これは、徳島県立図書館デジタルアーカイブ所収の『杉の小山の記』をできるだけ忠実に現代語訳したものである。しかしながら難解のところもあり、誤記や誤訳が多々あると思われる。また著者名などに明らかに間違っていると思われる箇所もあるがそのまま書き留める。
阿波国矢野の人、柳の園に住む森眞秀が本書を携えて来訪し、自身には推敲の力が十分でないため、加筆修正を求められた。そこでこれを閲覧したところ、本書は名西郡矢野村に鎮座する杉尾神社の由緒を記したものであった。本書は、もともと古くから社家に伝来した記録を基にし、古代の書記法に従って正字および真仮字を交えて書かれた文書である。
ただし、原文には読み下しが困難な箇所も散見されるため、本書の内容を損なうことなく、仮名書きによって改めて書き改められている。その執筆者は、出雲国杵築の人、出雲宿禰俊信である。俊信は、同国の先代国造某君の弟であり、現国造にとっては叔父にあたる人物である。すなわち、神系を引く尊貴な出自を有し、かつ古代学の伝統においては本居宣長(鈴屋翁)の門弟として、長年にわたり学識を積み、志操の篤い人物であった。この点から見て、本書に記された内容に虚偽が含まれるとは考え難い。もっとも、本書の原本は古記であるため、細部においては全く疑義がないとは言い切れない部分も存在する。これは、写本が人の手によって繰り返し書写される過程において、誤写や改変が生じることが避けられないためであろう。
『万葉集』巻一に見える矢野神山の歌については、奥書に「柿本朝臣人麻呂之歌集に出づ」との記載があるが、必ずしも人麻呂の自作と断定することはできない。また、その歌の詠作地についても確定することは困難である。『秋寝覚』には伊予国と注記されているものの、これを確証とするにはなお検討の余地がある。さらに後世の歌は、この万葉歌に依拠して題詠として詠まれたものであり、その内容から当該地を比定することはできない。枕詞として用いられる「梓弓」もまた、地名比定の直接的な根拠とはなり得ない。
これに対し、確実な史料として注目されるのは、『続日本後紀』承和八年八月戌午条に「奉授阿波国正八位上天石門和気八倉比売神従五位下」と見える記事、ならびに『三代実録』元慶三年六月壬午条に「授阿波国正四位下天石門別八倉比売神正四位上」と記される記事である。これらの神階叙任の記事は、年代・対象ともに明確であり、史料的信頼性はきわめて高く、疑う余地はほとんどない。
天保二年四月、これを書き写す。
伊国(伊勢) 本居太平。
この書は、阿波国名西郡矢野村に鎮座する杉尾神社の由緒を記したものである。もとより、社に伝えられてきた古い記録であり、近年になって新たに作られたものではない。文字は、古い書式をまじえて書かれており、読み取りにくいところも多いが、原本の意を損なわぬよう、できる限りそのまま写した。
この記に見える神々の名や、神社の由来については、延喜式神名帳やその他の古い記録とも照らし合わせたが、大きな食い違いは見られない。また、後の時代になって付け加えられたと思われる説は、ここでは取り上げていない。ただし、この書に記されたことがすべて誤りなく正しいと断定するものでもない。後にこれを読む人は、他の古記や伝承とも照らし合わせ、慎重に考えるべきである。
阿波国の神については、占いや勘文など、後の時代に作られた記録には見えない事柄も多い。しかし、文献によって確かめることのできる事実もある。『諸神記』および『承平年録記』には、天徳三年三月二十五日、この神に正一位を授けたと記されている。したがって、ここに記されている内容は、後世に作り出された話ではなく、古くから伝えられてきた社の記録であると考えられる。
また、この神は天石門和気八倉比咩神と称され、阿波国において大神として敬われてきた。しかし、これは社の名を示すものではなく、神そのものの神号として理解されるべきである。『三代実録』には、阿波国正四位下・天石門別八倉比咩神を正四位上に叙したと記されており、この神階の記事は疑う余地がない。以上のように、確かな文献に基づいて、後の世に誤った説を加えることのないよう、ここに書き留めておくものである。また、代々の神階の推移を見ても、阿波国においては大社として扱われてきたことが知られる。これらの点は、本記に記すところである。
天石門別神という名は、石の門を押し開く働きに由来するものである。この神は、天地が分かれ定まる際、岩戸を開いて道を通した功によって、その名を負うようになったと伝えられる。したがって、天石門別神とは、特定の土地に限って生じた神名ではなく、神の働き(徳)を表した称号である。このことは、古事記・日本書紀に見える石戸別神・石門別神といった名とも同じ趣旨である。
