天石門別八倉比賣大神御本記

阿波歴史探訪

この御本記は、天岩戸別八倉比売神社に伝わる古史料を国書データベース 124828を基に現代語訳したものである

御本記 原文全文

国書データベース 124828
天石門別八倉比賣神社本記 
古(いにしえ)、天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、 
高天原(たかまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神と申す。 
次に、国(くに)常立尊。 
これは、国、浮ける脂(あぶら)のごとく、漂へる時、 
葦牙(あしかび)のごとき物より化生(なりい)でませる神なり。 
その後、神伊邪那岐神、次にその妹、伊邪那美神あり。この二神、国土・海原・山川、
もろもろの霊神を産み生み給ひし後、 
伊邪那岐神、左の御目を洗ひ給ふ時に成りませる神の名は、 
日孁大神(ひるめのおおかみ)。これ、すなはち八倉の日孁大神なり。 
最初、高天原にありて、しきりに武備(ぶび)を賜ひし後、 天
石門別の神に勅(みことのり)して曰く、 
「今より後、汝ら、吾に代はりて、天の武備を奉り負ふべし。 
また曰く、この羽々矢(ははや)、この御弓を、葦原中国に持ち降り、
よき地に奉蔵して、永く用ふることなかれ。 
吾もまた天降りて、その地よろしきところと宣(の)りたまふ」と。 
すなはち、天の羽々矢、天の麻迦胡弓(まかこゆみ)を賜はる。
このゆゑに二神、高天原より、この弓矢を持ち下り給ひ、 
示し給ふ時、二神、天の中空に立ち、 
この矢の止まるところを奉蔵せんと盟(うけ)ひ給ふ。 
天より発せし矢、流れ落ちて地に至り、これを矢達の丘と号す。 
(今、これを矢陀羅尾と謂ふ。) 
このゆゑに二神、この地に矢を覚え来たりて、久しく覚え給ひしが、  そ
の地を矢の野と号し、 
その矢を求め出でて、永く奉蔵する地を、矢の御倉と号す。
その弓を奉蔵する地を、弓の御倉と謂ふ。 
その後、二神、この地に留まり坐して、(これ松熊二前の神なり) 
御矢倉・御弓を守り給ふこと、在年(とし)あり。 
その後、比賣大神、天の八重雲を伊津の路別に千別(ちわ)けて、天降り給ふ。 
最初、椙の小川の、清く流るるを照らし臨み給ひて、「この川の水、深し」と宣ひたま   
ふ。 
また、「速すぎる」と宣ひ給ふ。このゆゑに、その所を速渕の邑と謂ふ。 
その時、大地主神(土宮なり)、木股神(御井神なり)、参り逢ひて、
この川の魚を漁りて、大神に奉饗(ほうきょう)す。 
大神曰く、「鰭(ひれ)の狭き物と謂ふとも、食ふべき物なり」と。
このゆゑに、その川を鮎喰川と号す。 
その時、大地主神および木股神に勅して曰く、 
「吾、住まむ処あり。汝ら宣(の)り奉り、導け。」 
大地主神、答へて曰く、 
「ここより西の方、朝日の直(ただ)刺す山、夕日の照り留まる気延の嶺あり。
その地に行幸あるべし」と申し、奉りて導く。 
その時、在神の名を伊魔離神と曰ふ。 
この野に生ひ採る五百箇の野薦(のごも)、八十玉籖(やそたまぐし)を、
雑々の幣として奉る。 
(その野薦を採る地を五十串野と謂ひ、奉饗の地を美阿閇野、また髪狭野と謂ふ。) 
ここより西の方、杉の小山の麓に到り給へば、石門別神、迎へ来たりて敬礼し、啓(ま
を)す。 
大神曰く、「汝ら、吾が勅言のごとく、吾を待ちしや。」
答へて曰く、 
「然り。ここは、前に神の宣ひし、御矢を蔵する地なり。」 
これにより、大神、いたく褒め言葉を賜ひ、この地に一宿経(へ)たり。 
(このゆゑに、矢倉の郷と謂ひ、また屋度利の社と謂ふ。) 
なお、山坂を攀ぢ登り、杉の小山を経て、気延の山に到り給ふ。  
その時、広浜の神、参り相ひて、時節の御衣を奉る。 
その地を御衣足と謂ふ。 
すなはち、気延の嶺の下つ磐根に、宮柱を広く敷き立て、
高天原に峻(たか)く峙(そばだ)て、 
榑風(くれかぜ)天に通ふがごとくにして、鎮座す。 
(天石門押し坐すゆゑ、天石門別と云ふ。 
八倉の郷に坐す姫の御神なるゆゑに、八倉比売と云ふ。) 
この夜、八百万の神々、集ひに集ひて、唬(えらき)楽(がく)を賜ふ。
その神集ひし所を、喜多志嶺と謂ふ。 
その嘘楽の手草および雑々の物を蔵する所を、加久志の谷と云ふ。
ここに大神、詠みて曰く、 
「雲の居る  八倉の郷の気延山 下つ岩根に 宮居そめつも」 
この後、大泉の神に勅して、真名井の水を、玉の碗に汲み湛へ、
朝夕の御食炊水とせよとす。 
また、小泉神田口の御田を奉りて、御饌の御田とす。
気延の山、またの名を神山と云ふ。 
大日孁貴(おおひるめむち)坐すがゆゑに、尊びて神山と云ふ。  そ
の後、二千百五年を経て、小治田御宇元年、秋八月に到る。大
神、毛原美曽持に託して曰く、 
「吾が宮地、遥かにして高峻なり。このゆゑに、神主・祝部・巫、
百の蒼生、万に参詣拝趨するに倦労せむ。 
杉の小山は、高からず低からず、遠からず近からず、まことに善き地なり。   
その嶺に遷座せむと欲す。 
吾が前に、天より持ち降ろしたる瑞の赤珠の印璽を、杉の小山の嶺に深く埋め、   
天の赭をもって覆ひ蔵せ。 
この赭は、諸々の邪鬼妖怪および諸病を厭ひ、奇しく仁妙なる験あるものなり」と教   へ
諭したまへり。 
これを赭印璽と号して、秘して崇め奉る。 
その印璽を埋めし地を、印璽の嶺、また御石の峯と謂ふ。 
この時、神主・祝ら啓して曰く、 
「大神のごとく託宣ありて、遷座奉るべしと雖(いへど)も、
効験なければ、諸人いかでか信ぜむ。」 
その時、大神宣ひて曰く、 
「宣べよ。吾が御前の谷の水を逆にして、山の頂に灌(そそ)ぎ、  
御田を作り、造宮の料食とせよ。」 
一夜のうちに、 
谷の水、逆に洄りて、山の頂に至り、田、熟して穂、八束にもろもろ実る。 
(その谷を左迦志麿谷と云ひ、その田を志留志田と云ふ。) 
神主・祝および百の蒼生、その神宣の明らかなるを恐れ畏み、 
すなはち杉の小山に宮柱を太く立て、千木高く、天の御蔭・日の御蔭として、  永
く隠れ坐して、国家の大基を守護し坐すと云ふ。 
坐の月は長月、日は中三日。 
このゆゑに、この日をもって、御霊現(みたまあらはれ)の日と奉啓す。  
奉授神位。 

