古文書から読み解く荒妙献上と三木家
島田泉山『三木文書考』より

阿波忌部氏(三木家)による大嘗祭への荒妙(あらたえ)調進の歴史的実態を、鎌倉時代から室町時代にかけての古文書と、島田泉山著『三木文書考』の精緻な考証から読み解く。

1. 永仁六年の「官宣旨」

読み下し文

左弁官、阿波国に下す。
早く荒妙の御衣を織り進めしむべき事。
右、権大納言藤原朝臣実泰、宣を奉る。
勅すらく、大嘗祭主基所の料、宜しく国に仰せ、例に依り忌部氏の人を以て織り備えしめ、神祇官の使に附し早く以て進上せしむべし者。
国宜しく承知し、宣に依り之を行ふべし。 会期限り有り、延怠を得べからず。
永仁六年九月 日
右大史中原朝臣 在判
右少弁藤原朝臣 在判

現代語訳

左弁官が阿波国へ下達する。
ただちに荒妙の御衣を織って献上させるべき事。
右の件について、権大納言・藤原実泰が天皇の命を宣達する。
承った勅命によれば、「大嘗祭の主基所で使用する品は、阿波国衙に命じ、先例に従って忌部氏の人々によって織り準備させ、神祇官の使いに託して早く献上させよ」とのことである。
阿波国はこの旨を承知し、この宣旨に従って実行せよ。 期日が限られているので、遅延や怠慢があってはならない。
永仁6年(1298年)9月 日
右大史・中原朝臣 (署名・花押)
右少弁・藤原朝臣 (署名・花押)

島田泉山の解説

本史料は、後伏見天皇の大嘗祭に向けて発給された太政官の命令書(官宣旨)である。朝廷の国政を統括する太政官の実務機関たる弁官局から、地方行政機関たる阿波国へと直接下達された極めて公的性格の強い文書である。
本史料の最大の眼目は、「例に依り忌部氏の人を以て(先例に従って忌部氏に織らせよ)」という一文にある。鎌倉時代後期(1298年)の段階において、大嘗祭における阿波忌部氏(三木家)の荒妙調進が、一時的な抜擢ではなく、国家の厳格な「先例(公式な制度)」として確立・認識されていた事実を実証している。「会期限り有り、延怠を得べからず」という結尾の強い文言からは、神事の期日に対する中央政府の強い緊張感が看取される。

本サイトの考察・見解

本史料において、朝廷の最高実務機関たる太政官の正式な書式が精緻に保持されている点にまず注目すべきである。ここには、阿波忌部(三木家)が「単なる在地領主ではなく、天皇家の代替わりという国家の最重要祭祀に直結する特別な家柄である」という強烈な誇りが投影されている。その権威を外部(守護や他氏族)に誇示・証明することは、在地社会を生き抜くための切実な要請であったに違いない。中央の権威を自らの特権維持の盾として機能させようとした、在地社会のダイナミズムが読み取れる。

2. 延慶二年の「太政官符」

読み下し文

太政官符す、阿波国司。
使 従五位下斎部宿禰□□
神部 一人
右、神祇官の解を得るに称すらく、大嘗会の荒妙の御衣を織り進めしめんが為、件の等の人を差し、例に依り申し送ること件の如し者。
国宜しく承知し、件に依り之を行ふべし。 符到らば奉行せよ。
修理右宮城使従四位上行右中弁藤原朝臣 判
正五位上行左大史小槻宿禰 判
延慶二年九月 日

現代語訳

太政官から阿波国司へ符(命令書)を下す。
使い:従五位下・斎部(忌部)宿禰□□
神部 一名
右の件について、神祇官からの上申書を受け取ったところによると、「大嘗会の荒妙の御衣を織り献上させるため、上記の者たちを派遣し、先例に従って申し送ることは右の通りである」と称している。
阿波国は承知し、この件に従って実行せよ。 符が到着しだい奉行せよ。
修理右宮城使・従四位上・行右中弁・藤原朝臣 (判)
正五位上・行左大史・小槻宿禰 (判)
延慶2年(1309年)9月 日

島田泉山の解説

本史料は、花園天皇の大嘗祭に際して発給された公文書であり、国家命令の厳密な伝達および決裁ルートを如実に示している。
祭祀を専門とする神祇官には、諸国へ直接命令を下す法的権限が付与されていなかった。そのため、神祇官はまず上位の行政機関である太政官へ上申書(解)を提出し、それを受理した太政官が阿波国司に対して正式な命令書(符)を発給するという、律令制に基づく厳格な行政手続きが踏まれている。荒妙調進に際し、中央から忌部の勅使と神部が阿波へ派遣されるという物理的な動態も確認し得る史料である。

本サイトの考察・見解

神祇官から太政官を経由して国司へ下るという、律令制本来の煩雑な行政手続き(解と符のヒエラルキー)が正確に描写されている点は、本史料の史料的価値を担保する一助となっている。古代・中世の公文書の書式や官制に対するこれほど深い知識が三木家周辺に継承されていたという事実は、彼らの極めて高い学識を示すものである。現地へ中央から「使」が派遣されるという物理的な動態は、大嘗祭という国家的行事が阿波の山間部と京都を直接繋ぐ、強烈な非日常のイベントであったことを物語っている。

3. 「国宣旨」

読み下し文

大嘗会主基方、当国の荒妙の神服並びに由加物等の使、親春・親行申す祭物進擬・雑事等の事業清状、副申状かくの如し。 子細は見状にあり。 歎くらくは例に任せ、恐るべく下知せしめ給うべきの旨、仰せ下され候なり。 仍って執達件の如し。

現代語訳

大嘗会の主基方にあたる当国(阿波国)の荒妙の神服および由加物(ゆかもの)などについて、使者である親春と親行が申し入れた祭物の手配や雑事などの業務に関する清書および副申書はこれにある通りである。 詳細は文書を見ればわかる。 彼らの要請について先例に任せ、謹んで下知を下されるようにとの旨が仰せ下された。 よってこのように通達する。

島田泉山の解説

本史料は、中央(太政官)からの命令を受領した後、阿波国内(あるいは阿波国衙と関係者の間)において交わされた、具体的な現場の実務処理に関する文書である。
大嘗祭の主基方に定められた阿波国において、荒妙や由加物(祭祀に用いる神聖な供進物・付属物)を実際に準備・手配する現場の担当者(親春・親行)が、作業の計画や進捗に関する詳細な報告書(清状・副申状)を提出し、それに基づく正式な承認と指示(下知)を要請している。中央の権威的命令にとどまらず、それを受容した現地の阿波において、いかに実務的かつ緻密な準備作業が展開されていたかを裏付ける貴重な記録と言える。

本サイトの考察・見解

中央の華々しい儀式の裏側で、現地の担当者(親春・親行)が物資の調達や雑務に奔走し、その詳細な報告と決裁を求めている泥臭い実務の側面がよく表れている。「由加物(ゆかもの)」といった祭祀に関わる具体的な物品の調達記録は、阿波忌部が単に機織りの技術だけでなく、地域の産物を束ねて神事へ供進する「経済的なオーガナイザー」としての機能も果たしていたことを示唆している。こうした現場の報告機能の存在は、組織としての高い自立性を窺わせる。

4. 島田泉山著『三木文書考』解説文と重要論点

島田泉山 解説文

この文書は後伏見天皇の大嘗祭の際に下された官宣旨の写しである。弁官局において大史がこれを作成し、右少弁が連署して、阿波国へ下したものである。

〇荒妙:「妙」は当て字であり、「栲(たえ)」の字が本来の意味である。木綿、麻、あるいは葛などで織られた布類に属するものは、その織り地が荒々しいことから、これを荒妙と称したのである。しかしここでの荒妙は、必ず麻を績(うみ)んで織ったものである。大嘗祭における神衣祭の荒妙衣は、麻績氏(おみうじ)が作るよう規定されている。神事に用いる荒妙服は、必ず麻を績んで織ったものであることは明白である。そしてこの荒妙が生織(きばた)なのか晒(さらし)なのかについては、特別に規定したものは無いが、必ず漂白したものであることは明らかである。

古代の荒妙の具体的な織り方を知ろうとするなら、遺物に求めるのが一番である。荒妙の遺物は見ることができないが、その類似品である布の遺物は随所で発見することができる。すなわち、古い寺院の廃墟に残る布目瓦の「布目」がそれである。木工寮の規定に瓦の作り方が定められており、瓦の裏に敷く布に商布を充てることが記されている。商布と太布は元来同じ物である。布目瓦に見る布目は随分荒々しいもので、ほとんど太布と等しいのである。古代の荒妙は、間違いなく特別に荒々しいものであったと信じて疑わないのである。

〇御衣(みそ):大嘗祭において、悠紀(ゆき)と主基(すき)の両殿に神座を設け、天照太神をお召しになるものとして神座の上に供えられる神服である。『令義解』の解釈に従えば、大嘗祭は天神地祇を祭る儀式とする説があるが、悠紀・主基での儀式は天照太神をお祭りになるのである。

