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夕暮れは、夜へのプレリュード
秋の実りは、天の贈り物
冬が来る前に
あれは夢だったのだろうか。僕らは、長い奇妙な夢を見ただけなのだろうか。正常な時間、あるべき世界に戻った今は、そんな思いも感じる。でも僕らは結局、ニューヨークへもボストンへも行けなかった。僕が十四歳の時に小遣いをはたいて買った赤いギターも、なくなってしまった。今あるのは、ファーストアルバムの制作直前に買った白いギター、同じモデルの色違いだ。アンプやエフェクター類は、同じくファーストアルバム制作時に、以前のものの上位機種を買ったが、なくなってしまった。それで、同じものをもう一度買いなおすことになった。でも初めての全米ツアー最後の二公演に同行できなかったのも、愛用のギター、それにアンプやエフェクターがなくなってしまったのも、故障したと思って路肩に停めたワゴン車を、誰かに乗り逃げされたからじゃない。そんな記憶は、いくら頭の中を探っても見つからない。かわりに出てくるのは、あの未来世界。
僕は現代に戻ってきた。この時代に帰還し、小さな円の完結を見届けた僕らは、ようやく本来の自分になることができた。それから二週間後、僕らはある上位シアタークラスのバンドのサポートとして、二度目の全米ツアーに行き、二六回の公演を終えたところで、クリスマス‐新年休暇でツアーは中休みを迎えた。僕らも休暇を過ごすために、それぞれの実家に戻っていったのだった。
僕も五月の終わりに家を飛び出した後、置いてきた洋服や小物を妹ジョイスに頼んで時々持ってきてもらっていたけれど、ファーストアルバムのレコーディングが一段落した九月の初めに『もう大丈夫よ、絶対。みんなお兄ちゃんがいなくて寂しがっているから、早く戻ってきて』と、妹に背中を押され、三ヶ月ぶりに実家の玄関に足を踏み入れていた。そこで改めて、両親に詫びた。『本当に、父さん母さんの期待を裏切ってしまって、ごめんなさい。許してください』と。
それに対し、母は少し寂しげな笑みを浮かべながら、『仕方がないわね……でも、身体には気をつけるのよ、ジャスティン』と答え、父の方は咳払いを一つして、『本当に、おまえにはがっかりした』と、吐き捨てるように言って横を向いた後、しばらくの間をおいて、ボソッと呟いた。『だが、ここがおまえの家であることには、変わりない』と。家政婦のホプキンスさんがその後ろで『本当に心配したんですよ、坊ちゃん』と、すすり泣いていたので、僕は彼女のところへも行き、手を取って同じ謝罪をした。それ以来、普通に家に帰れるようになった。
大理石づくりのマントルピースに炎が燃え、レースで縁取りをした真っ白なテーブルクロスがかかった食卓には、温室咲きの赤いバラと常緑樹の葉で飾ったクリスマスのご馳走。暖炉の横には、大きなクリスマス・ツリー。いつもの聖夜だ。父と母、兄と姉、妹、僕、それにホプキンスさん。僕が子供の頃は、母方の祖父母も一緒だった。でも、まず祖父が、ついで祖母がいなくなった。少しずつ両親は年をとり、子供たちは大きくなっていくけれど、テーブルにつく顔ぶれはそれほど変わらない。何回か父方の祖父や親戚が招待されてきたほかは、家族だけの聖夜。まだサンタクロースを信じていた子供の頃には、クリスマスの朝に靴下の中のプレゼントという、おまけもあった。
三年前、パーティに初めて新来者が加わった。当時、兄のガールフレンドだった女性だ。エセルさんという名前で、栗色の巻き毛を肩に垂らした、くるくると動く茶色い目が印象的な女性だった。はっきりとした顔立ちの美人で、よく気がつき、明るい女性。でも、少々愛想が良すぎる人だ。そんなことを思った記憶がある。初めて恋人を紹介した時の兄の顔を、僕は良く覚えている。少し照れたような表情で、でもとても誇らしげだったことを。僕はもともとの人見知りに加え、『あら〜、弟さんハンサムね〜』などと言われて、どう返答していいか戸惑ったものだった。
次の年も、彼女はやってきた。でも、去年は来なかった。秋に二人は別れてしまったという。どんな理由だったのか、僕は知らない。兄は何も話さなかったし、僕もあえて聞かなかった。そのクリスマス、兄はいつになく饒舌でよく笑った。母や姉は、そんな兄を見て『かわいそうに』とひそかにささやきかわし、事情を良く知らない新来の牧師は、少し眉をひそめていた。黒い髪に眼鏡をかけた、その実直そうな若い牧師は姉の恋人だ。彼は礼儀正しく僕たちに挨拶をし、熱心に祈り、食事はせずに帰っていった。これから教会の礼拝があるのだと言って。
今年は七人。父、母、兄のジョセフと、姉のジョアンナ。妹のジョイス、僕、それにホプキンスさん。姉の恋人は地方の巡回礼拝に出かけていて、今年は来なかった。二人は、秋に婚約していて、来年の春に結婚式を挙げるらしい。
僕はこのパーティに、ガールフレンドのステラを呼びたかった。もし彼女が承諾してくれたら、僕の大切な人として家族に紹介したかった。でも、ステラに僕の家のパーティに来る意志はないようだ。彼女の家でも昔ながらのクリスマスを、家族水いらずで祝う習慣らしい。両親とステラの、三人だけの聖夜。新しいメンバーは彼女の婚約者と認められた人でなければならない、厳然とした宴だという。
二日ほど前に会った時、ステラは甘えを含んだ声で言った。
「本当はね、あなたと一緒にクリスマスを過ごしたかったの、ジャスティン。でも、そうしたらパパとママに、まだあなたとつき合っていることが、わかってしまうわ。だから、だめなの。ごめんなさいね」
ステラの両親には、僕たちの交際は許されていない。医者になる道を捨てて、プロのロックミュージシャンの世界へ飛び込んだ時、僕は彼女の両親の信頼を勝ち得る機会を、永遠に失ったのかもしれない。
宴が終わりに近付いたころ、隣に座ったジョイスが、何気ない調子できいてきた。
「ステラさん、来なかったのね。今年は呼びたいって、お兄ちゃん言っていたじゃない」
「うん。そのつもりだったんだけどね。自分の家でお祝いをするんだって」
僕はそれだけ答えた。そんなに大したことはないようなふりをして。
「ふうん、そう。まあ、あたしには別に関係ないけれど。でも、あたしにもし本当に好きなボーイフレンドができたら、いくらお父さんやお母さんが反対したって、断固戦うわね」
妹はそれほど深く考えずに言ったのだろうが、僕には痛い言葉だ。
「だが、おまえに戦うようなボーイフレンドがいるのかい、ジョイ。おまえも十六になったんだろう。いつまでもジャスティンにくっついていないで、早く彼氏を作れよ」
ジョセフのからかっているような口調に、ジョイスはむっとしたように言い返す。
「失礼ねえ。友達ならいるわよ。あたしだって、もてないわけじゃないんだから。本当に好きな人が、まだ現れないだけ。だいたいジョセフ兄さんがそんなこと言えるの? 今年は新しいガールフレンドさんに会えると思っていたのに」
「こりゃ一本とられたな! 悪かったよ、赤ちゃん!」
「もう! 赤ちゃんなんて言うのはやめて! ひどいわ、ジョセフ兄さんったら。あたしだって、もう十六なんだから!」
「でも、わたしからみても、あなたはまだ赤ちゃんのようなものよ、ジョイス」
