阿波国府周辺における八倉比売信仰の形成と再編

― 地形・古墳配置・文献からみた重層的聖地景観 ―[cite: 2]

令和8年2月 坪内 強[cite: 3]

https://www5f.biglobe.ne.jp/~kyo-ts/awarekisi.html[cite: 4]

序章:研究の目的と方法[cite: 5]

本稿は、阿波国名方郡に鎮座する八倉比売神社およびその周辺地域を対象として、地形・水系・古墳配置・文献史料・近世以降の境内整備を総合的に検討し、同地が形成してきた信仰景観の重層性を明らかにすることを目的とする。近年、当該地域については、邪馬台国阿波説や卑弥呼墓比定など、古代国家論や人物比定を中心とする議論が注目を集めているが、本稿ではこれらを結論の前提とはせず、あくまで現地の地形条件、考古学的配置、伝承および文献の構造を精査することによって、なぜそのような言説が生起し得たのかという基盤的条件を解明する立場を取る。[cite: 6]

方法としては、第一に吉野川および鮎喰川によって形成された扇状地地形と山地配置を検討し、阿波国府成立の地理的必然性を明らかにする。第二に、杉尾山・気延山周辺に分布する古墳群の配置と規模差に着目し、墓域の階層構造と非埋葬域の存在を論じる。第三に、『八倉比賣大神御本記』をはじめとする文献史料について、その叙述構造に即した中立的解釈を試みる。第四に、江戸期とくに石井出身の豪商・盛氏一族による境内再編の実態を検討し、近世における聖地編集のあり方を考察する。これらを通じて、八倉比売信仰を単一の神話や人物に還元するのではなく、長期にわたり形成・再編されてきた重層的聖地として位置づけることを目指す。[cite: 7]

第 1 章:国府と扇状地 ― 地形・水系からみた中心性[cite: 8]

阿波国府が置かれた地域は、吉野川が形成した広大な扇状地と、その支流である鮎喰川の扇状地とが接合する地点に位置している。吉野川は流路変動の激しい暴れ川として知られ、古代においては肥沃な沖積平野を形成する一方、恒常的な居住や政治拠点の設置には一定の不安定性を伴っていた。そのため、国府は吉野川本流から一定の距離を取りつつ、鮎喰川扇状地との結節点という、水利・交通・地盤安定性の均衡が取れた場所に置かれたと考えられる。[cite: 9]

この立地は、単なる行政的判断ではなく、自然地形に強く規定された結果であり、阿波国における政治・祭祀・居住の中心がこの地域に集中した理由を説明する重要な要因である。鮎喰川は上流域の山地と下流の平野部を結ぶ水系であり、物資・人の移動だけでなく、文化や信仰の流動を媒介する役割を果たしてきた。国府はその流域統合の要衝として機能していたのである。[cite: 10]

第 2 章:対峙する二山の信仰構造 ― 眉山と気延山[cite: 11]

国府扇状地を挟むように、北東側には眉山、南西側には気延山が位置し、両山は鮎喰川を介して対峙する関係にある。**地質学的に見れば、眉山および気延山を含む周辺の山地は、三波川変成帯に属する堅固な緑色片岩(結晶片岩)の山塊によって構成されている。これらは元来連続した地質構造であったが、長きにわたる鮎喰川の下方侵食によって山塊が分断され、現在のように両山が川を挟んで相対する地形が形成された。**この配置は偶然ではなく、信仰構造を理解する上で重要な意味をもつ。[cite: 12]

眉山稜線には、熔造皇神社や八人塚古墳をはじめとする須佐之男系の信仰が分布している。須佐之男は一般に荒ぶる神として理解されがちであるが、当地においては、生成・変成・鍛冶・製鉄といった土地を「つくる」力を象徴する存在として捉えることができる。眉山は国府扇状地の北東側境界に位置し、外部からの力や変化を受け止める生成神の山として機能していた可能性がある。[cite: 13]

これに対し、気延山およびその東麓から杉尾山にかけての一帯には、八倉比売神社を中心として、在地の比売神信仰が展開している。比売神は、水田・穀倉・居住の安定と結びつく存在であり、生活世界を支える保蔵的・内向的性格を帯びる。眉山と気延山は、対立する存在ではなく、生成と保蔵、境界と居住という補完的関係をなす二つの信仰拠点として理解されるべきである。[cite: 14]