〇忌部氏人:「いわふ」とは「祭る」と言うのと同じである。「いわふ」と「いむ」は正反対であり、「いむ」を忌部と言うのは、言葉の上では妙に感じられるが、これは「いわふ」が故に「忌む(けがれを避ける)」のであって、「いわふ」が主であり、「忌む」は従なのである。

〇神祇官之使:神祇官は大政官の外に独立して、神祇の祭祀を司る。阿波国への勅使は斎部氏が派遣される例になっていたため、この神祇官の使は斎部氏と見て差し支えない。

泉山説が提示する重要論点(当サイト編)

島田泉山の解説は、文献史学・考古学・神道神学を横断して自説を展開する極めて意欲的な論考である。


1. 「布目瓦」を物証とした荒妙のテクスチャ復元

「古代の荒妙の遺物が存在しない」という限界を、『延喜式』の記述と廃寺の「布目瓦」を接続することで突破している。瓦作りの工程で敷かれた商布(太布)の粗い布目を物証とし、「太古の遺風を伝える荒妙は、この太布以上に荒々しい織物であったはずだ」と推論するアプローチは白眉である。

2. 通説を排する強烈な大嘗祭・祭神論

『令義解』に端を発する「大嘗祭の悠紀殿では天神を、主基殿では地祇を祭る」という通説に対し、大嘗宮での儀式はあくまで「天照太神」を降臨させて神膳を供えるものであると断言している。

3. 「忌部(いんべ)」の語源と本質への鋭い洞察

忌部という氏族の本質について、穢れを避けること(忌む)よりも、神を祀ること(斎ふ)こそが主目的であったと看破している。言語学的・民俗学的な考察から職能の真髄を突いている。

本サイトの考察・見解

島田泉山氏の論考は、郷土の歴史に対する並々ならぬ熱情と、考古学的な知見(布目瓦)までも動員して「失われた実像」に迫ろうとする実証的態度の結晶である。特に「忌部」の語源を「忌む」ではなく「斎ふ(祭る)」を主体とする解釈は、現代の民俗学の視点からも極めて妥当性が高い。島田氏の多角的なアプローチは「史料に書かれた内容から、当時の社会の何を復元できるか」という歴史学本来のダイナミズムを提示しており、我々が本史料を探求する上での重要な羅針盤となっている。

5. 文応元年の「斎部氏下文」(宗末入道宛)

読み下し文

斎部氏下文 (花押)
下す 宗末入道所。
早く先例に任せ、氏の百姓等の沙汰を致すべきこと。
右、件の氏人等は凡そ当たる所の符物代有限といえども、氏の所役に於ては沙汰を致すべきなり、状くだんのごとし。
文応元年十一月二十四日
宗末入道 所

現代語訳

斎部氏(忌部氏)からの下文 (花押)
通達先:宗末入道の所
速やかに先例に従い、氏の百姓たちを指揮・管理(沙汰)すべきこと。
右の件の氏人たちは、一般に負担すべき太政官符による臨時の課税(符物代)には限度がある(免除特権がある)といえども、忌部氏独自の役目(所役)については、しっかりと指揮・管理を実行すること。以上の通りである。
文応元年(1260年)11月24日
宛先:宗末入道 所

島田泉山の解説

中央の斎部氏(忌部氏)から、現地の阿波忌部の一族である「宗末入道」宛てに出された命令書です。当時の阿波忌部が抱えていた「氏百姓(氏族の領下にある農民)」に対する支配権と、国家的な臨時課税(符物)からの免除特権を持っていたことが読み取れます。国家の税は免除されても、大嘗祭の荒妙調進などに直結する「氏族独自の役目(氏所役)」は厳格に果たすよう命じており、在地社会における忌部氏の特異な立ち位置が示されています。

本サイトの考察・見解

「国家の臨時課税(符物代)の免除特権」を明記している点に注目したい。鎌倉時代、国衙や守護からの過酷な課税に対して、神事に関わる特権階級が「神役」を理由に課税逃れを主張する事例は各地で見られた。在地領主がいかにして既得権益を正当化し、守り抜こうとしたかという切実な論理構成がよく表れている。自らの支配基盤を強化するために「中央の斎部氏の権威」を拠り所とした在地社会のダイナミズムが読み取れる。

6. 文応元年の「斎部氏下文」(宗時入道宛)

読み下し文

斎部氏下文
下す 宗時入道。
早く先例に任せ、上御殿人(かみのみどのびと)と為すべきなり。
右、左右の長者に随うべからざる者なり。先例限り有り、御殿人と為すの状くだんのごとし。
文応元年十二月二日
宗時入道 所

現代語訳

斎部氏(忌部氏)からの下文
通達先:宗時入道
速やかに先例に従い、上御殿人(かみのみどのびと)とする。
右の者は、左右の氏長者の指示に従うべき者ではない。先例として定まっており、御殿人とする旨は以上の通りである。
文応元年(1260年)12月2日
宛先:宗時入道 所

島田泉山の解説

前項の文書のわずか数日後に出されたものです。「宗時入道」という人物を「上御殿人(かみのみどのびと)」という特別な役職に任命しています。注目すべきは「左右の長者(現地の氏族を統括するトップ)の指示には従わなくてよい」と明記されている点です。これは、中央の斎部氏や神祇官と直結する特殊な地位を与えられたことを意味し、当時の阿波忌部内部における複雑な階層構造や、権力の分散状態を窺い知ることができます。

本サイトの考察・見解

「左右の長者に随うべからざる者なり」という一文は、阿波忌部内部での主導権争いや独立志向の兆しを如実に示している。特定の個人(宗時)が中央権力と直接結びつくことで、現地でのトップ(氏長者)の統制から脱却しようとする動きである。氏族が一枚岩ではなく、祭祀の利権や地位をめぐって内部で階層化し、競合関係にあったことがわかる。三木家内の特定の家系が、他家に対して自らの優位性を主張する過程で、このような「独立特権」の記憶がより強く意識され、文書として定着していった歴史のプロセスも考慮に入れる必要があるだろう。

7. 延慶二年の「勅使神祇権大祐下文」

読み下し文

勅使神祇権大祐(ごんのだいじょう)下文
下す 氏人黒女間の事。
右、左右の長者 止行・信 違乱(いらん)の上は、黒女においては治部丞友村の進止と為すに限りあり。所役に随い諸事先例に任せ、懈怠なく沙汰を致すべきの状、勅使の仰せに依り執達くだんのごとし。
延慶二年十二月十六日
勅使神祇権大祐 (花押)
大使左衛門少尉 (花押)

現代語訳

勅使である神祇権大祐からの下文
通達先:氏人の黒女(くろめ)に関する事
右について、左右の長者である止行と信が不法行為(違乱)に及んだため、黒女については治部丞友村の管理・指揮下(進止)とする決定をした。氏の役目(所役)に従い、諸事とも先例に任せて怠ることなく処理(沙汰)すべきであるという文書を、勅使の仰せによってここに通達する。
延慶2年(1309年)12月16日
勅使神祇権大祐 (花押)
大使左衛門少尉 (花押)

島田泉山の解説

この文書は、花園天皇の大嘗祭(延慶2年11月)が無事に終わった直後の12月に、現地へ派遣されていた中央の勅使から出されたものです。氏長者である「止行」と「信」の二人が何らかの揉め事や違反(違乱)を起こしたため、その処罰的措置として「黒女」という氏人を別の役人(友村)の管轄下に移すという裁定を下しています。大嘗祭という国家の一大事業の裏側で、現地の阿波忌部内部で権力闘争やトラブルが発生していたこと、そして中央の勅使が現地に滞在して直接的な司法・行政権を行使していた生々しい実態を伝えています。

本サイトの考察・見解

氏長者というトップの役職者が「違乱(不法行為)」を起こし、中央の勅使によって管轄権を剥奪されるという事態は、当時の阿波忌部の内部統制がかなり動揺していたことを示している。大嘗祭という巨大プロジェクトの遂行過程で、利権や労働配分を巡る対立が表面化したものと推測される。「黒女(特定の領民や神人集団か)」の進止(支配権)の移動が罰として機能している点も、当時の支配構造の根幹が「人への支配」にあったことを物語る。中央の勅使が現地の司法裁定者として機能している点は、在地社会にとって中央の権威がいかに絶対的な調整機能を持っていたかを示している。

8. 暦応元年・正慶元年の「御衣御殿人契約状」など

読み下し文

(暦応元年の執達状)
右、かの左近允の者は、往古より勅使御殿人と為し課役を致すの上は、向後さらに長者等乱妨を致すべからざるの由、勅使殿仰せられ候なり。 仍って執達くだんの如し。
暦応元年十一月二日 御代官重秀