母が穏やかに微笑みながら、口を挟んだ。
「あなたは、末っ子だから。そうよね。あなたとジャスティンは、一家の赤ん坊のようなものだったのよ。あなたたちは年子だし、上の二人とも少し年齢があいているから、みんなでかわいがってきたの。でも、ジャスティンは思いがけず早く、わたしたちの手を離れてしまった。だから、いつまでもあなたには赤ちゃんでいてもらいたいわ、ジョイス。できるだけ長く、わたしたちの手元に置いておきたいの」
「おほん!」父が小さく咳払いした。
「そういえば、ジャスティン。おまえたちのバンドって、ずいぶん出足がいいらしいな。新人にしちゃ、好調だってきいたぞ」
ジョセフが思い出したようにきく。
「ああ。国内チャートではベスト10に入ったし、ビルボードでもTOP20に入ったんだ。シングルも十六位まで上がってきたし、今度のツアーが終わったら、二月から別のバンドのサポートをやる予定なんだ」
「すごいのねえ」
ジョイスが感嘆したような声を出した。
「おほん!」父がもう一度、大きく咳払いした。
ミュージシャンとしての僕は、やはりまだ父には不愉快な話題なのだろう。僕はほんの少し肩をすくめ、兄妹たちと苦笑を交わした。兄が他の話を始め、みながそれに続いた。
雪が降っている。家族でクリスマスを祝った翌日の朝、僕は実家の元の部屋――僕が家を出た後もきれいに整えられている自室の窓枠にもたれ、ぼんやりと外を見ていた。一年が、もうすぐ終わろうとしている。十一月から続いて、いったん休暇で中断されたツアーも、年が明ければすぐに再開する。それが一月末に終わると、十二日のインターバルをおいて、もう次のツアーが四月の下旬まで組まれていた。デビューアルバムの売り上げが好調なこともあり、幸いなことに今までのライヴの受けが良いこともあって、かなりサポートの打診が来ているらしい。マネージメントからも、『来年はかなり忙しくなるぞ』と言われていた。
仕事があるのは、ありがたかった。キャリアが順調に進んでいる証しでもあるし、没頭するべきものがあれば、よけいなことも思い出さずにすむ。とは言っても、秋のタイムトリップ体験そのものには、貴重な思い出もたくさんある。問題は、未来で知った知識だ。だからあの時間旅行自体も思い出したくないこととして、意識の底にしまいこもうとしている。でも、記憶は裏切り者だ。思い出したくない時に限って、鮮明に甦ってくる。
こうしてクリスマスを祝うのも、あと十回で終わりなのだろうか――そんな疑問が、ふいに飛び出してきた。もし記憶が幻でないならば、十一回目からは、きっと――。
思わず頭を振った。小さな叫びが漏れそうになる。いやだ! そんなことは思いたくない。早く忘れたい! なのに、なぜ忘れ去ることができないのか。あれは奇妙な夢だったのだと、どうして完全に思い込むことができないのだろう。未来は希望と可能性のはずなのに。これから先に広がる人生に思いを馳せる時、十年先なら、まだ安全だ。そこまでは自由に夢を追える。でも、それからさらに一年が過ぎると――。不意に生々しい恐れを感じ、思わず目を閉じて頭を抱えた。
「負けるもんか」
その声に自分ではっとした。そうだ。運命なんかに負けるものか。幸いまだ時間があるのだから。せっかく残された時間を恐怖に塗り潰されるだけで、終わってたまるか。
僕は窓ぎわから離れ、ギターをケースから取り出した。アンプにコードを差し込んで、家族の迷惑にならないようにヘッドフォンをつけ、ベッドに腰をかけて弾きはじめる。十年以上も先のことなんて、考えるのはやめよう。あるのは今の僕、せめて、まだ明るい二、三年先まで――それくらい見えていればいい。指先から流れ出る音は僕を慰め、勇気づけてくれた。僕には音楽がある。すべてを知り、分かちあえる仲間たちがいる。家族も恋人もいる。それで十分だ。
古い年が去り、新しい年が明けた。猶予期間最初の年は、慌ただしさの中に過ぎていき、目まぐるしい夢のように、ぼんやりとした記憶が残っているだけだ。
前年から続いたツアーが一月いっぱいで終了した後、二月半ばから四月下旬まで、別のアーティストの全米ツアーをサポートで回り、さらに五月上旬から六月の半ばまで、初めてのヨーロッパへ。あの最初の運命の全米ツアー、マネージメント事務所の先輩バンド、サイレントハートの事故で、僕らがピンチヒッターを勤めたツアーの、ヘッドライナーのバンドが僕たちを気に入ってくれたらしく、彼らのヨーロッパツアーに同行させてくれたのだ。六月末から八月末までは、別の大物バンドのアメリカツアーに同行した。
冬から春、夏へと移ろう季節を気に留める余裕さえなく、日々が飛んでいく。新しくロードに出るたび規模は大きくなり、待遇も良くなっていった。ヨーロッパもアリーナツアー、夏の全米ツアーは、すべて一万人超規模の野外会場だ。観客のリアクションも良く、アルバムも順調にチャートを上がっていく。初週が一番良くて、あとは落ちて行くという最近ではすっかりおなじみのパターンではなく、昔のように下からあげていって、ロングラン。僕らが最初、知名度がまったくなかった新人だったゆえの動きなのだが、これだけチャートを上がっていけたことは(それほど強いバックや売り出し戦略なしに)、かなり異例のことらしい。発売四十週を越えた夏にはついにトップ3入りして、全米で七十万枚、世界規模では百三十万枚を越える売り上げになった。ファーストシングルは十位まで上がり、セカンドシングルは五位までいった。僕たちは、成功したバンドになっていた。
でも、成功は喜びのはずなのに――みなの間に奇妙な倦怠感が広がっていくのを、僕は感じていた。それは僕自身の思いでもあった。前の年まで、ただの学生だった僕たち。セミプロ経験もなく、クラブシーンすら知らない僕たちに、いきなり飛びこんだ音楽業界は、あまりに異質でありすぎたのだろう。
ヘッドライナーのバンドにスケジュールをあわせているので、日程そのものは決してハードではない。最初二回の全米が一週間で四、五回公演というペースで、最近の二回は、完全に週四回ペースだ。僕らの持ち時間も一時間足らずなので、ステージでの消耗は、それほどなかったかもしれない。でも何ヶ月も続くツアーは、非日常がずっと続いているようなものだ。
前年の十一月から一月までの全米は、フルリクライニングシートの中型バスが、僕らの移動手段だった。専属運転手がいたから、最初の――二週間あまりで終わってしまったアメリカツアーと違い、自分で運転する必要はなかった。ロブのほかに、奥さんのレオナがロードマネージャーとして加わり、他にも新しく五人のスタッフやクルーがきて、総勢十二人で移動し、新しく機材用の軽トラック(こちらも専属運転手付きだ)も加わった。公演地郊外のモーテルに他のメンバーと相部屋で泊まり、バスの中や楽屋で食べるものはサンドイッチかハンバーガー、たまにピザ。オフの日にはカフェテリアやファミレスで食事をした。この時は、間にクリスマス‐新年休暇が入ったこともあり、疲れつつも、楽しく過ごせたと思う。