第 3 章:古墳配置からみた墓域の階層性[cite: 15]

杉尾山およびその周辺一帯には、徳島県下でも有数の古墳密集地帯が形成されており、その中核をなすのが宮谷古墳である。宮谷古墳は三角縁神獣鏡三面を含む豊富な副葬品が確認されている点で特異であり、また国府の町域を広く見下ろす眺望を備えている。このような立地条件と出土状況から、同古墳は単なる在地首長墓にとどまらず、視覚的・象徴的意味を強く帯びた主墳として位置づけることができる。[cite: 16]

これに対し、杉尾山頂上部には八倉比売古墳一号・二号が確認されており、これらの古墳は規模が比較的小さく、宮谷古墳のような顕著な副葬品が確認されたという記録もない。また、いずれも国府全体を俯瞰できる立地ではなく、地形に溶け込むように配置されている点に特徴がある。[cite: 17]

さらに注目すべき点として、現在の参道および旧参詣路沿いに配置された社や古祠が、いずれも頂部の目立たない小規模円墳の上に建てられている事実が挙げられる。これらの円墳は、巨大首長墓としての性格を示すものではなく、むしろ地域社会における祖霊的・陪祀的存在の墓域であった可能性が高い。複数の祭祀地点が同様の小円墳上に選定されていることは、後世の参道整備に際して、既存の霊威を帯びた微高地が意識的に尊重され、再利用されたことを示唆している。[cite: 18]

以上の配置を総合すると、杉尾山周辺の墓域は、宮谷古墳という象徴的主墳を中心に、参道沿いの小円墳上祭祀地点、頂上部の八倉比売古墳一号・二号というように、段階的かつ階層的に構成されていたと考えられる。このような構成は、単一の巨大墓によって権威を誇示する首長墓制とは異なり、複数の墳墓が機能的に連関する墓域構造として理解することができる。[cite: 19]

第 4 章:東の峰と非埋葬の高所[cite: 20]

杉尾山およびその周縁部に古墳が集中する一方で、それより標高の高い、気延山山頂およびその直下に位置する東の峰には、古墳が確認されていない。気延山の標高は約二百十二メートルであり、地形的に特段の険しさを伴う山ではないにもかかわらず、埋葬施設が存在しない点は注目に値する。[cite: 21]

とりわけ東の峰は、気延山山頂直下という位置にありながら、国府の町域、鮎喰川、さらにその対岸に連なる眉山を一望に俯瞰できる卓越した眺望を備えている。この視界の広さは、周辺に分布する古墳群の立地とは明確に異なる性格を示しており、同地が墓域ではなく、象徴的・祭祀的高所として機能していた可能性を強く示唆している。[cite: 22]

本稿では、東の峰を、国家神話における天照大神そのものが直接鎮座した場所と断定するのではなく、後に天照大神と同定・象徴されることになる女神が、最初に迎えられ、鎮座して祀られた原初の聖地として位置づける。このように理解することで、『八倉比賣大神御本記』に記される迎来・鎮座・遷座の叙述は、在地信仰の展開と後世の神格整理が重層的に反映されたものとして把握することが可能となる。[cite: 23]

古墳が集中する杉尾山周辺と、埋葬施設を伴わない気延山山頂域および東の峰との対照は、死者を葬る空間と、神や霊威を迎え、鎮め、顕現させる空間とが意識的に分離されていたことを示すものと考えられる。すなわち、墓域は生活圏に近接した斜面や周縁部に配置される一方、象徴的高所は埋葬を忌避する聖域として保持されていた可能性がある。[cite: 24]

後世において東の峰が「元宮のあった場所」と語られてきた背景には、このような地形的条件が深く関与していると考えられる。本稿では、同伝承の真偽を断定する立場は取らないが、国府・水系・対岸山地を同時に視野に収める地点が、祭祀的想像力を喚起する場となり得たことは否定できないであろう。[cite: 25]

