日本神話研究においては、神の鎮座地や比定地に関する静的な議論が中心となり、神がいかに移動し、いかなる過程を経て鎮座に至るかという動的側面は十分に検討されてこなかった。とりわけ地域伝承においては、特定地点への比定が先行し、神話の空間的展開そのものが分析対象とされることは少ない。
阿波における天照大神伝承も同様に、静的理解の枠内で語られることが多いが、八倉比売神社に伝わる『御本記』を検討すると、そこには神が移動しながら最終的な鎮座地を選択するという、明確な構造が認められる。本稿は、この『御本記』の構造を分析し、さらに近代の知識人である岡本監輔の『名神序頌』と比較することで、阿波神話に内在する「神の移動」という論理を明らかにすることを目的とする。方法としては、史料批判を前提とした構造分析を行い、両史料の共通性と差異を通じて、地域神話の空間的展開のあり方を考察する。
岡本監輔は幕末から明治にかけて活動した阿波出身の知識人であり、樺太探査などの経験を通じて広範な空間的視野を獲得していた。彼の神話理解の特徴は、神話を固定的な出来事としてではなく、地理的空間の中で展開する現象として捉える点にある。
監輔は地名や伝承を過去の痕跡と見なし、それらを連続的に読み解くことで神の活動範囲を再構成できると考えた。この立場は、神の鎮座を重視する従来の理解とは異なり、神の移動そのものに意味を見出す点で特異である。彼の『名神序頌』においては、天照大神の足跡が阿波から伊予、さらに九州へと連続的に展開するものとして描かれている。
『八倉比売神社御本記』(以下『御本記』)は、文政11年(1828年)に書写・整理された史料であるが、その内容はそれ以前の伝承を基に再構成されたものである。元文4年(1739年)にはすでに社伝記が藩主に提出されており、さらに遡る伝承の存在が示唆される。
しかし、戦国期における長宗我部元親の侵攻による社寺焼失などにより、古記録は断片化していると考えられる。したがって現存する『御本記』は、古層伝承を直接伝えるものではなく、近世における再編成史料として理解すべきである。一方で本史料は、徳島藩における財政難と社領吟味の状況下において、神田や水源の由緒を神話的に語ることで社地の正当性を主張する、信仰と制度の接点に位置する実践的文書でもあった。
『御本記』における叙述は、以下の5段階からなる一貫した構造を有する。
この移動は、実際の地理的条件と密接に対応している。矢野周辺は吉野川と鮎喰川の扇状地の結節点に位置し、古代において交通・生産の中心地であった。鮎喰川が山地と平野を結ぶ動線として機能していた空間構造は、神の巡行経路と重なり、神話が実際の地理的環境に根ざして形成された可能性を示唆している。
『御本記』と岡本監輔の『名神序頌』には、神の移動を重視するという点で明確な共通性が認められる。両者の最大の違いはその空間スケールにある。『御本記』が阿波国内における移動を描くのに対し、岡本は阿波の矢野神山や忌部山を経て、伊予の御日籠山、さらに豊前中津へと移動を拡張させた。
岡本は地名の連続性を根拠にこの広域移動を説いたが、その手法は『御本記』に見られる「移動しながら鎮座地を定める」という構造を広域的に適用したものと言える。したがって岡本の神話理解は、単なる独自の創作ではなく、阿波に内在する移動の論理を西日本全体へと拡張・投影したものとして位置づけることができる。
気延山から麓の杉の小山への遷座について、『御本記』では参詣の困難さが理由として挙げられているが、歴史的にはより複合的な要因が想定される。
中世以降、気延山は修験道の行場となり、戦国期には軍事拠点(山城)として利用された。山頂空間が宗教的修行や戦闘の場へと変質する中で、在地の人々の生活に根ざした信仰は、より安定した麓へと移行せざるを得なかったと考えられる。この遷座は、奥山の神を生活圏へ引き寄せる「信仰の社会化」の過程であり、社会的・歴史的環境への適応であったと理解すべきである。
『八倉比売神社御本記』は、神が移動しながら最終的な鎮座地を選択するという動的構造を持つ史料である。その成立には近世の制度的要請が関与しているが、神の移動という基本構造は一貫して保持されている。岡本監輔はこの阿波固有の構造を西日本へと拡張し、独自の空間神話学を展開した。
本稿の検討により、阿波神話の本質が特定地点への固定ではなく、その移動過程そのものにあることが明らかとなった。これは地域神話を静的な地点比定から解放し、空間的・動的な構造として再理解する視座を提示するものである。
なお、近世以降の祭祀空間には特定の構造的再編や土木技術の影響が認められるが、これらと神の移動構造との詳細な関係については別稿にて検討することとしたい。