十二日のお休みの間にある程度疲れも回復し、次のシリーズに行った。この時には、バスは前と同じ中型のフルリクライニングシートだったけれど、モーテルの相部屋だけでなく、四回に一回ほどは、ビジネスホテルのシングルルームになった。食事も前回より少しだけ豪華になった。といっても、ハムサンドがパストラミやターキーに変わったくらいだけれど。でも二週間くらいたった頃には、まだ前のツアーが続いているような感覚に襲われはじめた。最初の頃は観光に行ったり、買い物や遊びに行ったりする余裕もあったが、後半は疲れが来て、あまり外出しなくなった。最後の一ヶ月は、倦怠感――それに近い精神状態になり、早く終わってくれないかという思いだけが強くなっていった。ツアーが終わった時には、心底ほっとしたものだ。
十日あまりの短い休暇の間に姉の結婚式に出、それから初のヨーロッパツアーへ。ほぼ観光気分だったが、僕らは全米と同じようにフルリクライニングシートのバスを移動手段としていたので、場所移動はやはり長かった。目新しさの方が勝ってかなり観光もしてしまったために、終わってカナダに帰り着いた時には、相当疲れを感じた。慣れない環境での緊張もあり、ヘッドライナーのメンバーたちが食事や観光に誘ってくれたことも、好意はとてもありがたかったが、かえって気疲れを増してしまったのだとも思う。
その十一日後、やっと疲労も時差ぼけも落ち着いた頃、次のツアーが始まった。バスが少し大きくなり、サロンとトイレがついたものになった。ホテルもほとんど一人部屋だ。でも、もう最初の週から、こんな生活がいつまで続くのだろうという思いが出始めていた。当初の目新しさは、すでにどこかへ吹き飛んでいる。場所移動も長く、窓から見える景色も、ほとんど変化はない。いや、実際にはあるのだろう。でも、もうどうでもよくなっていた。おまけに同じステージを百回以上も繰り返しているうちに、プレイに対して感じる喜びもだんだんと薄れていき、パターン化されたルーティンをこなしているような感じになってもいった。
なにかが違う。こんなはずじゃなかった──その思いは、ツアーが進んでいくにつれ、増大していった。それは僕だけでなく、他の四人のメンバーも同じだったようだ。はっきりとはわからないが、明らかにフラストレーションが存在している。それはいったいなんだろう。思い描いていた世界と現実とは、ギャップがありすぎたのだろうか。ミュージシャンの生活、ロードとは、結局単調な非日常の繰り返しに過ぎないのだろうか。来週のチャートでは、何位になるのだろう。来てくれたお客さんたちは、本当にみんな満足してくれただろうか。たとえ最初から僕らを見に来てくれたわけでなくとも、『いいな』と思ってくれただろうか。インタビュアーは、さっきの受け答えで満足してくれただろうか。ああ、自分の部屋へ帰って、のんびりしたい。ホテルの部屋でなく、自分のベッドで寝たい。ホプキンスさんの料理が懐かしい。ハンバーガーやサンドイッチは、もう見るのもうんざりだ。
七月の終わりから八月にかけて、バンドの疲労はピークに達していたように思えた。精神的な疲れに加えて、じっとしていても汗が出てくるような暑さが、体力も奪っていく。夏の野外、しかも僕らがステージに上がる時間には、まだあたりは明るく、空気も暑い。ステージにあがることがだんだん億劫になっていき、演奏することの喜びが少しずつ失われていくのが、はっきり感じられるようになった。ジョークを飛ばして笑ったり、軽口を叩き合ったりするようなことも減っていった。移動のバスの中でも、サロン部で話したりゲームをしたりしなくなり、みな自分の席で窓の外をぼーっと見ているか眠っているか、本を読んでいることが多くなった。
そんな八月上旬のある晩、ステージが終わって楽屋へ引き上げた僕らは、そのままいっせいにソファに座り込んだ。アメリカの西南部、しかもその日はとりわけ暑い晩で、気温は三五度以上に達していた。僕らはみな、外からはっきりわかるほど汗だくになっていたが、シャワーを浴びて着替える気力もないようだ。ジョージはウィスキーのビンをつかんで、そのままがぶっと飲み、深くため息をついている。ミックは目を閉じ、眠っているように天井を仰いだままだ。ロビンはうつむいて頭に手をやり、そのままうずくまっている。エアリィはソファによりかかりながら汗を拭うと、半ば投げつけるような口調で言った。
「ああ、もう、あっつい! それにホント疲れた。いつまでこんなこと、続くんだろ。もうやめにして、帰りたいな」
僕は頭を上げた。その言葉はたぶん、僕ら全員の思いだ。でも口に出されると、よけいにやりきれないような気がした。
「そう思ってるのは、おまえだけじゃないさ。今さら、そんなこと言うなよ」
僕はいくぶん、ぶっきらぼうな口調になっていた。
「みんなそう思ってんなら、もうツアーやめれば良いのに」
「そうはいかないだろう。僕らはプロなんだから。おまえにはプロ意識がないのか?!」
また怒ってるな──そう言いたげな表情を浮かべて僕を見たあと、エアリィは頭を振って言い返してきた。
「プロ意識って? やりたくもないのにショーをやるのが、プロ? 僕らが楽しめなくて、お客さんが楽しいわけない。義務感だけでやってたら、かえって失礼なんじゃないか。疲れて、いらいらして、うんざりして、それでもやりつづけなきゃなんない理由って何だよ? プロモーション? こんな状態じゃ、逆効果だと思うけど」
あまりにも図星で、反論の余地はなかった。たしかにそのとおりだ。でも、なぜか釈然としない。僕は言葉を捜した。
「そりゃそうだ。たしかにそうだよ。でも、何か大切なことを忘れていないか? プロっていうのは、たとえどんなコンディションでも、最良を提供することじゃないのか? たとえ自分たちはうんざりして疲れ果てていても、それを感じさせないでお客さんを楽しませるのが、本当のプロじゃないのか? おまえはやっぱり、アマチュアの視点からしか見てないんだ、エアリィ。恥ずかしいことだとは思わないのか?」
「そんなの、ただの理想論じゃないか、ジャスティン。理想を振り回したって、現実は変わんないから。おまえの言うことは正論だけど、たしかにそう出来りゃ最高だけど、現実には無理だよ、んなこと。音楽って、自分自身の感情の反映なんだから。それで、自分が最低な気分だったら、どうなるわけ? それでも観客をハッピーにさせられるなんてこと、できるのか? その音楽が正直だって言える? おまえだって気が乗らないから、落ち込んでんじゃないか。だからそんなにイライラしてんだろ? 自分でできないこと言ったって、説得力ゼロだって」
自分でも、顔が赤くなるのがわかった。反論できないのが、よけいに悔しい。頭の中で、なにかがはじけたような気がした。次の瞬間、僕はつかみかかっていった。手を振り上げかけると同時に、ロビンが声を上げた。
「やめてよ、やめて! 二人とも! お願いだから!」
ジョージとミックも立ち上がり、駆け寄ってきた。「おい、落ち着け!」と。
僕は我に返った。手を離し、二、三歩後ずさりした。危うく、生まれてはじめて人を殴るところだった。それにさっきつかんだ時、相手の身体が異様に熱かった――暑さだけではない感じだったのに、今さらながらに気づいた。
エアリィはいきなりぱっと離された反動で一瞬よろけたあと、すぐに体勢を立て直し、少し驚いたように二、三度瞬きして僕を見ている。
「ジャスティンが、キレた……」
「キレるつもりはなかったよ。ごめん、エアリィ」
僕は言い訳をせず、謝った。