このため、天石門別神を祀る社は、阿波国一国に限られるものではない。備前国、土佐国、出雲国、また近江国・播磨国・伊勢国など、諸国に同名の神社があることが知られている。これらはいずれも、岩戸を開く神の働きを尊び、その徳をもって祀られたものであり、一国一社と定めるべき性質のものではない。神とは、その功徳によって名づけられるものであり、天石門別神もまた、その例にほかならない。
阿波国における神祀りは、もとよりこの地にあった神々を基として成り立っている。天照大神の御霊をこの国に勧請して社を建て奉ったのも、在地の神々の助けがあってこそであった。すなわち、阿波国の神祀りは、はじめから天津神のみで整えられたものではなく、先行する在地の神祀りの上に重ねられたものである。
阿波国の神々は、まず天照大神を奉斎し、そののち、天石門別神を守護の神として配した。これにより、阿波国の神祀りは、国津神と天津神とが相和して成り立つものとなった。このように、この国の神々は、それぞれの役割を分かち合い、互いに背くことなく祀られてきたのである。
この地、杉の小山においては、古くからその土地そのものを神として敬い、これを地主神として祀ってきた。この地主神は、社殿を建てて祀る以前より、山・地形・水のはたらきとともに人々の生活を守ってきた神である。したがって、この地の神祀りは、ある神名を掲げて始まったものではなく、場所に根ざした信仰を基盤として成立したものである。
この地主神の名により、後にこの社は「天石門別八倉比咩神社」と号されるようになった。ここでいう「八倉」とは、土地に伝わる古い呼び名であり、「比咩」は、その地を守る女性神を表す称である。よって、八倉比咩とは、初めから人格神として立てられた名ではなく、在地の地主神を神号として整えた名称である。
この地の神祀りにおいて、大穴持命(大国主神)を祀る社が置かれたのは、在地の神祀りがすでに整えられた後のことである。大穴持命は、国を治め、民を養う神として尊ばれ、国府の設置とともにこの地に祀られるようになった。したがって、大穴持命を祀る社は、この土地の最初の神祀りではなく、政治的・制度的に整えられた段階の信仰である。
この大穴持命を祀る社は、阿波国府の近くに置かれ、国を治める神として公的に奉斎された。これにより、在地の神祀りと、国府に基づく神祀りとは、役割を分かちつつ併存することとなった。すなわち、杉の小山の地主神は土地を守る神として祀られ、大穴持命は国を司る神として祀られたのである。
この地には、地主神のほかにも、古くから祀られてきた在地の神々がある。伊魔離神と称する神は、この国に生まれ、山野に生きる人々を守る神として古くより敬われてきた。また、広浜神と称する神も、海・川・浜に関わる神として、この地の生業を支える存在であった。これらの神々は、中央より来た神ではなく、阿波国そのものに根をもつ神である。
伊魔離神、広浜神のほか、土を司る神、水を司る神、田を守る神などが、それぞれの場所に祀られていた。人々は、山・水・田のはたらきに応じて、神々を分かち祀り、日々の暮らしを守ってきた。これらの在地神は、後に天津神が勧請され、国府の制度が整えられた後も、失われることなく祀り続けられた。
この地には、神々のための水を汲む井があり、これを真名井(まない)と称する。この水は、日照りの年であっても涸れることなく、古くより清浄な神水として神事に用いられてきた。神々に供える食事を調える水も、この真名井の水を用いることとされ、朝夕の祭祀に欠かすことはなかった。
また、この真名井の水によって潤される田を、神田(みた)として定め、神々に供える稲を作ってきた。この田では、穢れたものを用いることを忌み、清らかな作法によって耕作が行われたと伝えられる。水と田とは、神祀りと人の暮らしを結ぶ要であり、この地の神祀りは、水と稲作を中心に営まれてきたのである。
この地には、神のしるしとして伝えられる印璽(いんじ)があり、これを深く秘して祀ってきた。この印璽は、朱(あか)を帯びた土とともに現れ、神の威(みいづ)が目に見える形で示されたものとされる。このしるしを埋めた場所を、印璽の嶺、または御石の峯と称し、古くから特別の地として敬ってきた。
神主や祝部たちは、この神の託宣により、神を遷し奉ることを願い出た。しかし、もし霊験が現れなければ、人々は神を信じないであろうと、そのことを憂慮した。これに対して神は、そのとおりであろうと告げ、しるしを示すことを約したと伝えられる。