(御衣御殿人契約状)
契約 阿波国御衣御殿人子細の事
右、件の輩は御代最初御衣御殿人たるゆえは、相互に御殿人中自然の事あらば、是を見妨(みさまた)げ聞妨ぐべからず候。 此の上は衆中にひょう定をかけ、其の儀あるべきものなり。 但し十人あらば七八人儀につき、五人あらば三人儀に付くべきものなり。 但し強盗・山賊・海賊・夜討において候ては、更に相いろふべからず候。 上(かみ)は口入に及ぶべからず。 (中略)此の上は一年に二度よりあいをくわへて、ひょうじょうあるべく候。 会合二月廿三日やまさきのいち、九月廿三日いちを定むべき者なり。 仍って契約くだんの如し。
正慶元年十一月 日
中橋西信(以下、十三名の署名・略押)

現代語訳

(暦応元年の執達状)
右の左近允という者は、昔から勅使直属の御殿人として役目を果たしてきたのであるから、今後は氏長者などが彼に対して妨害行為(乱妨)をしてはならないと、勅使殿が仰せになっている。 よってこのように通達する。
暦応元年(1338年)11月2日 御代官・重秀

(御衣御殿人契約状)
契約:阿波国における御衣御殿人の詳細に関する取り決め。
右の者たちが天皇の御代の初めから御衣御殿人である理由は、御殿人の仲間に万一の事態が起きた場合、これを見過ごしたり聞き流したりしてはならないからである。 そのような時は仲間内で評定(会議)を開き、対応を決定すべきである。 決定は、10人いれば7〜8人の意見に従い、5人いれば3人の意見に従うこと(多数決)。 ただし、強盗・山賊・海賊・夜討ちといった重罪については、決してかばい合ってはならない。 上の者は口出しをしてはならない。 (中略)今後は年に二回集まって会議を開くこととする。 会合の日は2月23日の山崎の市、および9月23日の市と定める。 よって契約は以上の通りである。
正慶元年(1332年)11月 日
中橋西信ほか13名による署名

島田泉山の解説

これらの文書は、光厳天皇の大嘗祭に奉仕した御殿人たちが、互いに親睦を重ねるために作成した契約書です。 揉め事が起きた際には多数決(10人中7〜8人、5人中3人)で方針を決めることや、強盗・山賊などの犯罪には決して加担・同調しないこと、そして「山崎の市」などで年に二回の定期的な会合を開くことなど、組織の具体的なルールが明記されています。神事に関わる人々が、自らの権益を守るため強固な盟約を結んでいた実態がわかる貴重な史料です。

本サイトの考察・見解

この契約状に記された「評定(ひょうじょう)」による多数決の原則や、悪党(強盗・夜討)的行為への非同調、上役からの干渉排除(上は口入に及ぶべからず)といった条項は、同業者集団が独自の掟を定め、自衛と自治を図っていた姿を見事に文書化している。近年の研究においては、これが大嘗祭に奉仕する「御衣御殿人」の契約ではなく、阿波特産の「楮紙(こうぞがみ)職人」によるギルド(同業者組合)の契約書であるという読み方が示されている。「山崎の市」などでの定期的な会合も、商業的な取引を目的とする職人集団の姿を想定すれば非常に自然な記述となる。史料の表面的な名目だけでなく、その背景にある「職人たちのリアルな盟約」という視点から読み解くことで、阿波の産業史や職人集団の自治のあり方を伝える、極めて豊かな価値が浮かび上がってくるのである。

9. 康永四年の「光明天皇口宣案」

読み下し文

上卿(しょうけい) 権大納言
康永四年九月六日 宣旨
忌部重村
宜しく左兵衛尉(さひょうえのじょう)に任ずべし
蔵人春宮学士藤原兼綱 奉(うけたまわ)る

現代語訳

上卿:権大納言
康永4年(1345年)9月6日 天皇の命令(宣旨)
忌部重村を
左兵衛尉に任命する。
蔵人であり春宮学士である藤原兼綱が、この命令を承って伝達する。

島田泉山の解説

これは北朝の光明天皇から出された、官位任命に関する文書(口宣案)です。 阿波忌部氏の「忌部重村(三木重村)」が、「左兵衛尉」という武官の位に任じられています。 島田泉山の解説によれば、重村は三木氏中興の人物であり、彼に至って事実上「武人の列に入った」とされています。 重村とその父・盛村は足利尊氏の勢力(北朝方)に従順し軍忠を尽くしており、武功に対する御恩としてこの官途がなされたと考えられています。

本サイトの考察・見解

「忌部」という神事を司る氏族が、「左兵衛尉」という明確な武官の官位を得ている点が重要である。南北朝期に入り、社会の動乱が極まる中で、阿波忌部も単なる「機織りと祭祀の家」から、武装して戦乱を生き抜く「在地武士(国人領主)」へと変質していった歴史的転換点を示している。祭祀権威だけでは家と所領を守りきれず、武功を立てて時の権力(ここでは北朝・足利方)から軍事的な認知を得る必要があったのであろう。

10. 「足利尊氏宛行状」と「後村上天皇綸旨」

読み下し文

(足利尊氏宛行状)
種野山国衙分、三木内在家の事、武処(ぶしょ)に宛て行ふ。早く御方に於て忠を致すべきなり。故に下知件の如し。
観応二年七月廿二日 (花押)
三木衛門尉 殿

(後村上天皇綸旨)
軍忠の次第 披閲食(め)し了(おわ)んぬ。尤(もっと)も以て神妙。猶(なお)忠節を抽(ぬき)んずべき者(てえり)。天気此の如し。悉(つぶさ)に以て状す。
正平十九年九月二十三日 左兵衛督(花押)
三木兵衛尉 館

現代語訳

(足利尊氏からの宛行状)
種野山の国衙領の一部である、三木村にある在家(所領)について、軍功の対価としてお前に与える。速やかに味方(北朝・幕府方)のために忠誠を尽くすように。よって下知は以上の通りである。
観応2年(1351年)7月22日 (足利尊氏の花押)
三木衛門尉(重村)殿へ

(後村上天皇からの綸旨)
そなたの軍功の報告書を確かに閲覧した。大変立派である。引き続き忠節を尽くすように。これが天皇のおぼしめしである。詳細についてこのように書き記す。
正平19年(1364年)9月23日 左兵衛督(花押)
三木兵衛尉の館へ

島田泉山の解説

これら二つの文書は、三木家が南北朝の激動期をいかに生き抜いたかを物語る史料です。 観応2年(1351年)の文書では、足利尊氏から直接、種野山の所領を与えられ忠誠を求められています。 しかし正平19年(1364年)の文書では、今度は敵対する南朝の後村上天皇から軍功を称賛され、さらなる忠節を求められています。 なお、島田泉山の解説によれば三木氏宛ての後村上天皇の綸旨は六通もの多数に上っています。 大嘗祭の荒妙調進という神聖な役目を持つ裏側で、所領の確保と一族の存続のために軍功を重ねた在地武士としての実態が浮き彫りになっています。

本サイトの考察・見解

北朝方の足利尊氏から所領の安堵を受けつつ、十数年後には南朝の後村上天皇から軍忠を賞賛されている。これは三木家が、中央の神事の奉仕者としての顔を持ちながらも、本質的には阿波の急峻な山岳地帯を地盤とする国人領主として、生き残りのために北朝と南朝の間を巧みに渡り歩いていた(あるいは翻弄されていた)実態を示している。中世の在地領主が複数の権力から所領安堵の文書を獲得し、家の存続を図るのは一般的な生存戦略であった。「大嘗祭への荒妙調進」という文化的・宗教的側面だけでなく、所領をめぐる生々しい権力闘争のプレイヤーとしての「三木氏」の姿がここにある。

11. 寛正四年の「細川常有書状」

読み下し文

畠山右衛門御対治(ごたいじ)に就いて、永々在陣の条、尤も(もっとも)神妙に候。仍って(よって)官途(かんと)の事、子細(しさい)有るべからず候也。謹言。
寛正四年三月廿三日
刑部少輔(花押)
三木帯刀丞 殿

現代語訳

畠山義就(右衛門)の討伐において、長らく陣中に留まり軍務に服していることは、非常に立派(神妙)である。したがって、望んでいる官途(任官)の件については、何も問題(子細)はないであろう。謹んで申し上げる。
寛正4年(1463年)3月23日
刑部少輔(細川常有)(花押)
三木帯刀丞 殿へ

島田泉山の解説

この書状は、細川氏の軍勢として河内国嶽山城での戦闘(畠山義就討伐)に参加していた三木帯刀丞に対して、主君である細川常有が軍功を賞賛し、官位への推挙を約束したものです。大嘗祭において荒妙を調進する神聖な家柄であると同時に、室町時代後期には細川氏の有力な被官(家臣)として、最前線で命を懸けて戦う生粋の武士としても活動していた阿波忌部氏(三木氏)のリアルな実態が読み取れます。