「いや……僕も言いすぎたと思う。ごめん」
「そうじゃない。おまえの言うことは正論だ。ちょっと正直すぎるけどな。だけどカチンと来てしまった。僕は本当にイライラして、どうかしていたんだな」
「それって、おまえだけじゃないよ、ジャスティン。みんなちょっと調子狂ってきてるんだ。それに、おまえの言うことも正論だと思う。ちょっと理想的過ぎるけど。僕だってさ、ホントは始めた以上、途中で投げ出すのは、やなんだ。けど今は、やめたい気持ちのほうが強くなってきた。おまえの言うとおり、僕は根性なしかも」
「そうじゃない。やめたいのは、僕も同じさ。たぶんおまえ以上に、そう思っているんだ。でも、やめられないから、イライラしていたんだ。それとおまえ、熱あるんじゃないか? さっき気づいたんだが、熱かったぞ」
「うん。たぶん、昨日あたりから出てると思う。計ってないから、何度かはわかんないけど。なんか身体がだるいしね」
エアリィはふうっとため息をつき、椅子に座り込んだ。
「なんだろう、この暑さの中でショウをするのに、身体が慣れてないのか……たった一時間なのにね。暑いのって苦手なんだ。だからここ一ヶ月くらい、疲れた感がやばかった。でも、それって僕だけじゃなくて、みんなもそうだろうしって思ってたんだけど……」
「体調崩しているのなら、言ってくれなきゃダメだよ」 ミックが首を振って言い、
「おい、体調不良は早めに言ってくれ」と、ロブも声を上げる。
「でも言いにくい、この雰囲気の中じゃ」エアリィは肩をすくめ、
「まあな。本当に余裕がないからな、最近の僕らは。でも僕も、病人を殴らなくて、よかったと思うよ」 僕も頭をかいて、苦笑した。
「まあ……なんとか無事に収まったね」
ミックは僕らを見、少し苦笑を浮かべた。
「また繰り返されない、とは言えないがな。この状況じゃ。疲れてるから、みんな神経がイライラしがちなんだ。無理もないけどな」
ジョージが頭をかいて、付け加えている。
「それは、たしかにありえるかもしれないな。出来るだけ避けたいけれど」
僕は同意せざるを得なかった。冗談で済めば、それにこしたことはないけれど、これからも年内いっぱい、サポートツアーが続く予定なのだから。
「もうやめよう、本当に」
ミックがきっぱりとした口調で、裁定をおろした。
「うん。なんとか、そうならないようにするよ」
エアリィと僕は同時に言いかけたが、ミックは指を振って遮った。
「違うよ。君たちのケンカのことじゃない。これ以上のロードは、もうやめた方が良い、ということさ。もちろん、このツアーはちゃんと終わらせないといけないけれど、これが終わったら、もう終わりにした方が良いと思う。僕らみんな、もう余裕がなくなってきているんだ。イライラしたり、衝突しそうになったり、体調不良も言い出せないような雰囲気になってしまうというのは、良くないよ。しばらく休んで、それから出来れば、次のアルバムに取りかかったほうがいいんじゃないかな」
「ああ、そう出来れば本当に良いな!」
これには、バンド全員が同意の声を漏らした。ジョージはさらに断固とした口調で、こう付け加えている。
「そうだ、そうだよな。こんな状況は異常だ。俺たちみんな、おかしくなりかけているんだ。このまま年末までやったら、本当におかしくなっちまうだろうよ」
「気持ちはわかるが、現実問題、そう簡単にロードを打ち切るわけにはいかないぞ。実際、スケジュールは今年いっぱい入っている。アクシデントのキャンセルなら仕方がないが、売り出し中の新人が、『もう疲れた』なんて理由で、降りるわけにはいかないんだ」
ロブが頭を上げ、ちょっと顔をしかめながら、僕たちを見た。
「ああ……それは、わかっているんだけど……」
「おまえたちにはまだ言わなかったが、特に九月からのツアーは、超大物からのオファーなんだ。異例の大抜擢だ。これを断るわけにはいかないぞ」
「え?」
「九月から十二月までのオファーは、本当にたくさんあったんだが、あるスーパースターがおまえたちに関心を持って、九月半ばから十二月初旬まで続く全米ツアーの、サポートに加えてもいいと言ってきたんだ。アリーナじゃない。スタジアムツアーだ」
ロブが挙げたアーティスト名を聞いて、僕はひっくり返りそうになった。他の四人も驚いた表情で、目を丸くしている。
「本当に?!」
「そうだ。先月の半ばから、その調整でマネージメントもかなり動いていたようだ。つい三日ほど前に、ほぼ決まりそうだという話が相手から来た。だから、気持ちはわかるが、もう少しがんばってくれ。秋のツアーは、スケジュール的には相当緩いんだ。一日おきで、時には中二日になる。一月で十回くらい。それを三週間くらいでやって、一週間から十日くらい中休みが入る。それを三シリーズだ。相手の提示条件も破格だ。だからうまく気分転換をして、体調も整えて、乗り切って欲しい。この上もないビッグチャンスなんだ」
たしかに僕らのような新人が、そのクラスの、超がつくほど大物のサポートなどという機会はめったにない。異例の幸運、大抜擢と言ってもいいだろう。断れる立場にないことは明白だ。僕らは顔を見合わせた。休みたい、たしかに。でも、なんとか乗り切っていくしかないのだろうと、諦めのうちに、みなの表情は語っていた。
それから一週間後、事態は思わぬ展開を迎えた。宿泊先のホテルで、ロブが僕らを呼び集め、告げたのだ。
「九月からのツアーは白紙になった」と。
「えっ?!」僕らはみな、驚きの声を上げた。
「なぜ急に?」
ミックが僕らを代表して、そう問いかける。
「もう一つの候補に出し抜かれた」
ロブは苦渋に満ちた顔で、首を振った。
「そっちの方が、おまえたちより実績も知名度もある。それでも、おまえたちに決まりかけていたんだが、対抗陣営が面子をかけて、巻き返しにきたようだ。なりふり構わずに。豪華なパーティに招待したり、相手の喜びそうなものをプレゼントしたり、好みの子を送り込んだりと、まあ、ここ何週間か、あの手この手でどんどん攻勢をかけたそうだ。それで相手もそこまでするのなら、その熱意を買おうと言って……」
「要は買収されたわけだな」
ジョージが苦笑して、微かに首を振った。
「それで、俺たちはどうなるんだ?」
「もうほぼ話が決まっていたから、他のオファーはすべて断っていた。昨日、相手メンバーが社長に直々に電話をかけてきて、言っていたそうだ。君たちには悪い事をした。残念だ。でも君たちは有望だから、きっとまたチャンスはある。次のツアーでの同行が可能だったら、また機会をあげる、と。ただ、彼らの次のツアーは、たぶん三年は先だな」
「ずいぶん気の長い話だね」
僕も思わず苦笑した。
「そうだ。だから今回はとりあえず、どうしようもない。今朝から社長やレーベルの担当者と何回も電話で話し合って、諦めざるをえない、という結論になった。一回断ってしまったオファーは取り戻せないし、すでに九月からのツアーはどれも、ラインナップが決まってしまっている。自分たちでホールツアーを打つのも、こんなにぎりぎりでは無理だ。残念だが、ファーストアルバムのプロモーションツアーは、今回で終わりになるだろう」
「うわぁ、よかったぁ!」と、エアリィがそこで声を上げた。僕も思わず同じことを言いそうになったが、これは喜んでいいのだろうか?