第 5 章:『八倉比賣大神御本記』の儀礼的性格[cite: 26]

八倉比売神社に関して伝わる『八倉比賣大神御本記』については、近年、その記載内容を天照大神(大日孁女命)の葬送儀礼を記した文書と理解する説が提示されることがある。そこでは、八百萬神の神楽が「嘘楽」と表現されている点や、伊魔離神の先導、大地主神・木股神・松熊二神の関与、広浜神による神衣奉調といった役割分担が、葬儀の進行を想起させるものとして読まれてきた。しかしながら御本記の該当部門を精読すると、「嘘楽」ではなく「唬楽」と書かれており、神を迎える喜びの神楽を表している。[cite: 27]

更に、『御本記』本文全体の構成を精査すると、神宝(弓矢)の奉蔵による聖地設定、神の降臨、河川や地名の成立、鎮座地の選定と導き、供幣と饗応、神衣の奉調、宮造営、神集いと神楽、神井・神田の設置、さらに推古天皇元年における遷座の宣託とその正当化へと叙述が段階的に展開しており、単一の葬送行為を記録した文書というよりも、神を迎え入れ、当地に奉斎し、恒久的に鎮座させ、後に遷座する過程を説明する儀礼的文書として理解する方が全体として整合的である。[cite: 28]

とくに「迎来」「待志」「鎮座」「住在処」といった表現は、儀礼の目的が神の滞在と定着にあることを明確に示している。また「唬楽」についても、本文中では神々が集い祝う特別な場面における神楽として位置づけられており、死や埋葬を直接示す語句と結び付けられてはいない。この点からも、「唬楽」を葬送神楽と断定することには慎重であるべきであろう。[cite: 29]

『八倉比賣大神御本記』後半に記される推古天皇元年の遷座記事は、しばしば本文成立後に付加された補足的記述、あるいは後世の編集による追記として軽視されがちである。しかし本稿では、この遷座記事を『御本記』全体の叙述構造を理解するうえで重要な要素として位置づける。[cite: 30]

古代の神祀りにおいて、神は抽象的な存在としてではなく、特定の場所に迎え入れられ、そこに鎮まり、祭祀を通じて祀り続けられる存在として理解されていた。そのため、神が別の場所に移される場合には、同一の神として祀りが継続されることを説明するための物語構造が必要となる。[cite: 31]

『御本記』においては、①神を迎え入れること、②一定の場所に鎮座させて祀ること、③時代の変化に応じてより適切な場所へ遷座させること、という一連の流れが意識的に構成されている。この構造を前提とすると、推古朝の遷座記事は単なる後日談ではなく、神の祀られ方が継続的に正当化されていく過程を示す重要な要素と理解できる。[cite: 32]

したがって、『御本記』を天照大神の葬送儀礼を記録した文書とみなす解釈には慎重である必要がある。葬送儀礼であれば儀礼は一度きりで完結し、その後の鎮座地の変更を詳述する必然性は乏しい。しかし『御本記』が神を迎え、鎮め、祀り続ける過程を示す由来書であると理解するならば、推古朝における遷座の記述は、むしろ不可欠な構成要素であると位置づけられる。[cite: 33]

すなわち、『御本記』において八倉比売神は、一時的に顕現して消え去る存在ではなく、特定の土地に迎えられ、鎮まり、神田や水利と結びついた生活世界の中で祀り続けられる神として描かれている。その神が後世において遷されたという事実は、信仰の断絶を意味するのではなく、むしろ「場所が変わっても神としての正統性と霊威は継続している」ことを示す必要性を生じさせたのである。[cite: 34]

推古朝遷座記事は、この点を明示するために不可欠であった。神はこの地に迎えられ、確かに鎮座したが、時代の変化に伴い遷された。しかしそれは神の否定や放棄ではなく、正当な宣託に基づくものであり、八倉比売神としての連続性は保持されている――この論理を提示することによって、『御本記』は在地祭祀の歴史的正当性を時代を超えて保証しようとしている。[cite: 35]