神は告げて言われた。わたしの御前にある谷の水を、山の頂へ引き上げ、その水によって田を作り、宮を造るための食料とせよ。すると、一夜のうちに、谷の水は逆に流れ、山の上にまで至った。その水によって作られた田は、よく実り、稲の穂は八束にも垂れ下がるほどであった。この奇瑞によって、人々は神の力を疑うことなく、深く信じ奉ったと伝えられる。
この谷を、左迦志麿谷(さかしまのたに)と称し、この田を、志留志田(しるしだ)と呼ぶ。これらの名は、神のしるしが現れたことに由来する。この田では、不浄の物を肥とすることを忌み、清浄を保って耕作が行われた。後の世に至っても、この作法は守られ、神田として尊ばれてきたのである。
この社では、年ごとに定められた時節に、人々が集い、神に供え物を捧げて祭りを行ってきた。とりわけ、新たに実った稲を供える祭りは重んじられ、家ごとに作物を持ち寄り、神前に供えた。この祭りは、特定の一族のみのものではなく、里の人々すべてが関わる神事として続けられてきたものである。
祭りに際しては、神に仕える者だけでなく、村の老若男女が集まり、ともに食を分かち合った。これにより、神と人、人と人との結びつきが確かめられ、社は共同体の中心として機能してきた。このような祭祀のあり方こそが、この社が長く保たれてきた理由であると、本記は伝えている。
はるか太古、天と地が初めて分かれた時、高天原(たかまがはら)に現れた神の名を「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と申します。次に、国土がまだ若く、水に浮く脂のように漂っていた時、葦(あし)の芽のように萌え出て成った神の名を「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」と申します。
その後、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)が現れました。この二柱の神が、国土や海原、山川、そして諸々の精霊を産み成した後、伊邪那岐神が左の御目を洗った時に成った神の名を「日霊大神(ひのみたまのおおかみ=天照大御神)」と申します。これすなわち、八倉日婁大神(やくらひるめのおおかみ)であります。
大神は高天原にお生まれになり、最初はご自身で武備(軍事)を司っておられましたが、ある時、天石門別神(あまのいわとわけのかみ)に勅命を下されました。「これより後、汝(なんじ)らは私に代わって、天の武備を手ずから引き受けよ」
この頃、須佐之男神(すさのおのかみ)が高天原で乱暴な振る舞いをされたため、大神は持っていた「天の羽々矢(あめのははや)」と「天の麻迦胡弓(あまのまかこゆみ)」を天石門別神にお授けになり、こう仰せになりました。「この弓矢を持って葦原中国(地上)へ降りなさい。そして善き地にこれを隠し納め、二度と(戦いに)用いることのないようにせよ。私もまた天降り、その地を住処としよう」
勅命を受けた天石門別神(とその一族)は、高天原よりこの弓矢を持って降りる際、空中で立ち止まり、「志(こころざし)あるならば、この矢の止まる所を隠し場所としよう」と誓いを立てて矢を放ちました。矢が流れて落ちた地を「矢達(やたつ)の丘」と名付けました(現在の矢陀羅尾)。二柱の神はこの地にやって来て、矢を探し出し、その地を「矢野(やの)」と名付けました。そして矢を納めた場所を「矢の御倉」、弓を納めた場所を「弓の御倉(波宇乃御倉)」と呼びました。その後、二柱の神はこの地に留まり、鎮座されました。これが「松熊二前(まつぐまふたまえ)の神(櫛石窓神・豊石窓神)」であり、今も御矢倉と御弓を守り続けておられます。
その後、八倉比売大神(天照大御神)は、天の八重雲を押し分けて天降りなさいました。最初に「禍乃小川(わざのおがわ)」の清らかな流れをご覧になり、「この川の水は深い(良い)」と仰せられ、また「流れが速い」と仰せられました。ゆえにその地を「早淵(はやふち)の邑(むら)」と言います。その時、地元の神である大地主神(おおとこぬしのかみ)と木股神(きまたのかみ)がお迎えし、川の魚を獲って大神をもてなしました。大神は「ひれが狭い魚(鮎など)であっても、食べるべき良い物だ」と喜ばれました。ゆえにその川を「鮎喰川(あくいがわ)」と名付けました。