本サイトの考察・見解

応仁の乱の直前期、三木氏が阿波守護・細川氏の被官として河内国(現在の大阪府)での合戦にまで駆り出されていたことがわかる。神事を司る名家であっても、室町時代の在地領主としては守護大名に軍事力を提供しなければ自らの地位を保てなかったのである。天皇や神祇官からの直接の命令書(宣旨や太政官符)から、守護大名の一族からの書状へと文書の性質がシフトしている事実は、中央の公家権力の没落と武家権力(守護)による地方支配の完成という、歴史の大きなうねりを物語っている。

12. 「細川元常書状」

読み下し文

望み申す官途の事、其の意を得候也。謹言。
元常(花押)
三木左京進 殿

現代語訳

そなたが希望して申請している官途(任官)の件について、了承した。謹んで申し上げる。
元常(細川元常)(花押)
三木左京進 殿へ

島田泉山の解説

阿波守護を務める細川氏の一族である細川元常から、三木左京進に宛てられた書状です。内容は非常に簡潔ですが、三木氏が細川氏の支配下に属し、自らの官位任命(官途)についても直接主君の承認や推挙を仰ぐ関係性が長く続いていたことを示しています。神職としての顔と、武家社会の序列に組み込まれた武将としての顔を併せ持っていたことがわかります。

本サイトの考察・見解

かつては朝廷(太政官)と直接やりとりをしていた三木家も、この時代になると、自らの名誉である「官途(左京進などの役職名)」を名乗る際にも、主君である細川氏の承認と推挙に依存していた。文書の極端な簡潔さは、主君から被官への典型的な業務連絡の体裁であり、両者の絶対的な主従関係を示している。神聖な阿波忌部の系譜も、軍事・政治的には守護権力の庇護下で生きながらえる道を選択せざるを得なかったことが史料から確認できる。

13. 代官下知状(三木村番頭百姓等訴申条々)全文と解説

■ 年貢の銭納化と、山の利権をめぐる村落の訴え

読み下し文

麻植山(おえやま)の内、三木村番頭(ばんとう)百姓等訴え申す条々下知の事。
一、大浦売り材木等、山出・河流の事。彼の村奥山分として、毎年両度の御年貢においては、瓦板を以て進済(しんぜい)の事、先例なり。然るに近頃においては、瓦板難艱(なんかん)の由、安村(やすむら)嘆き申す間、御年貢においては、用途(ようと)なされ終わんぬ。依って斯くの如く山出河流等の事仰せ付けらるる事なり。
(中略)
一、手酒(てざけ)の事。知し召されざる事なり。
一、不器量仁(ふきりょうのじん)も、任補(にんぽ)に付けてむるよしの事。(後略)

現代語訳

麻植山の内、三木村の番頭や百姓たちが訴え出た事柄に対する裁定(下知)の事。
一つ、大浦で売る材木の山からの搬出と川流しについて。あの村の奥山からの分として、毎年(春・秋の)二回の年貢は「瓦と板」で納めるのが先例であった。しかし近年、瓦と板での上納が困難であると(番頭の)安村が嘆願したため、年貢は金銭(用途=銭)で納めることとした。その代償として、材木の搬出や川流しを許可するものである。
(中略)
一つ、自家用の酒造り(手酒)について。これは一切許可しない。
一つ、器量(能力や資格)のない者であっても、役職(任補)に就けようとしている件について。(後略)

島田泉山の解説

この文書は、三木村の自治を担う番頭や百姓たちからの訴えに対して、上の機関(代官)が19箇条にわたって下した裁定(下知状)の一部です。島田泉山は、原本の仮名書き文書に漢字を当てはめて精緻に解読しています。
ここからは、当時の三木村が材木の伐採や河川運送といった「山の利権」を持ち、年貢の納め方を現物(瓦・板)から金銭(用途)へ切り替える交渉を役人と行っていたという、村落の経済活動の実態が克明に浮かび上がります。また、自家造酒(手酒)の禁止や、役職就任をめぐる村内の揉め事など、阿波忌部の中核であった三木村におけるリアルな生活空間と自治運営の姿を伝える極めて貴重な史料です。

本サイトの考察・見解

この代官下知状は、中世阿波の山村経済の実態を克明に伝える一級の民俗・経済史料である。「瓦と板」という現物納付から銭納(用途)への切り替え交渉や、木材の河川運送(河流)の許可といった生々しい経済活動は、吉野川水系を利用した林業が当時から村の生命線であったことを示している。手酒(密造酒)の禁止令も、当時の代官がいかに細かく村落内の経済や消費を統制しようとしていたかを示す痕跡であり、極めて具体的で土着的な実態を反映している。


■ 代官の出張費用と「くさ手(警固代)」の徴収

読み下し文

一、ばうく(坊主)京上(きょうじょう)の時。くさ(手召)てをめさる、よしの事。御代官上洛(じょうらく)の時。子息等を相具(あいぐ)するに。ばうくの分とて。くさてを様々(りょうりょう)にめされたる事。夢々(ゆめゆめ)なき事也。越中下向の時。ならびに在京の時。形(かた)のごとく芳志(ほうし)を申す事、先例なり。なんぞ新規のよし申すべき乎(か)。詮(せん)ずるどころ。近年沙汰の分を記し申すべきか。斯如(かくのごとく)の事。當山(とうざん)に限らざる事也。
一、込(こみ)桑の事。先例に任(まか)すべし。惣(そう)じての事。停止(ちょうじ)す。

現代語訳

一、代官の子息(坊主)が上京する際、「くさ手(警固の費用)」を徴収する件について。代官が上洛する時に子息を連れて行くからといって、子息の分まで二重にくさ手を徴収するようなことは絶対にない。ただし、越中へ下向する時や在京の時に、形ばかりの心付け(芳志)を出すことは先例である。どうしてこれが新規の徴収だと言えようか。所詮、近年の決定事項として記録しておくべきだろう。このような徴収は当山(麻植山)に限ったことではない。
一、込桑(年貢としての桑の葉の納入)について。先例に従うこと。それ以外の勝手な取り扱いはすべて禁止する。

島田泉山 解説文

〇ばうく 今の「ぼん」或は「ぼんぼん」と言ふのと同じく。當時身分ある人の子息を言ふ通俗語であらう。
〇くさて くさは武家で鬨者(かちもの)をしたり又は警固の任に當る役を「くさ」と稱して居た。後には專ら闇討の稱となり。遂には盗賊の通稱となつてゐる。併し當時では專ら警固の役目であるらしい。「て」とは酒手など言ふ手と同じく。其者に對する費用を言ふのである。
〇代官の子息等が代官に連れられて上京する際に。其の警固の用に「くさ」を召連れられる爲めに「くさて」と稱して臨時の徴収が有つたのを。番頭百姓等が先例が無いと言ふので歎願に及んだのである。其所で代官の申状は斯うである。代官が子息等を連れて上洛する場合。代官の分の外に子息の分と稱して「くさ手」を二重に徴収する事は夢に無い事である。併し代官の分は先例ある事である。越中へ何人たるか不明の京都から阿波へ下向の時並に在京の時には有來り通り百姓等の芳志で「くさ手」を差上げた事は先例がある。何ぞ代官分に對しての「くさ手」徴収は新規の由を申す事が出來うぞ。所詮近年沙汰し定めた分を記して差上げよ。此事は敢て我が管下の麻植山に限つた事では無い他山他郷にも皆やつてゐるのである。と言ふのである。
〇込桑 桑畑の年貢は桑の葉を以て上納する夫れには一定の量が定められてある。是れを番頭が量の預りをするのも矢張年貢を納める役目であるから。之れをも任補と言ふのである。
〇夫れで代官の申分は。不器量の人物に任補を下す事は。御年貢を上納の時或は材木の川流をさせた時。其者の申請のまゝに何等の考もなく早々下げ渡された事である。併し夫れは今後停止してせない事にする。但し器量ある人物に任補を下す事は。先例ある事であるから新規とは言はれない。

本サイトの考察・見解

代官が上洛する際の警固費用(くさ手)をめぐって、百姓側が「子息の分まで二重取りしている」と抗議し、代官側が「そんな事実はない。形ばかりの心付けは先例である」と反論している構図が興味深い。領主(代官)側の一方的な搾取に対し、村落側が「先例」を盾にして堂々と抗議(訴申)を行っている点は、中世村落が高い交渉力を持っていたことを物語る。養蚕のための「込桑」の役職(任補)をめぐる取り決めも、山村における資源管理の実務を鮮明に映し出している。


■ 年貢の輸送と初穂銭の利子(押し貸し)について

読み下し文

一、兵庫送(ひょうごおくり)の事。海上騒々(かいじょうそうそう)の時。器量について。番頭(ばんどう)を召し具(ぐ)する事先例なり。無用の時は。停止(ちょうじ)し。
一、御初物(おはつもの)の事。上(かみ)より預けくださるあいだ。少分づゝ配分するどころなり。詮(せん)ずるどころ。難儀たらば。本利共に。近日(きんじつ)のあひだ。沙汰(さた)をいたすべきなり。次に私(わたくし)の利銭(りぜん)の事。取る取らずは。よろしく百姓の心(こころ)なり。押預(おしあづく)る事は停止(ちょうじ)し。
一、御漆掻(おんうるしかき)。百姓に物を乞(こ)う事停止(ちょうじ)し。木を売る事は私の計(はから)ひにあらず。尤(もっとも)定約(じょうやく)すべし。