「こら、そう嬉しそうにするな。キャリア的には、大きな痛手なんだぞ」
ロブが少し顔をしかめ、諌めている。
「えー、でも、僕らがスタジアムツアーのサポートって、絶対まだ早いし、なんか場違いな気がしてたんだ。向こうがそこまでして出たいんだったら、叶って良かったと思う。僕らよりはるかに先輩なんだし」
「でもな、これはおまえたちにとっても、大きなチャンスだったんだ。相手は、おまえたちにも立派にスタジアムのサポートが務まると、思ってくれていたわけだ。おまえたちはこの短期間に、着実に実績を積みあげることが出来た。注目の新人となり、相手にとっても観客をより呼び込める彩りになれると思ってくれたから、これだけサポートのオファーが来た。そのチャンスをおまえたちは、今まで確実にものにして成功させてきたんだ。今度もきっと成功できたと思う。そうなればアルバムの売り上げも、もっとブーストされる。今の倍くらいにはなるだろう。それだけのポテンシャルはある作品なんだ、あれは。おまえたちは今の段階では自力でツアーをするより、より動員力のあるアーティストのサポートで行ったほうが、広いマーケットでの露出が見込めるし、話題にもなる。それでアルバムも、あそこまで売れたんだ。それをさらに伸ばす大チャンスだったんだぞ」
「でもロブ、現実には僕ら土壇場で負けちゃったんでしょ、対立候補に。孵らないうちからひよこを数えるな、って言うし」
「本当にな。取らぬ狸だ。しかし、おまえもひとごと過ぎるぞ、エアリィ」
ロブはしまいには苦笑して、首を振っていた。
「まあ、ロブやマネージメント側ががっかりしたのはわかるけれど、僕らにしてみれば、かえってよかったのかもしれないね」
ミックがそこで言いだした。
「前にも言ったように、僕らは慣れないツアーで、疲労もピークに来ていた。いや、たぶん今もそうだろう。その状態でスタジアムツアーなんかに同行したら、精神的にも体力的にも、相当に負担がかかると思うんだ。たとえスケジュール的には緩くても」
「ある意味、渡りに船だな」
ジョージも、にやっと笑っている。
「おまえたちは、欲がなさ過ぎるな、本当に」
ロブは頭をかき、僕らをじっと見たあと、ため息をついた。
「しかし……そうなのかもしれない。僕も社長から話を聞いた時には、とてもがっかりした。おまえたちにとって、大チャンスだったのに、と。……そうだな、先走りすぎたのかもしれないな、僕も。バンドの現状把握を、もっとしっかりしておくべきだった。おまえたちがそれを望んでいるなら、これでよかったのかもしれない」
それから三日後、移動のバスの中で、ロブは再び僕らに告げた。
「社長やレーベルと協議して、今後のスケジュールが決まった。このツアーで、デビューアルバムのサポートは終了だ。まだまだ売れる作品なので惜しいが、仕方がない。それで、九月二十日まではオフだ。それからセカンドアルバムの製作に入る」
「ええ、もう来月から?」
僕らはいっせいに問い返した。
「そうだ。それはレーベルからの、たっての要望だ。今の勢いを落とさないために、出来るだけ早く次を出した方が良いと。それもデビューアルバムの路線からあまり変えずに、ということだ。クリスマスシーズンが終わったら、リリースしたいと」
「なんか……ずいぶん、早くない?」
エアリィは少し心配そうな口調だった。
「年内いっぱいツアーが出来たらこれほど急がないんだが、まだアルバムセールスに伸びしろのあるところでプロモーションを切るわけだから、それが被害を最小限にとどめる方法だと、レーベルの担当が言うんだ」
ロブはそう説明している。
「でもファーストアルバムも、六月半ばから作り始めて、リリースまで四ヶ月だから、九月二十日からだと、一月下旬くらいが妥当な気がする」
「だから、デビュー盤の時のようなペースでは録らない。少し集中して、もう少し短時間でやるんだ。九月中にマテリアルを用意して、十月中に録音を上げる。十一月前半でミックスダウンをして、年末に発売。そんなスケジュールで行く」
「すっごい突貫工事だけど、それで出来るのかな」
「いや……大丈夫じゃないかな」
僕は少し考えた後、頷いた。
「出来ると思うんだ。デビュー盤の録音は一ヵ月半くらいかかったけれど、それは僕らがレコーディングに慣れていなかったのと、一日五、六時間くらいのペースで、ゆっくりやっていたからだ。集中して、時間を長く取れば、一ヶ月で十分できるだろうと思う」
「レコーディングはそうかもしれないけど、マテリアルは? ファーストの時にはもう揃ってたけど、今って、あまりないから。ロード中に作った奴が、三つくらいだし」
「そうだな。じゃあ……スタジオ入りするまでに、めいめいで曲を作ってこよう。それで二十日にスタジオ入りしてから合わせて……」
「十日でできるかな。きつくない?」
「だから、それまでに少し書いてこようって言ってるんだよ。十日間で、一からそんなには書けない。それこそおまえが言うように、突貫工事になってしまうから。幸いお休みは三週間あるんだから、宿題にしないか?」
「えー、僕、何にもないとこから書くの、苦手だなぁ。みんなの音聞いてると、ある程度インスピレーションが落ちるけど、普段、どういうとこから落とせばいいんだろ」
「アンテナを張れ、って言うじゃないか。おまえなら出来るだろう。僕もなんとかしてみるから。そうだ、このツアーもまだあと二週間あるわけだから、時間があったらスタジオを借りて、少しセッションしてみてもいいかもしれない」
「ああ、まあ、それもいいかもね」
「がんばれよ、ソングライティングチーム!」
ジョージが笑って、エアリィと僕の肩を叩いた。
「俺らも手伝えたら良いんだが、せいぜい自分のパートしか考えられないからな。おまえらはリードパートを担うわけだから、がんばってくれ」
「大丈夫だよ、二人なら」
ミックも微笑して僕らを見ている。
「ああ。たしかに早いかもしれない。でも、僕は嬉しいんだ。新しいマテリアルが書けると思うと。ファーストの曲も好きだけれど、ずっと演奏し続けて、少し新鮮味がなくなりつつある頃だったから。新しい曲には新鮮に向き合えるし、古い曲もまた別の視点で見ることが出来ると思う。最初に九月のロードが白紙になった時、僕も喜びたかったけれど、喜んでいいんだろうかって思っていた。でも今は、本当に嬉しいんだ」
そう、それがその時の僕の、偽りのない気持ちだった。年内続くと思っていたロードから、思いがけなく解放された。それから三週間休める。そして、新しいアルバムが作れる。期限は少し気になるけれど、出来ないことはない、と。
ロードからやっと解放される、その思いはバンドに最初の頃の活力をもたらした。再びステージが楽しいと思えるようになり、ジョークを飛ばして笑いあう余裕も出てきた。そして僕らが楽しめれば、その気持ちはダイレクトに観客に伝わることも知った。
三週間の休暇が終わると、新しいサイクルが始まった。僕らは一年前より、確実に成長できているはずだ。いろいろな経験をしたし、多くのことを考えさせられた。技術的にも百回以上ステージをこなしてきたことで、かなり進歩していると思う。きっといい作品ができるに違いない。今の僕たち、現在の心に完全にふさわしいアルバムを。スタジオ入りした時は、そんな期待感でいっぱいだった。それはきっと僕だけでなく、他の四人もそうだっただろう。