以上のことから、『御本記』後半の神が気延山山頂に鎮座してから2105年推古朝に遷座した記事は、本文とは切り離された付加的記述ではなく、神の迎来から鎮座、祭祀の成立、そして後世における変化までを一続きの過程として説明するための結節点であると評価できる。『御本記』は、神を「葬る」ための文書ではなく、神を迎え、祀り続け、時代を超えて継承するための論理を構築した儀礼的叙述文書なのである。[cite: 36]

その為に蜂須賀家が正史に近い扱いをし、八倉比売神社の神格の正当性を示すものとして扱い、信仰を深めたのだろう。[cite: 37]

以上のことから、本稿では『御本記』を天照大神の葬送儀礼を記した史料であると断定する立場は取らず、神を迎え入れ、鎮座させ、後に遷座する過程を正当化・説明する儀礼的叙述を含む文書として位置づける。この理解は、近年提示されている諸説の是非を論争するものではなく、本文そのものの構造と語彙配置に即した一つの解釈として提示するものである。[cite: 38]

第 6 章:近世における境内再編と盛氏一族の寄進[cite: 39]

現在見られる八倉比売神社境内の空間構成は、近世、とくに江戸後期における継続的な整備の結果として形成された側面が大きい。八倉比売神社では、近世後期に石段や灯籠、本殿改築など社域の整備が進められたことが確認でき、その一部は元文年間にさかのぼる。[cite: 40]

本殿玉垣内にある盛氏寄進の石灯籠(元文3年 1738年)は古い形の崩れた狛犬とともに、本殿が、少なくともそれ以前に建立されたことを明確に示している。[cite: 41]

現存する物証として、境内に残る寛延2年(1749年)建立の石灯籠には八倉比売神社と刻まれている。また石段に残る盛氏寄進の石灯籠は安永3年(1774年)の建立であり、そこには「八倉姫」の神名が刻まれている。これは、少なくとも近世後期の段階において、社殿や境内の整備が進んでおり、当該神社が「八倉比売」または「八倉姫」と称されていたことを示す確実な資料である。これを前後して、石井出身の藍商・盛氏一族による寄進が世代を超えて継続された。[cite: 42]

江戸期には、本殿改築、石鳥居の建立、参道の体系的整備が行われ、境内空間は段階的に再編されていった。[cite: 43]

表1:盛氏等による主な寄進記録[cite: 44]

年代 寄進者名
元文3年 (1738年) 9月13日 盛 孫兵衛、盛 茂兵衛
寛延2年 (1749年) 9月13日 盛 源助
明和5年 (1765年) 9月13日 盛 善左衛門
明和6年 (1769年) 山端 総兵衛、盛 善左衛門
明和5年 (1765年) 9月13日 盛 六郎右衛門
安永2年 (1773年) 盛 惣八 他 6 人
安永2年 (1773年) 盛 弥兵衛 他 6 名
安永2年 (1773年) 幸田 興右衛門 他 2 名
安永2年 (1773年) 佐藤 平尾 他 3 名
安永3年 (1774年) 9月13日 盛 六郎右衛門
安永3年 (1774年) 正月吉日 阿波屋大坂
安永4年 (1775年) 米原 周左衛門
文化10年 (1813年) 正月吉日 ( ※ 記載なし)
文政13年 (1830年) 美馬 壱左衛門
[cite: 45]

表1に示された寄進記録において、とくに注目されるのは「九月十三日」という日付が複数回(元文三年、寛延二年、明和五年、安永三年など)確認される点である。[cite: 46]

旧暦の九月十三日は「十三夜」として知られる名月の日であるが、同時に『天石門別八倉比売大神御本記』において「遷座したのは九月十三日である、よって、この日を以って御霊(みたま)の現れし日として奉るのである」と記される、同社にとって極めて重要な祭礼の日(遷座および御霊顕現の日)に該当する。[cite: 47]

安永年間を中心とする時期に、盛氏らによる石碑や灯籠の奉納が、この祭神顕現の日に合わせて行われている事実は重要である。これは、当時の商人たちが単に財力を誇示するために寄進したのではなく、『御本記』に記された伝承と祭祀暦を深く理解し、それに同期する形で奉納を行っていたことを示している。[cite: 48]

