですか!」
チャールズは目を輝かせ、頬を真っ赤にして、飛びあがらんばかりだった。
「ああ、僕はお世辞なんか言わないよ。見こみがないなら、はっきり下手とはさすがに言えないけれど、楽しんでプレイすることが大切だとか、がんばったことがいい思い出になるとか、そう言うさ。練習には、ちゃんとヘッドフォンを使っているかい?」
「ええ、いつも練習の時には使っていますよ。お袋がずっと具合が悪かったし、ローラやジョンはうるさいと文句を言うから。わあ、でも夢みたいだなあ! まさかジャスティンさんに認めてもらえるなんて、思ってもみなかった。ねえ! 僕をあなたの弟子にしてくださいませんか! お願いします! ローディの見習いでも、なんでもやりますから!」
「こら、チャーリー。無理なことを言うんじゃない。ジャスティンさんの専属には、ジミー・ウェルトフォードさんというクルーが、ちゃんといるんだ。おまえのような青二才じゃない、本当にちゃんと弾ける人なんだぞ。それにギターのことにも詳しい。ローディをやるには、知識も必要なんだ。おまえには無理だ」
「だから、僕はその人の見習いをやるから……お願いしますよ、ジャスティンさん! お給料なんて、要りませんから! どんなことでもしますから!」
チャールズは必死の表情を浮かべて、僕に取りすがってくる。思わぬ展開に、僕はすっかり困惑した。
「あのね、チャールズ、ごめんよ。僕はまだ人に教えられる自信はないし、ローディを二人抱えることも、考えていないんだ。ジミーの立場も尊重したいしね。僕らはあまりスタッフの人数が増えることを、歓迎していない。あまり大人数になると、全体の把握ができにくくなるからね。それに、君はまだ若い。そうだな……あと三年バンドでがんばって、それでも今と同じ気持ちなら、そして君がその時に今より進歩して、ギターや機材のことにもある程度知識を持っていたら……それから、ロードは体力も必要だから、十分な体力を身につけられたら、もう一度考えてみよう」
「わかりました。三年、がんばるんですね」
少年は真剣な面持ちで頷いている。
「ああ、でも本当に夢みたいだ。あのジャスティン・ローリングスさんが俺の部屋に来ていて、俺のプレイを評価してくれたなんて」
「そうよねえ。だいたいマイク兄さんは、あんな夢のような職業についているのに……友達もクラスメートも、みんなうらやましがって、サインが欲しいとかコンサートのチケットを回してくれなんて言ってくるんだけれど、兄さんは頼みを聞いてくれないのよ。職権乱用だ、自分にはそんな権限はない、とか言って。バンドの裏話とか、プライベートな話も、話してはくれないし。それは外には話さない決まりだからって。だからクラスのみんなにも嘘だろう、なんて信用されなくなってきていたんだけれど、ああ、こうしてサインを持っていけたら、きっと信用してくれるわ」
ローラは両手を握り合わせ、ため息をついていた。
「本当かい? じゃあ、もしかして君たち自身も、僕らのコンサートは見ていないの?」
「ええ。マイク兄はクルーの割り当てチケットはないからと取ってくれませんし、まともに買おうとすると、あなたがたのコンサートチケットは、本当に取るのが大変なんですよ。インターネットのエントリーはなかなかつながらないし、もたもたしているうちに、あっという間に売り切れてしまって。セカンドマーケットは、それほど数がない上に、恐ろしい値段になりますしね。だから、いつもDVDや動画サイトで我慢しています」
ジョンが肩をすくめて答えている。
「おまけに、うちにパソコン買ったのも最近なんで、それにスマートフォンもないし、結局、誰も見ていないんですよね、俺たち。バンドの連中も見れたのは、ボブとフィーナだけなんです。『Eureka』ツアーの全米第二レッグなんですが。初めてのAn Evening with形式で、邪魔な前座がいないっていうんで、いつも以上に気合を入れて、学校サボって、プレセールが始まる十時前から必死でパソコンに張りついていたって、二人とも言っていましたよ。あれは運がなきゃ、取れないとも。どうして俺の分まで取ってくれなかったんだって、二人を殴りたくなりましたがね。最初は二人とも三枚でやってくれたらしいんですが、つながらないし、つながっても空きなしとでる。で、フィーナが焦って、二枚ならどうだ、と叩き込んだら、天井席だけど出てきたんで、この機会を逃したら取れないと思って決定してしまった。