僕にはバンドを結成した時から変わらない、確たる思いがあった。聞いている人に何かを与えられるような音楽を作りたいと。どうしてもヴォーカリストを入れたかった理由の一端も、そこにある。声と言葉という媒介を通れば、聞き手との間により広く直接的なコミュニケーションが可能だから。音楽はエンターテイメントだという意見にも反対はしない。でも、それは自分たちが作りたい種類の音楽じゃない。その方針の元にファーストアルバムを作ったのだし、今回もそうするつもりだった。少なくとも僕を含めたインスト担当の四人は、最初からその方向で意見が一致していた。僕は特に音楽の好き嫌いが激しいほうで、マニアックと言われようが、好きなものは徹底して聴きこむし、嫌いなジャンルは聞きたくない。ロビンとミックも同じような嗜好の持ち主だし、ジョージにしても多少間口は広いものの、基本的傾向は変わらない。
ただ、エアリィは明らかに、僕たちとは違う音楽スタイルの持ち主だ。僕からみれば完全に無節操としか言いようのないくらい、なんでも聴く。広く浅くのめりこまずの典型で、特定のお気に入りも持たず、ジャンルのこだわりもないようだ。クラシックやジャスからポップス、カントリーにいたるまで聞くけれど、ヘッドフォンで何かを聞いていることはほとんどない。BGMとして聞き流しているだけ、という感じだ。
最初はそんな彼の音楽スタイルに、僕は多少の危惧を持っていた。でも実際に曲作りに参加するようになって、その懸念は完全に吹き飛んだ。彼は理想的な『最後のピース』だ。とかく複雑にしたがり、また地味になりがちな僕らの音楽を、ラジオフレンドリーとまでは言えなくとも、近いところまで持って行くことが出来る。複雑なインスト陣と補完的に働く、耳に残る、フックに富んだヴォーカルメロディ。でも定型的ではなく、少し捻って、要所要所でインストとシンクロし、曲の表情を膨らませる。そして歌詞。ありきたりなラヴソングや『パーティしようぜ』ではなく、もっと真剣で、自分や外の世界を見つめるような、時には社会的とさえ言えるそれが、音楽と相乗効果になってリスナーにアピールする。それがファーストアルバムでこれだけ早い成功を収めることが出来た、主な理由の一つなのだと思う。
休暇中に、僕はなんとか二曲書いた。エアリィも『あまり浮かばなかったけど』と言いながら、二曲書いてきた。ロードの最後の方で、スタジオを借りてやったセッションでも一曲出来たし、それまでにも三曲ある。あと、二、三曲新規に作れば、アルバムのマテリアルはそろう。
そして予定通り、九月が終わるまでに、全部で十曲が完成した。アレンジはまだ少し練る余地があるが、レコーディングに入ってからでも、詰められるだろう。
九月下旬、作業中のスタジオにロブが来て告げた。
「十月から本格的なレコーディングをするが、ロスのスタジオで行う予定だ」と。
「え? ロス? て、ロサンゼルス?」
僕らは顔を見合わせ、問い返した。
「そうだ。ある有名プロデューサーが、おまえたちのセカンドアルバムのプロデュースを引き受けてくれた。十月いっぱい、という約束で。デビューアルバムを気に入ってくれたらしい。ただ、彼の地元がロサンゼルスだから、そこまで行く必要がある」
ファーストアルバムには、さほど有名ではない中堅どころのプロデューサーを起用し、その仕事ぶりは僕らにとって、可もなければ不可もなかった。この人は僕らにとってマイナスはもたらさないにせよ、プラスも与えてはくれないだろう。そんな印象を抱いた。だから、セカンドアルバムに有名プロデューサーが名乗りを上げてくれたことに、興奮した。ただこの人が過去に手がけた作品は、わりとストレートな聞きやすいサウンドばかりなのが、ちょっと気にはなったけれど。
この危惧は、あとになって的中することになる。ロサンゼルスに行った当日、僕らのデモを聞いたプロデューサー氏は、首を振りながらこう告げた。
「悪くはない。君たちのデビューアルバムも良かった。でも、もっと改良の余地はある。どちらもね。ひとつには、インストの自己満足が多すぎる」
「えっ?」
僕らは顔を見合わせた後、相手を見た。
「あのね、プログレッシヴロックは、ハードやヘヴィーという言葉が頭につこうが、基本、オタクのジャンルだ。オタクっぽい格好をした連中が、どこまで難しいことが出来るかという自己満足のためにやっている、もしくは哲学っぽく見せるためにやっている、と。でも君たちのイメージに、それは似合わない」
「そう……ですか?」
「そうだ。君たちは、脱プログレをすべきだ。やたら変拍子だのリズムチェンジだの転調だの、へんてこな構成を盛り込んだ曲はやめるべきだ。リズムはできるだけシンプルにして、踊れる曲にした方がいい。それに、曲の構成は変にいじらない方が良い。ヴァース、コーラス、ミドルエイト。そのくらいのパートがあれば、充分じゃないか」
「…………」
「あともう一つは、歌詞の内容が真面目すぎる、というかね、まるでパンクバンドみたいな、フラストレーションを語ったり、プログレバンドみたいなファンタジーはやめるべきだ。いや、少しくらいなら、アクセントになって良いよ。でも、全体にもうちょっと軽くした方がいい。君のようなタイプのシンガーには、そのほうがあっていると思う」
「えー、重いですか? どのくらいなら許容範囲ですか?」
エアリィが納得いかなげにきくと、プロデューサー氏は指を振って答えた。
「十曲あったら、真面目系は三割でいい。あとはそうだな、もうちょっと元気な曲を書けないかい?」
「元気な曲……って? エール系とか?」
「いや、それは場合によりけりだね。人によっては押しつけがましいと感じる人もいるだろう。聞いている人が楽しくなるような、うきうきするような曲が良い。もしくは、『彼女にこの思いが届いたら良いな』とか『君の魅力にぞっこんさ』とかだね」
「うぇ! やだ! 吐きそう」
エアリィだけでなく、僕も思わず吐きそうな気がした。冗談じゃない。
「ラヴソングを馬鹿にするんじゃないよ。世の中の曲の八割以上はラヴソングだ。そしてたいていのヒット曲もね。愛は普遍の命題だ」
「でも僕たちは……ラヴソングはやりたくないんです」
僕は我慢できず、顔を上げて言った。
「他の人たちはそうでも、僕たちは……もっと人の心の奥に届くような主題が……」
「愛が人の心に届かないとでも言うのかね、君は」
プロデューサー氏は鋭い口調で遮った。そして吐き捨てるように続ける。
「ラヴソングを軽薄と馬鹿にし、小難しい哲学もどきをありがたがる、典型的なプログレオタク脳だな。まあ、スィフターファンなら無理もないが」
彼はデモをおさめたCD−Rを、僕たちに突き出した。
「一週間猶予を与えるから、アレンジしなおし。良いね。原則その一、曲の構成を複雑にしない。ヴァース、コーラス、ミドルエイト、それ以外のパターンを作らない。A−B−A−B−B、もしくはA−B−A−B−C−B。それ以外は禁止だ。そして一曲五分台が、長さの上限だ」