すなわち、石碑に刻まれた「九月十三日」という日付は、『御本記』の記述が江戸時代中期において単なる文書上の知識にとどまらず、実際の祭礼として実践され、人々の信仰の核として機能していたことを裏付ける実証的証拠と評価できる。[cite: 49]

更に現在でも新暦の10月13日に秋大祭として産子たちにより祭り続けられていることに注目する必要がある。[cite: 50]

なお、八倉比売神社では、蜂須賀家の正式家紋である逆さ卍ではなく、古い家紋とされる抱き柏紋が神紋として用いられている。[cite: 51]

注目すべきは、その参道構成である。参道の起点には、三角縁神獣鏡三面を含む副葬品が出土した宮谷古墳が位置づけられ、途中の節目には天石門別神を奉斎する地点が設けられている。また、寛政期に築かれた地神塔や、延享三年建立と伝えられる古祠は、完全に撤去されることなく、主動線からわずかに外れた境界的な位置に保存されている。これらはいずれも、在地信仰を否定・破壊するのではなく、整理・階層化しつつ再配置するという近世的聖地再編の姿勢を示すものである。[cite: 52]

盛氏一族による境内整備は、単なる美観や社格の向上を目的としたものではなく、古墳、文献、神名、在地信仰を一体化させ、参拝者がそれらを順次体験できる空間構成を生み出した点に特徴がある。[cite: 53]

とくに注目されるのは、本殿玉垣内にある盛氏寄進の石灯籠(元文3年 1738年)と、弘化3年(1846年)に行われた本殿および参道の整備との年代差である。この両者の間には約100年以上の隔たりがあり、八倉比売神社の境内整備が単発的な事業ではなく、複数回にわたる段階的改築・整備として進められてきたことを示している。この点は従来あまり指摘されておらず、近世における八倉比売神社の再編が、長期的視野に立った継続事業であった可能性を示唆する重要な事実である。[cite: 54]

別注1:社名変遷と改築年代をめぐる整理[cite: 55]

八倉比売神社の社名変遷および境内改築の時期については、杉尾神社から八倉比売神社へと直線的に改名・改築が行われたかのように説明されることが多い。しかし、長年現地を参拝しつつ関連資料を検討する中で、この理解には整理を要する点があることを感じてきた。[cite: 56]

現存する物証として、境内に残る寛延2年(1749年)建立の盛氏と矢野両村氏子中寄進の石灯籠には八倉比売神社と刻まれている。また石段に残る盛氏寄進の石灯籠は安永3年(1774年)の建立であり、そこには「八倉姫」の神名が刻まれている。これは、少なくとも近世後期の段階において、社殿や境内の整備が進んでおり、当該神社が「八倉比売」または「八倉姫」と称されていたことを示す確実な資料である。[cite: 57]

一方で、社殿や鳥居を含む大規模な境内整備については、書誌類において幕末、とくに弘化3年(1846年)頃を中心とする改築として位置づけられており、さらに社名表記の整理は明治初期の制度的措置によるものと考えられる。[cite: 58]

これらの年代的事実は相互に矛盾するものではなく、奉納の開始、境内の大規模改築、社名の制度的確定という異なる段階が存在したことを示している。しかし後世の説明において、これらの段階が十分に区別されないまま語られてきた結果、社名変遷や改築年代に関する理解が単純化され、一般の参拝者にとって分かりにくい状況を生じさせてきたと考えられる。[cite: 59]

本注は、こうした混乱を解消するため、物証と書誌の時間層を整理して示すことを目的とするものであり、特定の説を断定するものではない。むしろ、八倉比売神社が近世から近代にかけて段階的に整え直されてきた過程を、時間の重なりとして理解するための基礎的整理として位置づけたい。[cite: 60]

結語:重層的聖地としての八倉比売信仰[cite: 61]

本稿では、阿波国府周辺、とくに気延山・杉尾山一帯を対象として、地形・水系・古墳配置・文献史料・近世の境内再編を総合的に検討し、八倉比売信仰が形成されてきた過程を明らかにしてきた。吉野川扇状地と鮎喰川扇状地の結合点に位置する国府の立地、眉山と気延山の対峙的かつ補完的関係、宮谷古墳を主墳とし周縁に小円墳が連なる墓域の階層構造、埋葬を伴わない象徴的高所としての気延山山頂域および東の峰の存在は、当地が単一の時代・単一の信仰によって形成されたものではないことを示している。[cite: 62]