現代語訳

一、年貢の兵庫への輸送について。海上が不穏な時には、能力(器量)に応じて番頭を同行させるのが先例である。不要な時は同行を停止する。
一、初物(初穂銭)について。上から預かっているものなので、少しずつ百姓に貸し付けて(配分して)いる。結局のところ、返済が困難であれば、元本と利子ともに近いうちに処理(免除・猶予など)すべきである。次に私が個人的に貸した金の利息について。利息を取るか取らないかは百姓の気持ち次第である。無理やり貸し付けて利息を取る(押し預ける)行為は禁止する。
一、漆掻きについて。漆掻きの職人が百姓に物を無心する行為は禁止する。また漆の木を売ることは私の個人的な計らいではない。(上からの)規定通りにせよ。

島田泉山 解説文

〇兵庫送り。國衙分などの年貢を船で兵庫迄送る時の事であらふ。〇海上騒々 海賊などの風聞があつて海上穩やかならぬ時を言ふのである。〇器量について。送る人の身分に隨ふと言ふ意である。〇兵庫送りに始終番頭を使用せられたのを無用の時は使用せない事にしたのである。
〇御はつもの。 初穗錢を言ふ。嘉暦文書に「御はつをぜに」とあるのと同じであるが。初穗は專ら米麥の新穀に對して言ふのであるが。山分の事で田地が少いから初穗錢として錢で一般農家同樣初穗を徴収せられたのであらう。此の徴収した初穗錢をば更に百姓にいや應無しに貸付けたので問題が起つたのである。尤も米錢を百姓に貸付けて利息を取ざることは。昔の出擧の遺法で敢て當時に始まつたものでも無い。昔は一種の課税となつ居つたのである。
〇夫れで代官の申分は。上から初穗錢を頂けられたから。其れを少分づゝ百姓に配分して貸付けたのである。併し其れが不用で迷惑であるとならば。近日内に元金に利子を附けて返して來い。次に代官から私に貸附の利錢は。借ると借らぬは百姓の心次第である。強て預ける事は停止する。となり。利錢とは。利息を取て貸す錢なり。
〇御うるしかき。 守護職から差遣された漆掻が官命を笠に着て。百姓に向つて色々物をねたつたので。之れを歎願に及んだ。代官は是れに對して停止するご下知したのである。併し木代金等は定約して賣買せよと言ふのである。

本サイトの考察・見解

徴収した税金(初穂銭)を百姓に押し貸しして高利を取るという、役人側の典型的な不正蓄財(出挙の悪用)に対する百姓の抗議と、それに対する代官の言い訳(私が無理やり貸したわけではない、等)が記録されている。「漆掻き職人が官命を盾に無心する行為」なども含め、当時の徴税システムがいかに中間搾取に満ちていたかがよくわかる。阿波の山間部において、こうした理不尽な役人と渡り合うためには、村落全体を束ねる強い自治機能(惣村的な結合)と、強力な由緒を持つ名主の存在が不可欠であったことを傍証している。


■ 稲荷神社への供物と足駄料(運搬手間賃)

読み下し文

一、稲荷(いなり)の御供(ごく)。白米を粟の粉(こ)に召(め)さるべきよしの事。これ又私(わたくし)の計(はから)ひにあらず。上(かみ)より崇(あが)め置(お)かるゝ意は。此(この)旨を存(ぞん)じ申して。更に従うべし。
一、在家(ざいけ)に一つづつ御節料(おせちりょう)進上(しんずる)ゆゑに。足駄(あしだ)を被召(めされ)よしの事。この事左右(さうなく)下知(げぢ)しがたし。先例を尋(たづ)ぬべきなり。然(しか)れども歎(なげ)き申すうえは。足駄においては停止(ちょうじ)し。

現代語訳

一、稲荷神社への御供物について。白米ではなく粟の粉を用いるようにとの指示だが、これも私の個人的な計らいではない。上から神仏を崇め祀るための意図であるから、この旨を承知して絶対に従うこと。
一、各在家の百姓が一つずつ御節料を納める際、その運搬の手間賃として「足駄料」を徴収している件について。この事はすぐに判決(下知)を下すことは難しい。先例を調べるべきである。しかし、百姓から嘆願が出ている以上、足駄料の徴収についてはとりあえず禁止する。

島田泉山 解説文

〇稻荷 狐の神として稲荷の信仰は今も尚衰へないが其起源は頗る古いもので。今三山村種野山に稻荷神社があり天永三年の棟札を傳へて居る。初め白米を以て稻荷神社の御供を指上げて居つたのを。今度改めて粟の粉を以て召上げられる事になつた。之れを百姓の嫌うて訴へたのであらう。
〇代官の申分は。此れは代官の計ひでない。彼の稻荷は上より崇敬して置かれた神社であるが故に此の旨即ち國守崇敬の神であると言ふ事を承知して。更に其通り從はねばならぬ。
〇在家 百姓を云ふ。〇御節料 節時の進上物を言ふ。〇あしだ あしだの字義は足駄で今の下駄と同じである。併し此所では足駄料を言ふのである。足駄料とは御節料を徴収する人足の費用を言ふのである。今も用使の者などに遣す錢をわらじ錢と云ふのと同じ意である。
〇文意ば百姓から各戸に多少の御節料を進上するが上に。徴収賃として足駄料を召上げられるは百姓にとつて難儀であると云ふ事。これは上朝廷に關する事であるから容易に下知し難い。先例を調べてみねばならぬ。併し歎願の筋とあるから。足駄料を取ることは停止する。となり。

本サイトの考察・見解

神への供物を「白米」から「粟の粉」に変更することへの不満が記録されている点が興味深い。当時の米は非常に貴重なハレの食料であり、それを粟(日常食・雑穀)にダウングレードすることは、神に対する不敬、あるいは村の体面に関わると百姓側が考えた可能性がある。また、「足駄料(運搬の手数料)」という名目の不当な徴収に対して一時停止の判決を勝ち取っているなど、地道な抵抗運動の成果が見て取れる。


■ 不正な野老(ところ)の買い上げと臨時の仏事

読み下し文

一、正月廻銭(しょうがつかいせん)の事、奥山分(おくやまぶん)については、先例なり。その分先度(せんど)具(つぶさ)に問答畢(おわ)んぬ。何ぞ難儀(なんぎ)たるべき乎(か)。
一、恒例(こうれい)の仏斎会(ぶっさいえ)のほか、脇々(わきわき)の仏斎会の事、知(しろ)しめたらば停止(ちょうじ)し。
一、懸糸(かけいと)の事。全く其の量(ろう)なし。詮(せん)ずるところ。検知(けんち)等の時は秤(はかり)をもて。番頭沙汰(ばんどうのさた)として。掛進(かけしん)ずべきなり。
一、野老買(ところかい)の事、全く知しめされざる事也。彼の給主(きゅうしゅ)へ返(かえ)すべし、向後停止(きょうこうもちょうじ)し。

現代語訳

一、正月の廻銭(課役)について。奥山分については先例通りである。その件については前回詳細に問答して決着済みである。どうして今更不満(難儀)を言うことがあるのか。
一、恒例の仏斎会以外の、その他の臨時の仏斎会について。(役人が)それを知った場合は(百姓の負担になるため)禁止する。
一、懸糸(絹糸の年貢)について。全く規定の量に達していない。所詮、検知(検査)の際には秤を用いて、村の番頭の責任において、正確な量を掛けて納めること。
一、ところ買(野老という食料の強制的買い上げ)について。(役所として)全く承知していない事である。元の持ち主(給主)へ返しなさい。今後はこのような行為を禁止する。

島田泉山 解説文

〇正月廻錢 年始御禮の意味で正月廻錢と稱して一種の公事錢を徴収せられて居るが。是れは奥山分に就ては先例が無いと言ふので難願したのである。
〇恒例の佛齋會 は毎年定まつて行はるゝ佛を祭る法會 〇わきゝ 處々と云ふに同じ恒例以外の臨時に行ばるゝを云ふ。
〇懸糸 かせに懸けた絹糸。目方の分量を言ふ。懸糸は一かせ幾尺と尺で極まるから目方には關係が無い。夫れで百姓は成るべく糸を細くして繭の節約をする。是れを又上には嫌うたのである。
〇ところかい ところは頗る山芋に似た者で今も山村では食用にしてゐる。元來此の物は食用にするものばかりでなく。武人の祝儀に賞用したのである。案ずるに是れを商ひする者が官命を僞り。屋敷地の給與を受けて來住し。ところの買ひ集めをして居つたのであらう。夫れが伺ひの結果代官の指圖で無い事が判明し。給地は元の地主に返してやり。今後之れを停止する事に下知したのであるらう。