「Aダッシュとかはダメですか。ちょっとしたバリエーションは」
エアリィが納得いかなげな表情ながら、そう聞いていた。
「フェイクくらいなら多少は許す。でも、その程度に留め置くように」
プロデューサー氏は答え、さらに言葉を継いだ。
「原則その二、小難しい主題は三曲まで。残りはもっと軽くすること。半分は、ラヴソングにすること」
「えーっ!」
「えー、じゃない。私は、君たちのためを思って言っているんだからね。その三、変拍子を入れる曲は三曲まで。それも一曲につき、十二小節まで。リズムチェンジ、転調曲も同様。良くて一回。それを含め、ひねりの入ったアレンジは全体の半分以下に抑えること。イントロ、間奏、コーダはソロを含め、十六小節以内。以上を踏まえて、やり直してきてくれ。私は八日の日にまたここに来るから、それまでの宿題だ」
プロデューサー氏が出て行くと、僕らは顔を見合わせた。
「本気で……?」
エアリィは肩をすくめて、当惑したように言い、
「嘘だろ」
僕は呆然と呟くしかできない。
「歌詞、書き直すのやだな。ラヴソングなんて、どうやって書いたらいいかわかんないし、どうやって歌ったらいいかも、わかんないや」
「そんなもの、書かなくていい!」
僕は思わず頭を振った。
「デモの曲のままで良い。僕らは僕らのやり方で、アレンジをしよう」
「あの人、怒りそうだけどね」
「良いものを作れば、考え直してくれるかもしれないじゃないか」
僕はその時には、本気でそう思っていた。他の三人も、「僕たちは僕たちのやり方を貫こう」と、支持してくれた。
僕たちは翌日から、レーベルが借りてくれたロサンゼルスのスタジオにこもって、アレンジ作業に没頭した。プロデューサーの出した条件は無視し、自分たちが納得の出来る、最善と思えるアレンジを。ホテルではコストがかかるので、未来世界から帰ってきた時、ボルチモアで借りていたような家具付きの短期滞在者用アパートを拠点にして(食事はさすがに自炊ではなく、デリやファーストフード、ファミレスを使った)、朝の十時から夜の十時くらいまで、スタジオで作業に没頭した。一週間後、最終デモが出来た。それは今の自分たちの最善と思える出来だと、その時の僕は思っていた。みなも満足しているようだった。
しかしそれを聞いたプロデューサーは、そのCD−Rを床に叩きつけ、足で踏みつけた。そして怒鳴った。
「君たちは、私の言うことを聞いていなかったのかね!」
「あ……いえ」
僕にはそれしか言葉がなかった。他の四人も同様だったようだ。
「じゃあ、なぜ私の指示に従わない!」
「僕たちには……それが最善だと思うからです」
僕は思い切って頭を上げ、相手の目を見て答えた。
「君たちの最善! は、それを自分でわかっていると。たいそうな自信家だな。だったら、プロデューサーなんて必要ない。全部自分でやったら良いんだ!」
「自分のことは……たぶん自分が一番良くわかってると思う。でも主観的な視点だけじゃ見落としもあるかもしれないから、客観的な視点で見てもらうために、プロデューサーさんが必要なんじゃないかって……指示を丸無視してしまって、ごめんなさい」
エアリィは少し頭を下げた。そして相手を見ながら、言葉を継ぐ。
「でも貴方が見ている僕たちの良さと、僕たちが思っている自分の売りには、ギャップがあるんです。それが問題かな、と」
「それなら、君たちはどっちを取る? 主観と客観と」
相手はふっとため息を吐くと、腰に手を当て、いくらか落ち着いたようなトーンになって、僕たちをじろっと見た。
「君たちが私の指示に従えないなら、私はプロデューサーとして、ここにいる意味はない。さっさと降りるさ。君たちは君たちで、自分の望む作品とやらを作ったら良い。ただし」
彼は腰に手をやったまま、一息おいて、言葉を継いだ。
「今から新しいプロデューサーを探していたら、アルバムの年内完成など、まず無理だろうな。主だったところは、すでにスケジュールはいっぱいだし、第一、君たちのような頑固なバンドを引き受けるプロデューサーなんぞ、まずいないだろう。君たちが自分でプロデュースをすれば別だがね。だが、君たちにプロデュースのノウハウがわかっているのかい? 自分でミックスできないなら、エンジニアも探さなければならないぞ。あと一ヶ月で。出来ると思うかね、そんなことが」
彼はゆっくりと僕たちを見まわし、ついで煙草を取り出した。カチッと火をつけ、ふうっとひと息長く吐き出してから、再び口を開く。
「それに、私はレーベルにも苦情を言わなければならなくなるな。せっかく好意で引き受けたのに、あの連中は私を侮辱した、不愉快だ、と。あそこも私との関係を切られたら困るだろうから、君たちは困ったことになるぞ。他のレーベルも、多かれ少なかれ、同じようなものだ。味噌のついたバンドの引き受け手など、ありはしないだろう」
プロデューサーが降りる。それは僕にとっては願ったり叶ったりだが、それだけではすまない。代わりのプロデューサーを見つけられないようにし、レーベルもクビにしてやる。他のところにも手を回して、移籍もできないようにする、という脅しつきだ。
プロデューサー氏は、再び煙草の煙を吐き出した。
「本当に、ただでさえ期間が短いのに困ったものだ。一週間、完全に無駄になった」
「本当に申し訳ありません」
ミックが頭を下げて謝っている。エアリィももう一度、「ごめんなさい」と小さく頭を下げていた。謝ることなんてないだろう、と僕は思ったが、あとで二人に聞いたら『勝手に指示を無視されたら、怒るのも仕方ないかなと思って』と答えていた。それはたしかにそうかもしれないが――。
プロデューサー氏は微かに表情を緩めた。
「いいだろう。謝罪した二人に免じて、特別にもう一度だけ、チャンスを与えよう。あと一週間。今度は完璧に、私の指示通りのデモを作るんだ。そうでなければ、私はプロデューサーを降りる。もう時間もなくなるしね。それがリミットだ。その後はどうなるか……わかっているだろうね。では、また一週間後に来る」
彼は僕らをゆっくりと見まわしてから、足音を響かせてスタジオを出ていった。
残された僕らはスタジオの床に座り込み、お互いに顔を見合わせた。難しい局面にきてしまった──無言のうちに、みんなの表情はそう語っていた。
しばらくみんな黙っていた。やがてエアリィが苦笑を浮かべて、肩をすくめた。
「ああ、やっぱり怒られちゃったなぁ。悪い予感してたんだ。あの人、頑固そうだから」
「僕らの考えが、甘かったんだね……」
ミックも深いため息をつく。
「あの人、プロデューサーとしては有名な人かもしれないけど、柔軟性ないね。思い込み激しすぎ」エアリィは小さく頭を振り、
「彼の初期の作品は、そうでもなかったよ。良いものが多かった。でもだんだん、変わっていったんだ。名声で、慢心が入ってしまったのかもしれないね」
ミックは肩をすくめている。
「成功して慢心して、視野が狭くなるって言うのは、よくある話だけどな」
ジョージが首を振り、耳に指を突っ込んでぐりぐりとやった後、続けた。
「でも現実問題、困ったぜ。どうすればいいんだろうな」
「うん。きつい選択だね。プライド飲み込んで妥協するか、突っ張りとおして干されるか」