さらに、『八倉比賣大神御本記』の叙述構造を検討することにより、同書が神を迎え入れ、鎮座させ、後に遷座する過程を説明する儀礼的文書として理解し得ることを示した。また、江戸期における盛氏一族の継続的寄進と境内再編は、古代以来の祭祀空間を破壊するのではなく、再編集し、可視化する役割を果たしてきたと評価できる。[cite: 63]

以上を踏まえると、八倉比売信仰は、在地の比売神信仰を基層とし、阿波忌部文化、近世的聖地再編、さらに近代以降の言説が幾重にも重なって成立した重層的聖地として位置づけられるべきである。また、『八倉比賣大神御本記』後半に記される真名井の井戸や神に捧げる御田(神田)の設置は、八倉比売信仰が抽象的神話にとどまらず、水の管理と稲作という具体的生業と結びついた信仰であったことを示している。[cite: 64]

これらの要素は、気延山麓から国府扇状地にかけての水系と耕地利用の実態と照応しており、八倉比売神社が生活世界と密接に結びついた祭祀拠点であったことを理解する上で重要である。さらに、神に捧げる御田(神田)は「御供田(ごくでん)」や「内の御田」として現在も地名に残っており、祭祀と生業とが観念的な神話の次元にとどまらず、地域社会の土地利用と記憶の中に具体的に継承されてきたことを示している。[cite: 65]

とりわけ注目されるのは、真名井の井戸と御供田との具体的な関係である。現地では、御供田へ水を供給していた水源が真名井の井戸であったと伝えられており、両者は祭祀と生業を結ぶ実質的な水利関係によって結び付けられている。この真名井の井戸は、五角形の石組みによって構成されている点で特異であり、同様に八倉比売神社上部に位置し御陵と称される祭壇も五角形の平面構成をもつ。[cite: 66]

両者の形状上の共通性は、水の供給点と祭祀の中枢とが、意識的に同一の象徴的造形によって対応づけられていた可能性を示唆するものである。[cite: 67]

すなわち、真名井の井戸から御供田へと注がれる水の流れと、五角形の御陵において顕現される霊威とは、視覚的・象徴的にも重ね合わされ、八倉比売信仰における水・稲作・祭祀の不可分性を具体的に示す構造となっている。この点は、現地を訪れる参拝者にとっても直感的に理解され得る要素であり、八倉比売神社が抽象的神話空間ではなく、実際の水利と農耕実践に根差した信仰拠点であったことを示す重要な指標といえよう。卑弥呼や邪馬台国阿波説といった理解は、この長い信仰景観の最上層に付加された一つの語りとして、冷静に位置づけることが可能であろう。[cite: 68]

また、矢野古墳直上には、アマテラス迎来神とされる広浜神を祀る小社(広浜神社)が所在し、近年再建された。境内石灯籠には天明5年(1785年)の刻銘があり、再建に際しては八倉比売神社宮司による祭事が行われている(2025年3月8日現地確認)。[cite: 69]

また、八倉比売神社では本殿・拝殿の改築が進められており、他県在住者の寄進と関与によって修復が実現している。これらの事例は、同社信仰が現在においても人々の関与によって継続されていることを示している。[cite: 70]

以上の検討から、八倉比売神社およびその周辺は、古代の古墳祭祀、近世以降の社殿整備、そして現代における再建・修復という複数の時間層が重なり合う場として理解される。これらは過去の遺構として固定されたものではなく、人々の関与によって繰り返し更新されてきた信仰実践の集積であり、同地は現在においても「重層的聖地景観」として生き続けている。[cite: 71]

なお、気延山北東部には、やや時代の下る古墳として矢野古墳・尼寺古墳が分布し、また白鳥神社を中心とする倭建命(ヤマトタケル)系伝承も展開しているが、これらは本稿で扱った八倉比売信仰の形成段階とは時間層を異にするため、詳細な検討は別稿に委ねたい。[cite: 72]

参考史料・文献[cite: 73]