大神は二柱の神に「私が住むべき場所へ導きなさい」と命じました。大地主神は答えて言いました。「ここより西の方角に、朝日が真っ直ぐに差し、夕日が照り留まる『気延(けのべ)の嶺(みね)』がございます。その地に行幸されるのがよいでしょう」一行が西へ進み、杉の小山の麓に至ると、眷属である石門別神が出迎え、敬礼して申し上げました。「よくぞおいでくださいました。ここは以前、仰せの通りに御矢を納めた地でございます」大神はたいそう褒められ、この地に一晩泊まられました(これによりこの地を「矢倉の郷」、また「屋度利(やどり)の社」と言います)。
さらに山坂を登り、杉の小山を経て、気延山に到着されると、広浜の神が参上し、季節の御衣(みころも)を奉りました。すなわち、気延山の嶺の、地下深く続く岩盤の上に太い柱を立て、天に通じるように高くそびえるこの社(やしろ)に、大神は正式に鎮まられました。(天の石門を押し開いて鎮座されたゆえに『天石門別』と言い、八倉の郷に鎮座する姫神であるゆえに『八倉比売』と言います。)
この夜、八百万(やおよろず)の神々は集い、「唬楽(えらき)」をなして、神を迎え、この地に鎮め奉りました。「えらき」とは「歓喜咲」とも書き、「恵良岐(えらぎ)」と読みます。「咲き、栄え、楽しむ」という意味です。これは、神の恵みや喜びが兆しとして現れ、人々や土地が栄え、祝福に満たされることを表す言葉です。神々はこのことによって、大神を迎え、土地を祝福し、豊かさの兆しを示す祭儀を執り行ったのです。
その神々が集まった場所を「神集岳(かみつどいだけ)」あるいは「喜多志嶺(きたしのみね)」と言い、その神楽で手に持った草や種々の道具を納めた場所を「加久志(かくし)の谷」と言います。大神は歌をお詠みになりました。
「雲の居る 八倉の郷の気延山 下つ磐根に 宮居そめつも」
(雲が湧き立つ八倉の郷の、気延山の盤石な岩の上に、初めて宮居を定めたことだよ)
また、大泉の神に命じて「天の真名井(あまのまない)」の水を汲ませ、玉の椀(もい)に入れ、朝夕の食事を炊く水とさせました。気延山は、大日孁貴(おおひるめむち)が鎮座されたため、尊んで「神山(かみやま)」とも呼ばれます。
それから二千百五年が経ち、推古天皇の元年(593年)の秋八月。大神は人(毛原美曽持)に神がかりして、こう託宣を下されました。「私の宮がある場所(気延山山頂)は、あまりに高く険しいため、人々は参拝に苦労し、足が遠のいている。『杉の小山(現在の鎮座地)』は、高くもなく低くもなく、遠くもなく近くもなく、まことに善い地である。その嶺に遷座しようと思う。かつて私が天より持ち降った『瑞(ずい)の赤珠(あかだま)の印璽(いんじ)』をそこに深く埋め、天の赤土で覆い隠せ。この赤土は、あらゆる災厄や病を防ぐ不思議な力がある」
神主たちは「遷座すべきですが、もし目に見える奇跡(効験)がなければ、人々は信じないでしょう」と申し上げました。すると大神は「もっともだ」と仰せられ、「私の御前の谷の水を逆流させ、山の頂へ注ぎ上げ、田を作って社殿造営の食糧とせよ」と命じました。すると一夜のうちに、谷の水が逆に流れて山頂に至り、稲がたちまち熟して、八束(やつか)にもなる立派な穂が実りました。(その谷を「サカシマ谷」、その田を「シルシ田」と言います)
人々はこの奇跡を見て恐れ敬い、ただちに杉の小山に立派な社殿を造営しました。大神は「御簾(みす)、日の御簾」の奥深くに隠れ、国家の基盤を守護すると誓われました。遷座が行われたのは九月の「中三日(13日)」でした。それゆえ、今でも九月十三日を、御霊が現れる最も重要な祭日としているのです。
奉授神位。
以上のように、この地に神が鎮まり、人々がこれを敬い奉ってきたことは、一時の出来事ではない。代々にわたり、神を迎え、祀り、供え、守ってきた積み重ねによって、今日に至っている。山の形、谷の水、田の実り、社の営み、そのすべてが神の恵みとして語り継がれてきたのである
このため、ここは単なる一社の縁起ではなく、土地と人と神とが結ばれてきた歴史そのものを記したものといえよう。神を祀ることは、華やかな祭りのみを意味しない。日々の暮らしの中で、慎み、畏れ、感謝し、正しく生きることこそが神への奉仕である。この記は、そうした心のあり方を後の世に伝えるために記されたものである。
願わくは、これを読む者が、この地の神を敬い、その由来を軽んじることなく、永く守り伝えていくことを切に望む。
長月(九月)の三日。此の日をもって御霊が此処に現れた日と奉る神事を執り行い、この記を奉納する。この日、神前にて奉告の儀を行い、あわせてこの書を納めた。後に読む者が、この記の趣旨を誤らず、神の由来と土地の来歴とを正しく知ることを願っている。
右、記して後世に伝える。
右外古言ノ伝有之但必考之
右に挙げた以外にも古い言い伝えがあるが、必ず検討・考証すべきである。