本サイトの考察・見解

絹糸(懸糸)の納入において、百姓側が長さを保ちつつ極端に細い糸を紡ぐことで原料(繭)を節約しようとする「手抜き(サボタージュ)」を行い、代官側が「目方(重さ)がないので秤を使って厳密に計量しろ」と命じている攻防が極めて人間臭い。また、「ところ(野老)」という山間部の特産品を、官命を騙った商人が不当に買い叩いていた事件に対し、代官がそれを違法と認め、元の持ち主へ返却させている。山の資源をめぐる経済闘争において、代官が単なる収奪者ではなく、村落の保護者(調停者)としての役割も果たしていたことが窺える。


■ 初物の先例と、馬の飼料をめぐる対立

読み下し文

夏秋初つあきのはつ物の事、きやうのきみぞえんじゃうの時、ぜんれいとして、さたしきたるものなり、いまさらなんぞせんれいなきよし申すべき乎。
一、三木村どうまうの事、さいそいづれのところぞやしろしめされず、御ねんぐ以下の事、いまにみしんなし、夫(それ)ちん以下の事はそうばんどりあひてそのさた度あるべき歟(か)。
一、御馬(みうま)のまくさの事。わたくしのはからひにあらず。この事ごくうたゑ申どいへども。御はからひなきうえは。なんぞ御代官ひほうのよし申べき乎。
種野山注進状にも、鳥荒分として各村に割当てがあるに見てもわかる。

現代語訳

夏秋の初穂(初つあきのはつ物)について。「京の君」が(この地に)滞在(えんじゃう=延駐か?)していた時に、先例として取り扱ってきたものである。今更どうして先例がないなどと言えるのか。
一、三木村の「どうまう(鳥毛?)」の事。催促(さいそ)はどこの誰の指示か承知していない。年貢以下の納入については、現在に至るまで未納(みしん)はない。夫賃(夫ちん)以下の事については、総番(そうばん)が取り合って、その都度処理すべきであろう。
一、御馬のまぐさ(飼料)の事。これは私の個人的な計らいではない。この件について極めて不満(ごくうたゑ申ど)と言ったとしても、上からの指示(御はからひ)がない以上、どうして代官が非道(ひほう)を行っているなどと言えるのか。

島田泉山 解説文

〇夏秋の初物 初穗錢の事であらう。〇京の君。本國衙の地頭にして京住ひして居つたから一般に此人を京の君と稱して居つたのであらう。小笠原守護職が此地頭に兼帯してゐるやうであるから多分小笠原氏であらう。
〇どうまう 鳥毛の字音で有う。鳥は羽族の總稱、毛は獸類の總稱で所謂「とりけもの」である。
〇正和二年の下知状に「大豆牛は仰に由て 御馬のまくされうに大豆を沙汰する也」とあれば 是れも地頭から何にか馬の秣料の徴収があつたのを百姓が非法として歎願したのであらう。代官は是れに對して自分も其は御免に預りたいと。上へ訴へてみたのであるけれども許されないのである。新撰な次第であるから。代官が無理あるとは云へないと自評をしてゐるのである。

本サイトの考察・見解

「京の君(小笠原氏か)」という遠隔地の領主(不在地主)の存在が記されており、鎌倉・室町期の複雑な重層的支配構造を裏付けている。馬の飼料(まぐさ)の供出をめぐり、代官自身が「私もこんな負担は嫌だが、上からの命令だから仕方ない(私の非道ではない)」と言い訳めいた弁明をしている点は、代官が領主と百姓の間に立たされる中間管理職的な悲哀を帯びており、当時の支配の実相を鮮やかに切り取っている。


■ 役人への酒の肴の要求と、代官による判決の結び

読み下し文

一、三日かう(講)ニばうく(坊主)より御さかな(肴)乞うよしの事。こゝろざしあらばきくべし。なくばさたのかぎりにあらず。なんぞそせう(訴訟)におよぶべき乎。たい百姓の心たるべし。
右三木村下知如此かたくこのむねをまほッてきやうこうのらんぞ(乱妨)をとどむべきもの也仍下知如件
元亨元年十一月十九日 御代官沙彌(花押)

現代語訳

一、三日講において、代官の子息(坊主)から酒の肴を要求する件について。志(善意)があるならば応じればよい。なければそれまで(沙汰の限りではない)のことである。どうして訴訟にまで及ぶ必要があるのか。大半は百姓の心次第である。
右のように三木村へ下知する。固くこの旨を守り、今後の乱暴・狼藉(らんぞ)を止めるべきである。よって下知は以上の通りである。
元亨元年(1321年)11月19日 御代官・沙彌(花押)

島田泉山 解説文

〇三日講 法華八講であらう。後世三日に講ずるのが多い由つて三日講と言ふのであらう。〇御さかな 今菜と言ふに同じ副食物なり。
〇沙汰の限にあらず。上より斯々せよと沙汰し定めた範圍でない。勝手に所置すべき者であるとの意である。〇百姓の心たるべし。百姓の心次第でどちらでも宜しいとの義である。
〇元亨 後醍醐天皇の年號。
釋題 鎌倉幕府が諸國に命じて。公私田畠等の檢注を行ひ以て總状に供した。當時諸國より提出した注進状が今僅かに殘つてゐる。本書は後醍醐天皇の嘉暦二年に出來た者を二十年のち光明天皇の貞和三年に寫したものである。

本サイトの考察・見解

宗教行事(三日講)の際に役人の子息が「酒の肴(接待)」を要求してきたことに対し、代官が「善意(志)があるなら出せばいいし、嫌なら出さなくていい。わざわざ訴訟を起こすほどのことではない」と裁定を下している。村と役人の力関係が一方的ではなく、ある程度の自立性と交渉権が村側に担保されていたことを示す好例である。これらの一連の下知状は、三木家周辺の在地社会が独自の経済基盤と政治的な交渉力を持つ「強い村落」であったことを力強く証言している。

14. 阿波国種野山在家員数同御年貢御公事注進(全文と解説)

■ 種野山の範囲と、在家・年貢・公事の定義

読み下し文

注進 阿波国種野山在家員数同御年貢御公事
合 惣木在家 百弐拾参宇ノ内
除
東山名十四宇 不存知 名方 同名田肩務 同所皆礙不存知仕
戸山地頭名十字 不存知仕 同須名十九宇中不存知仕
西同名田牧所当礙不存知仕 大浦六宇 自往古仕候 公方分

現代語訳

注進:阿波国種野山における在家の数、ならびに御年貢・御公事について
合計:惣木在家(すべての在家) 123宇(軒)の内
除外分:
東山名 14宇(詳細不明)、名方、同名田肩務、同所皆礙(詳細不明)
戸山地頭名 10宇(詳細不明)、同須名 19宇中(詳細不明)
西同名田牧所当礙(詳細不明)、大浦 6宇(昔から公方分として仕えている)

島田泉山 解説文

〇種野山 前出嘉暦二年文書にも。種野山國衙分とあり。而して其の範圍は現今の東山村三山村大字種野山同大字析山中枝村木屋平村一圓の地に真に麻植郡の大半を占めた廣濶な地域に亘つてゐるのである。
〇在家 本文の在家は百姓其者を指すのでも無ければ素より家其者を指すのでも無い。唯百姓株を指すのである。百姓株には屋敷と山林の入合特權が附いてゐるのである故に家は無くとも其の株さへ持つて行けば在家として成立する。
〇御年貢 當時租税を大別して。年貢、公事の二つになつてゐる。年貢は田畠及び屋敷等の土地に附つた租税を云ふ。〇御公事 本年貢以外の雜税を公事と云ふ。其主なる者は其土地に生ずる産物を獻納するにある。是れは戸別に出す者もあれば村役として出す者もある。此等公事物は全部朝廷へ納まる者もあれば地頭へ納まる者もある。

本サイトの考察・見解

「在家」が単なる家屋ではなく、山林の入会権(資源利用権)を伴う「百姓株(権利枠)」として機能していたという島田氏の指摘は重要である。種野山という広大な山林エリアにおいて、123宇の在家が設定されていたことは、この地域が豊富な森林資源を有し、それを特権的に利用・管理する強固なコミュニティが形成されていたことを示す。この経済的・資源的基盤こそが、三木家が荒妙という特殊な製品を持続的に生産し、中央の権力と渡り合うための源泉であった。