爾の時 文政十一年戊子春三月 七十三叟 盛重誠(花押) 

注:国書データベース を元に現代語訳をしました。 
しかしながら、読み取りにくい箇所もあり、誤訳等多々あると思われます。 
八倉比売神社由緒調査等に参考程度に使用していただくことを望みます。 

成立背景と史料的性格

成立年代

本文構成および文体から、本記は近世期に成立した神社縁起の一種と考えられる。 天地開闢から大神の降臨、鎮座、遷座、神勅、奇瑞へと展開する構成は、 近世神社縁起に典型的な叙述形式である。

推古元年遷座伝承の意味

本文には推古元年(593年)秋八月に大神が杉の小山へ遷座した旨が記される。 この記述は単なる年代記事ではなく、 降臨以来の神威が歴史的時間の中で具体的鎮座地へと結実する構造を示している。

この遷座伝承は、鎮座地の正当性を説明する縁起的機能を担い、 葬送儀礼の記録とは性格を異にする。

御霊現れの日と九月十三日祭祀

本文には「御霊現れの日」と記される日があり、 これは旧暦九月十三日(中秋)にあたる。 この日を鎮座の確定日とする伝承は、 現神社においても十月十三日を重儀の日とする祭礼慣行として継承されている。

また、盛氏寄進の複数の石灯籠には九月十三日の刻銘があり、 当日が村落共同体を挙げての祭礼日であったことを示している。

このような年次祭祀の継続は、 本記が葬送記録ではなく鎮座由来文書であることを裏付ける重要な傍証である。

近世神社縁起との比較

本記は祭祀実務の逐次記録ではなく、 神威顕現と鎮座由来の正統性を示すことを主眼とする。 この構造は近世神社縁起に共通する文類的特徴である。

「杉の小山の記」との関係

推古元年遷座の記事は、いわゆる「杉の小山の記」と対応関係を持ち、 大神の宮地変更を説明する伝承として理解される。 これは葬送記事ではなく、鎮座地移転の由来を語る縁起構造である。 

関連資料: 杉の小山の記(PDF)

葬儀記録説について

境内案内板等において、本記を「天照大神の葬儀を記す文書」とする説明が見られる。 しかし本文を精査する限り、本記は降臨・鎮座・遷座・神勅・奇瑞を中心に構成されており、 葬送儀礼の具体的叙述を主題とする文書とは構造的に異なる。

一般に葬送記録には殯宮、喪礼、葬具、埋葬地確定等の語彙および儀礼手順が明示されるが、 本記にはそのような体系的記述は確認できない。

したがって本記は近世神社縁起として理解するのが文献構造上妥当であり、 「葬儀記録」と断定する解釈は慎重を要する。

総括

本記は大神降臨と鎮座由来を語る縁起として理解するのが妥当である。 史料批判に基づく読解が求められる。