それ以降はシングルでも出なくて、十時半前にはソールドアウトと出てしまったと。一般発売にもう一度挑戦してみたけれど、こっちはそれこそあっという間で、つながらないうちにソールドで。それで、しぶしぶあきらめたんです。ケヴィンとジムは――あ、ドラムとキーボードですけど、両方とも玉砕したんで、そっちに頼むことも出来ずで。ボブとフィーナが言うには、席は遠かったけど、本当に感激のぶっ飛びライヴだったって──あっ、俗っぽい言葉ですみません。ライヴDVDもいいけれど、エアレースのファンたるもの、ライヴを見ないでは話にならない、なんてあの二人は言うんです。でも去年の全米は全員が取れなかったから、本当にがっかりして。シカゴはスタジアムにキャパ上げした分、楽になるかなと思ったら、全然で。最新アルバム完全再演、絶対に観たいんで、もしツアーが再開したら、たとえどれだけ苦労しようと、今度こそはコンサートを見に行くぞ、とバンド全員で言っているところなんですよ」
チャーリーが力のこもった口調でそうまくしたて、
「あたしもジェーンやリズたちと、そう言っているわ。今度こそ、なにがなんでも見てやるって。プリセールの日にみんなで学校サボって、いっせいにパソコンとスマートフォンでエントリーしたら、どれかが引っかかるかもって。そう言いながら、今まで取れなかったけれど、今年はあたしも挑戦できるわ。ということでチャーリー、パソコンはあたしが使うから」 ローラが弟にそう宣言している。
「えー! 俺はどうなるんだ! 俺だって使うぞ」
「あんたは一般でがんばりなさい。さもなきゃ、ネットカフェがあるわ」
「無理言うなよ。一般はプリセール以上の激戦なんだぞ。それにネットカフェなんて、どこも満員だよ、その日は」
「そうなのよねぇ。シカゴ公演のチケット売り出しの日って、平日にあたったら学校みんなサボるから、三時間目くらいまで、教室はガラガラ状態になるし。先生が『休日にやってくれんものかな』って、ぼやいていたわ。あたしだって家にパソコンがあったら、学校なんて行ってないのに、って去年までは思っていたけれど。掲示板を見ていると、一つのツアーで十回以上行っている人たちもいるし、運がよければ取れるはず。もし運悪く取れなくても、セカンドマーケッにトライして。だからがんばってアルバイトして、お金ためなきゃ」
「へえ、そうなんだ……」
苦笑し、頷きながら、僕は考えた。そうだ。もしできれば──。
「いいよ。じゃあ君たちは、僕が呼んであげよう。もし活動が再開できたら、キャンセルされた分を、逆順に回ることになっているんだ。最初に北米を回る予定だから、シカゴに来たら、君たち全員とチャールズのバンドメイトたち、それからローラの親友さんたちにゲストチケットを上げるよ。僕のゲストとして」
ローラとチャールズはぽかんとしたような顔になり、その意味が分かると、「うわぁ!」と歓声を上げた。ジョンも驚いたように小さな声を上げ、アニーは一層にこにこしている。
「本当に! 嘘じゃなくて!」
ローラとチャールズが、せき込むように同時にきいてくる。
「ああ。それに。もし人数に余裕が持てたら、ジョンのガールフレンドさんと親友さんも呼べると思う」
「いいんですか、ジャスティンさん?」
マイケルがちょっと心配そうに口を出した。
「そうだなあ……うん、大丈夫じゃないかな。だいたいどこもフロアのPA卓後ろがゲスト用席で、十五席くらい押さえてあるんだ。それで、ゲストが揃わなければ公演の二、三日前に、一般リリースされるんだよ。シカゴには、他のメンバーのゲストはいないはずだから。実際、ゲストが来るのはトロントとニューイングランド、たまにニューヨーク、それにロンドン、このくらいしか普通はないんだ。プレスや関係者席は別にあるし。だから、大丈夫だと思う。ジョンたちも入れて、全部で十三人か。ちょっと数は悪いけれど、行けるよ。バックステージパスも、今回だけ特別に付けてあげよう。メンバーと関係者専用ゾーンには入れない奴だけれどね。でもマイクが呼びに来てくれたら、僕は会いに行けるし、もし希望なら他のメンバーにも会わせてあげるよ」
「ええ、本当に! じゃあ、アーディス・レインさんに、ぜひお会いしたいです!!」
ローラとチャールズが同時に叫ぶ。やはりそうきたか。僕は苦笑し、頷いた。
「ああ、会いたいなら、彼もきっと来てくれると思うよ」