■ 村落を「名」と呼ぶ由来と、地頭・預所の対立

島田泉山 解説文

〇名田 王朝時代の末葉から山野の荒蕪地を開墾して私有さする事が許された。此の至難な開墾田畠が則ち名田の起源を成すのである。此の開墾田畠は他から其開墾者の名前を附けて某田と稱したのが遂に其田の名前となり是れが公認せられて賣買譲與しても其名前は變らず矢張以前の名前を稱したのである。名田の集團地を其の中の主たる名田の名を取つて某名と稱したのがやがて廣く應用せられて名田の多い所では一般に村落を名と稱するに至つたのである。
〇地頭名。地頭。元來國領には國司ありて之れを管掌し、庄園には預宰がありて之れを管掌して居つた。然るに源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至つて。兵粮米徴収を名として。地頭を國衙庄園一般に置き。自らは總地頭と稱した。
〇預名。預所の役得の土地である。預所とは本所則ち本文に就て言へば朝廷。其朝廷から領内の土地を支配する爲めに置かれた役名である。預所は朝廷に屬し。地頭は幕府に屬するから兩者間に屡々爭論を起してゐる。

本サイトの考察・見解

「名(みょう)」という単位が、単なる行政区画ではなく、荒れ地を開墾した者の名前(私有権)に由来するという歴史的経緯が解説されている。阿波の山間部における三木家周辺の村々が「〇〇名」と細分化されているのは、先人たちが血の滲むような努力で山を切り拓いてきた証である。「朝廷側の代官である預所」と「幕府側の役人である地頭」がモザイク状に入り乱れ、頻繁に争論を起こしていたという構図は、中世の荘園公領制の複雑な歴史的事実と見事に合致する。


■ 分銭(銭納)の明細と、地頭の加徴米

読み下し文

定在家 漆拾肆宇ノ内
十宇半 下別司 / 十一宇 小氣多 / 十一宇 大浦 / 十一宇 奥地頭名 / 十宇半 奥預名 / 十五宇 上別司 / 五宇 大三木 / 五宇 河井

分在家 五拾参宇半
分錢四百九貫百漆拾五文
但壹宇別貳貫五拾文宛春秋兩度弁
頭預名 弐拾宇半
並錢百五拾陸貫弐百拾文
分錢肆拾陸貫伍百参拾五文但壹宇別貳貫弐百七拾文宛春秋兩度弁

現代語訳

定在家(規定の在家数) 74宇(軒)の内訳
10.5宇 下別司 / 11宇 小氣多 / 11宇 大浦 / 11宇 奥地頭名 / 10.5宇 奥預名 / 15宇 上別司 / 5宇 大三木 / 5宇 河井

分在家(負担を分担する在家) 53.5宇
分銭(納める銭) 409貫175文 ※ただし、1宇につき2貫50文ずつ、春と秋の二回に分けて納める。
地頭名・預名 20.5宇
並銭 156貫210文
分銭 46貫535文 ※ただし、1宇につき2貫270文ずつ、春と秋の二回に分けて納める。

島田泉山 解説文

〇分錢 田畠屋敷等の土地の租税を錢を以て納むる上納金を分錢と言ふ。
〇頭預名 詳しくは地頭並に預所名在家と書く可きである。さて此の地頭預名の在家は。一宇別に二貫二百七十文を負擔し。分在家は一宇別に二貫五十文の負擔にして。地頭預名在家の方が二百二十文宛負擔が多い。是は何が故かと言ふに地頭得分の加徴米から來るので有る。
〇加徴米 國衙庄園一般に地頭を置かれて以來。地頭の役得は一段別五升の兵粮のみで。土地の知行は餘り無かつた。其所で追々土地を押領せん企て屢々問題が起つた。茲に於てて貞應二年六月に宣旨を諸國に下されて。田畠十一町毎に一町の割合で以つて。田畠を地頭の役得に給與せらるゝ事になつた。此れが國衙分と地頭分との分錢に二百二十文の差を生じた所以なのである。

本サイトの考察・見解

年貢を現物(米や布)ではなく「銭」で納める銭納化(分銭)が進んでいる点に注目したい。貨幣経済が山間部にも深く浸透していた証拠である。さらに、「預名(朝廷側)」と「分在家(一般)」で税額に220文の格差がある理由を、島田氏が鎌倉幕府の法制(新御恩の加徴米)にまで遡って論理的に解明している点は圧巻である。こうした複雑な税制の格差が詳細に記録されている事実は、この注進状がリアルな租税台帳として機能していたことを物語っている。


■ 鎌倉幕府の宣旨と、様々な御公事銭の内訳

読み下し文

右之色々御公事物注文
中村預名。新在家二字取上 分錢四貫五百四拾文
同村御弓正月廻三貫文 同村絹チリ質四百文 同村三日厨錢百文
同村桑代貳貫参百六拾五文 同二戸寄來壹貫文 同虫ウチノ寄來四百文
以上中村分拾参貫陸百捌拾五文
上別司色々御公事錢参貫百九拾文 内御弓錢五百五十文 三日厨錢貳百文
下別司色々御公事錢壹貫七百五文 内御弓錢貳百五拾文 三日厨錢百文 絹ノチリ質五百文 皮代四百六拾五文
氣多色々御公事錢貳貫八拾五文 内三日厨百四拾文 御弓錢四百文 絹ノチリ質五百文 皮代四百六拾五文 畳マイノ代七百八拾文
三木色々御公事錢参貫七百四拾文 御弓正月廻貳貫文 三日厨百文 絹ノチリ質五百文 皮代四百六拾五文 桑代参百文 畳マイノ代参百廿五文 懸糸代五拾文

現代語訳

右の様々な御公事物(年貢以外の税)の注文
中村預名。新在家2宇分を取り立て。 分銭 4貫540文
同村 御弓・正月廻 3貫文。 同村 絹チリ質 400文。同村 三日厨銭 100文。
同村 桑代 2貫365文。 同二戸からの寄来 1貫文。同 虫ウチノ寄来 400文。
以上、中村分合計 13貫685文。
上別司の様々な御公事銭 3貫190文(内訳:御弓銭550文、三日厨銭200文)
下別司の様々な御公事銭 1貫705文(内訳:御弓銭250文、三日厨銭100文、絹チリ質500文、皮代465文)
氣多の様々な御公事銭 2貫85文(内訳:三日厨140文、御弓銭400文、絹チリ質500文、皮代465文、畳マイ代780文)
三木の様々な御公事銭 3貫740文(内訳:御弓正月廻2貫文、三日厨100文、絹チリ質500文、皮代465文、桑代300文、畳マイ代325文、懸糸代50文)

島田泉山 解説文

〇御弓正月廻 御弓錢。鎌倉の世武家に於て恒例の儀式として正月早々弓場に於て的を射て矢員の星取り勝負があり。終つて射手には祿を給し酒宴が催される地方に於ても矢張守護所に於て此の儀式があり。其費用さして毎年御弓錢を掛けられたのであらう。〇正月廻 年頭廻禮の意味で正月廻錢と稱して獻納するのであらう。

本サイトの考察・見解

「御弓銭(武家の正月行事の費用)」や「三日厨(役人の出張接待費)」といった、時の権力者たちの儀礼や特権に関わる費用が、末端の山村にまで「公事(付加税)」として転嫁・徴収されていたことが克明に記録されている。三木村周辺の百姓たちは、単に農作物を納めるだけでなく、武家社会を維持するための様々なコストを負担させられていた。これらが過酷な税制であったことは間違いなく、その負担に耐えうるだけの複合的な経済力をこの地が持っていたという事実は、歴史の実相を考える上で極めて重要である。


■ 皮代・畳繭代などの銭納化

読み下し文

カシ原色々御公事壹貫七百五拾文 内御弓正月廻壹貫五拾文 絹ノチリ質貳百文 三日厨五拾文
大浦色々御公事五貫参百九拾貳文 内御弓正月廻貳貫百文 三日厨九拾貳文 絹ノチリ質貳百文
同預名御公事錢壹貫四百文 内御弓正月廻壹貫貳百文 桑代貳百文
河井地頭名御公事錢四貫貳拾文 御弓正月廻参貫文 桑代七百文 絹ノチリ質貳百文 三日厨百廿文
同寄來貳貫六百文 焼尾寄來壹貫四百文 大浦預名瀬津五百文
一名々田分所當錢
氣多三百六十文 大浦三百六十文 但ユヤ平ノ大田河成ノ御モナイナリ
貴元

現代語訳

カシ原の様々な御公事 1貫750文(内訳:御弓正月廻1貫50文、絹チリ質200文、三日厨50文)
大浦の様々な御公事 5貫392文(内訳:御弓正月廻2貫100文、三日厨92文、絹チリ質200文)
同預名(大浦)の御公事銭 1貫400文(内訳:御弓正月廻1貫200文、桑代200文)
河井地頭名の御公事銭 4貫20文(内訳:御弓正月廻3貫文、桑代700文、絹チリ質200文、三日厨120文)
同寄来 2貫600文。焼尾寄来 1貫400文。大浦預名瀬津 500文。
一つの名・名田分の所当銭(田租)
氣多 360文。大浦 360文。※ただしユヤ平の大田は川の氾濫(河成)により納めるものが無い。
貴元