エアリィは再び肩をすくめ、他の四人を見やる。
「そうだな……」
僕らはひとしきり黙り込んでしまった。
「まあ、みんなでゆっくり話し合ったほうが良いね。とりあえず休憩室に行こう」
ミックが立ち上がった。
「じゃ、なんか飲む? 持って来ようか?」
エアリィがそう申し出た。このスタジオにはドリンクサーバーが設置してあって、紙コップだが、コーヒー、紅茶、そして水とコーラが飲める。彼はこういう雑用にも、率先して動いてくれる。僕ら四人の腰が重すぎるだけかもしれないが。
「ああ……悪いな。じゃ、コーヒーがいいな」
僕は頷いて、みなは休憩室に移動した。
ソファに座り、コーヒーを飲みながら、やっぱりしばらくは無言だ。
「みんなはどう思う、正直なところは」
ミックが全員を見て、静かに口火を切った。
ジョージとロビンは顔を見合わせたあと、二人の意見を代弁するように、ジョージが頭を振って言った。
「ここで契約を切られるのは、痛いな。たぶん、最低でも二年くらいは俺たち、干されるぞ。あのプロデューサーは、たしかに業界には力のある奴なんだ。まあ、落ち目になったらわからないが、今のところはな。だからあいつの目の黒いうちは、俺たちはせいぜいカナダローカルでしか、活動できなくなる。サポート話もなくなるだろうし、かといって俺たちは、ライヴハウスには出られない。国内の小さいホールなら行けるかもしれないが、その程度だな。その間にアメリカでは、俺たちのデビューアルバムなんて、忘れられるだろう。だから、それを取り返すのには……どのくらいかかるんだろうな」
「三、四年かかかってしまうかもしれないね。一度地に落ちてしまったら、そこから這い上がるのも、容易ではないだろうし。あの人の言うとおり、一度傷がついてしまうわけだから、僕らは。そこから今のレベルに戻れるかどうか、その保証もないしね」
ミックが緩くかぶりを振りながら、微かにため息をつく。
「祖父ちゃんに頼んで圧力をかけてもらう、というのも無理だしな。俺たちには一切関わらない、っていう約束だから」
「それは禁じ手だよ、ジョージ。僕も同様だ。頼めばやってくれるかもしれないけれど、それをやったら、負けだ」
「そうだよな」
ジョージはため息をついて首を振り、ついで聞いてきた。
「おまえたちは、どう思う? エアリィ、ジャスティン。実際バンドの看板で、ソングライティングチームでもある、おまえたちは」
「妥協はいやだな、僕は」僕は首を振った。
「うん。妥協って、やな言葉だよね、たしかに」
エアリィはちょっと肩をすくめた。
「けど、あの人の条件だと、やばいね。絶対大妥協、避けられないし。あの人の思う僕らの売りって、なんか違う。予言してもいいよ。あの人の言うとおり作ったら、絶対失敗する。僕らのキャリア的には」
「ああ。あの人の思う僕らの良さは、なんなんだ? ボーイズバンドになることか? ファーストの何を見て気に入ってくれたんだ? さっぱりわからない!」
僕は思わず髪をくしゃくしゃとかきむしった。
「うわぁ、ボーイズバンド、やばい。ああいうノリって、やだ。自分じゃやりたくない!」
エアリィは声を上げ、僕は叩きつけるように同意した。
「僕だってさ!」と。
「それにエアレースの売りって、違うと思うんだ。複雑なインストと構成があって、でも僕はあんまり難しくしないようにしてて、だって、全部難しくしちゃうと、ハードル高くなりそうだから。その辺がうまくバランスしたのかな、って思うんだけど」
「そうだ。その通りだ」
「だから、僕たちって言ってみれば、個人料理店だと思うんだ。ちょっと凝ってて、複雑な味わいの、でもおいしい料理が売りの。でもそれを、あの人はファミレスに近づけろ、って言ってるわけだよね。万人向けだけど、どこ行ってもそんなに変わらないやつ」
「そうさ! でも僕らはファミレスを目指しているわけじゃない。おまえのアナロジーを借りるなら。小さな独立した料理屋で、独自の味を持っていて、常連客が通ってくれるような、そんな店を目指しているんだ。スィフターみたいに」
「このバンドって、スィフターが目標だったんだ」
「今さら驚いたみたいに言うなよ、エアリィ。スタンスだけな。音楽は僕ら独自のものじゃなきゃ、意味がないから。でも、あの人の言うとおりやっていたら、僕らはただのファミレスになってしまう。いや、食べ物屋のアナロジーは、どうも調子狂うな。ともかく、僕らの個性は死んでしまうだろう。エアレースというバンドのアイデンティティがなくなってしまう。僕は自分のやりたい音楽を、信じる音楽をやりたいよ」
「じゃ、ジャスティンはキャリアのロスより、信念貫きたいってこと?」
はっきりそう言われると、少しひるんでしまう。自分の信念だけでバンド全体を巻き込んで、何年も足踏みさせて良いものだろうかと。
「心情的にはそうしたいさ。でもその代償を考えると、完全にそう思い切る勇気は、ことに僕だけの意見では決められないというのが、正直なところだな。おまえはどう思っているんだ、エアリィ?」
「んー、今、考えてるんだけど……これ、ホント究極の二択だから。アーティストとしての信念とプライド、それと何年かのキャリアのロス、天秤にかけてどっちが重いか。普通の状況なら信念のほうに傾いてもいいと思うけど、元々の年数が限られてる中で、避けて通れるロスをあえてするのって、まずいのかなぁって気もするし……」
「ああ……」
そうだった。僕らには最初から、十一年という制限がある。
「そうだ。それを思うとね。僕はやっぱり、ここで喧嘩別れするのは得策ではないと思えてきたよ」
ミックがそこで頭を振り、はっきりとした口調で言った。
「じゃあ、ミックは妥協しても平気なのかい?」
僕は思わず咎めるように聞いてしまった。
「妥協か。君にはなかなか飲めないだろうね、ジャスティン。僕もたしかに悔しいよ。あの人の目指すサウンドは、僕らの本質ではない。それは僕もわかっているよ。出来ることなら、妥協なんてしたくないさ。でも長い目で冷静に考えると、今突っ張るのは賢明ではないっていう気がするんだ」
「うん。今の状況だったら、しょうがないのかな。妥協をとっても」
エアリィが小さなため息とともに頷いた。
「理想だけじゃ、現実は乗り切れない時もあるのかも。どっちに転んでもきつい究極の二択なら、運が悪かったって思って、より被害の少ない道をとったほうがいいと思う。ここであの人に逆らって何年も無駄にするより、不本意なアルバム一枚作って、一、二年我慢した方が、被害は小さいから。次は、あの人と組まなきゃ良いんだし」
「そうだなあ」ジョージとロビンも頷いている。
「それしかないのか、やっぱり」
僕も同意せざるをえなかった。アーティストの信念、誠実さ――それは僕らを支えるバックボーンだ。でも今は、それを捨てなければならない。アルバム一枚分の回り道と、一度地に落ち、不遇の何年かを経ての再スタートでは、答えは明白だ。十一年という時間しかない僕らには。時には引く勇気も必要なのだ。非常に苦しい道には、変わりないけれど。
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