「うあぉ、フィーナなんか、会ったら感激して卒倒するぞ!」 チャールズがそう叫び、
「あたしも倒れるかもしれないわ……」
ローラも胸の前に手を組み合わせながら呟く。
「おまえたちはなあ、頼むからそんなに興奮して騒ぐな。みっともない。ジャスティンさんが好意でコンサートに呼んでくれると仰っているんだから、もし本当に呼ばれたとしてもお行儀良くして、みっともないまねはしないでくれよ。僕が恥ずかしい」
マイクは少し頬を紅潮させながら、苦笑を浮かべて弟妹たちを見ていた。
「でも、本気にしてもいいんですか、ジャスティンさん」
ジョンも頬をこころもち染めながら、身を乗り出してきた。 「当てにしていてもいいんですか? ツアーが再開したら、僕らは兄にせっつくかもしれませんよ」
「当てにしていていいよ、本当にね。だから無事活動再開できるよう、君たちも祈っていてくれないか」
僕は極力軽い調子で笑って言ったが、彼らは全員、「はい! もちろん! それはいつも祈っています! 『祈りの本』にも、何度も書き込みましたし!」と、大真面目な表情で、頷いている。
「ありがとう」僕は苦笑し、時計を見た。
「ああ、もう五時半か。そろそろ空港に行かないと。楽しかったよ、みんなと会えて」
「ええ、もう帰ってしまうんですか?」
ローラとチャーリーが同時に声を上げる。
「しかたがないだろう。八時二十分発のトロント行きで、帰られる予定なんだから。ジャスティンさんは今オフで、トロントには奥さんとお子さんが待っていらっしゃるんだ。それなのに、わざわざこんなところまで僕に会いに来てくれたのだし、おまえたちのたわいない、うるさいおしゃべりの相手もしてくれたんだからな。これ以上、煩わせるんじゃない」 マイケルは、ちょっと顔をしかめている。
「兄さん、ジャスティンさんを送っていくの? トロントまで」 ローラがきいていた。
「ああ。明日はトロントへ行かなければならないって言っただろう。マネージメントでホテルを手配してくれているはずだから、今晩は向こうに泊まって、明日帰る」
「いいなあ、兄さんは……」
チャールズがため息交じりに、声を上げた。
「あのエアレースのクルーなんだよな、マイク兄さんは。本当に凄いよ。あの人たちと毎日会っていて、コンサートも見ていて……ああ、兄さんコンサートは、ほとんど見られないって言っていたなあ。バックステージエリアに異常がないかどうか、巡回していることが多いって。それだけだよな、兄さんが仕事の話してくれたのって。だから、友達に自慢はしていても、実感が湧かなかったんだ。でもこうして、現にジャスティンさんが来てくれて……やっぱり本当なんだなあ。僕も将来、クルーになりたいなあ、絶対」
「ホント、うらやましい」ローラもため息をついている。
「あっ、ジャスティンさん! 忘れていませんか! 僕のギターで『Morning〜』を弾いてくれる約束!」
チャールズがふと思い出したように声を上げた。
「ああ、そうだった!」
危うく忘れるところだった。僕はチャールズの部屋に引きかえし、少年のギターを取り上げた。そして軽くチューニングを直し、アンプを調整して弾いた。『Morning after Dark』のギターソロに、少しアドリブをつけて。
「すげえ! 音が全然違う! 鳥肌もんだ!」
チャールズ少年は息を飲んだように言い、
「うわぁ──」
ローラとジョンは声を上げ、あとはじっと見ている。
「こんなものでいいかな。ちょっとやっぱり感触が違うから、百パーセントの出来とは言いがたいけれど」
僕はなんとなく照れくささを感じながら、ギターを元のところに置いた。そしてポケットを探り、いつも使っているピックを一枚、少年の手に落とした。
「あげるよ。君もがんばって、たくさん練習するといい、チャーリー」
「あっ、ありがとうございます! うわぁ、これ、ネームが入ってる! 俺、一生の宝物にします!」
少年は感極まったような声を出した。その熱心さには、こっちの方が照れくさくなってしまうほどだ。
帰り際、僕は彼ら全員と固く握手し、再会を約束してホッブス家を出た。タクシーで空港へ向かう道すがら、凍てついた空気を通して星がよく見えた。マイケルはトロントまで同行し、マネージメントが用意したホテルに一泊することになる。僕は彼に送ってもらって、自宅へと帰った。
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