島田泉山 解説文

〇絹ノチリ質 絹を織る代りの錢納である。元來絹は織て納めた者である然るに是れをば織らずして懸糸を以て納附する事に改めたが故に。織賃だけ百姓が利得になる次第である。夫れで是れをば損得なしに絹の織賃の名目で一種の課税が出來たのである
〇桑代 桑畠の公事さして桑の葉を納附した事が前の三木村下知状に見えてゐる。此れも其代りとして錢を以て納めたのである。
〇皮代 山村であるから獸類の皮を公事にして居つたのが。是れも錢納になつたのである。
〇畳マイノ代 蠺繭を升で量つて納めて居つた故に疊繭と言ふ。是れも錢納になつたのである。

本サイトの考察・見解

「皮代(獣皮)」「畳マイノ代(蚕の繭)」「桑代(桑の葉)」など、この地域が農耕(米作)だけでなく、狩猟、養蚕、織物といった極めて多様な山の生業によって成立していたことがわかる。特筆すべきは、これらが本来「現物納付」であったものが、貨幣経済の浸透に伴ってすべて「銭納(代銭納)」へ移行している点である。織賃の利得を相殺するために新税をかけるなど、徴税システムの高度化が見られ、三木家周辺が単なる辺境の儀式集団ではなく、高度な経済活動の中に組み込まれていたことがわかる。

15. 阿波国種野山在家員数同御年貢御公事注進(末尾の細目と跋文)

■ 年貢・公事の総合計と、大浦麦粉の特殊性

読み下し文

上別司 五百五十文 下別司 一貫八百七十五文
以上色々御公事錢 田所當錢 参百陸貫百参拾九文 總都合御年貢色々御公事錢 貳百陸貫漆百捌拾四文
一名々懸糸事
上別司 百九拾五文目 下別司 六十一文目 氣多 百四十文目 三木 五拾六文目
カシ原 四拾貳文目 大浦 八拾四文目 河井 参拾六文目 大浦地頭名 七拾貳文目
以上 六百八拾文目 絹八行口糸
大浦麥コ 六斗 預名 貳斗 地頭名 参斗
一ハカリ物ノ分
秋麥 粟米 大豆 漆石肆斗在家別壹斗宛
公方在家 五拾参宇半、錢付貳石壹斗九升参合五勺
地頭名在家 貳拾宇半、錢付壹石四升六合
已上拾石六斗参升九合五勺

現代語訳

上別司 550文。下別司 1貫875文。
以上、様々な御公事銭と田租(所当銭)の合計は306貫139文。さらに御年貢や御公事銭などの総合計は206貫784文である。
それぞれの名の懸糸について。
上別司 195文目。下別司 61文目。氣多 140文目。三木 56文目。
カシ原 42文目。大浦 84文目。河井 36文目。大浦地頭名 72文目。
以上合計 680文目。 絹8行口糸。
大浦の麦粉 6斗。預名 2斗。地頭名 3斗。
計り物の分
秋麦、粟米、大豆を合わせて7石4斗。在家一つにつき1斗ずつ。
公方在家53.5宇からは、銭に換算して2石1斗9升3合5勺。
地頭名在家20.5宇からは、銭に換算して1石4升6合。
以上合計 10石6斗3升9合5勺。

島田泉山 解説文

〇懸糸。昔へに糸と言ふは總て絹糸の事である。絹糸を枠に懸けた者を懸糸と言ふ。
〇麥コ。麥の粉である。此れは大浦のみの公事で他に類例がないから。玆に附記したのであらう。
〇ハカリ物。穀物の公事を言ふ。穀物は升にて量り納附するから。ハカリ物と言ふのである。
〇秋麥。蕎麥を言ふのである。和名抄に麥の類として擧げられたるは四種である。裸麥は野生の者で公事にす可き者では無い。夫れは秋の麥と言へば唯蕎麥あるのみである。芄「ソバ」と稱するは「ソバムギ」の畧である事は言ふ迄もない。
〇錢付。年貢米を錢納即ち分錢に直した手數料のやうな意味である。百練抄延喜二年六月廿四日の條に「以錢一貫文。可被直米一石之由、被下宣旨」と見えてゐるので當時公定率があつた事が知られるのである。

本サイトの考察・見解

大浦地区のみに「麦コ(麦粉)」の公事が課せられているなど、村ごとの特産品や課税の差異が細かく記されている。「秋麦=蕎麦」の解説にあるように、冷涼で急峻な山岳地帯であったこの地域では、米ではなく蕎麦や粟などの雑穀が主たるハカリ物(穀物)として生産されていた。阿波忌部が荒妙(麻布)という極めて特殊な技術を持っていた背景には、稲作中心の平野部とは異なる、山林資源と畑作・狩猟・養蚕を組み合わせた複合的な山村経済圏の存在があったことが、この詳細な目録から読み取れる。


■ 役人の出張接待費「三日厨」と「鳥荒(狩猟税)」

読み下し文

三日厨 白米
上別司 六升 氣多 四升貳合 下別司 参升六合 中村 参升 カシ原 壹升七合 河井 参升五合 三木 参升 大浦 四升貳合 大浦地頭名 貳升壹合
已上参斗壹升参合

鳥 荒 分
上別司 四 カシ原 四 燒尾 二 下別司 二 氣多 二 中村 五 河井 五 大浦地頭名 四 川井預名 二 三木 八 大浦 八
以上四十六

現代語訳

三日厨(みっかくりや)の白米
上別司 6升。 氣多 4升2合。下別司 3升6合。 中村 3升。カシ原 1升7合。 河井 3升5合。三木 3升。 大浦 4升2合。大浦地頭名 2升1合。
以上合計 3斗1升3合。

鳥荒(とりあらし)の分
上別司 4。カシ原 4。焼尾 2。下別司 2。氣多 2。中村 5。河井 5。大浦地頭名 4。川井預名 2。三木 8。大浦 8。
以上合計 46。

島田泉山 解説文

〇三日厨 白米。地頭が出張して來たり或は預所が下向したり。其他公用を帶びた身分ある人が來られた場合に其旅費食料として百姓に課せられる臨時の公事である。預所も多くが國衙となつて下つた際に其隨人等隨從輩が三日厨ありと稱して、國司を饗應し。多くの引出物を獻上した事が見えてゐる。
(中略)
併し此の課税は隨分苛酷であるから。鎌倉幕府は禁令を出して「三ヶ日厨事。有向下令停止也」(新編追加)と文永七年に布令したのであるけれども。全く廢止するに至らなかつた者と見える。
〇鳥荒 山村の事であるから。鳥や兎を公事として課せられたのであらう。

本サイトの考察・見解

「三日厨」という接待・饗応の費用が、白米という山村では極めて貴重な品で徴収されていたことは、百姓にとって文字通り「苛酷な課税」であったはずだ。鎌倉幕府が禁止令を出しても現場で守られていなかったという実態は、法と現実の乖離を示している。「鳥荒」のような狩猟成果の徴収も含め、この文書群は単なる神事の記録に留まらず、在地社会がいかにして税を絞り出し、権力者を接待し、日々の生活を維持していたかという、泥臭くもたくましい生存の記録として大きな価値を持っている。


■ 甘葛煎(あまづらせん)の調進と、編纂の辞

読み下し文

葛 ノ セ ン
上別司 三枝 下別司 二枝 三木 二枝 中村ワラシ 四枝 河井 五枝 大浦 六枝 預名 二枝 地頭名 三枝 氣多 二枝 カシ原 二枝
以上三十五枝
右太略注進如件
嘉暦二年三月八日
沙彌賢意(在判) 忌部行正(同) 忌部吉久(同)
但此本者貞和三年丁亥五月四日政所ヨリ口預テ書寫了

現代語訳

葛の煎(くずのせん)
上別司 3枝。下別司 2枝。三木 2枝。中村ワラシ 4枝。河井 5枝。大浦 6枝。預名 2枝。地頭名 3枝。氣多 2枝。カシ原 2枝。
以上合計 35枝。
右の通り、大略を注進いたします。
嘉暦2年(1327年)3月8日
沙彌賢意(判あり) 忌部行正(判あり) 忌部吉久(判あり)
※ただしこの文書の原本は、貞和3年(1347年)5月4日に政所から預かって書写し終えたものである。

島田泉山 解説文

〇葛ノセン 案するに甘葛煎なる可し。葛と蔦と字相似てゐるので誤つたのであらう。「アマヅラ」は普通に甘藷の字を用ゐるが。葛の一字を以てしか讀ませたので有う。「アマヅラ」は一名甘茶ども云ふ其莖葉を煮て煎じ固めエキスとなし。之れをアマヅラノセンと稱し今世の砂糖のやうに食物に和して用ひたものである。朝鮮陣に彼の國の砂糖を移入して以來甘葛煎はすたれたのである。
〇三枝二枝 枝は枚と同じ古書に相通して用ゐた例は頗る多い。
〇嘉暦 後醍醐天皇の年號
〇左起請 原書には起請文が書かれて有つたのを貞和二年複寫の際其文を省略したのである。起請とは誓ひと言ふに同じい。天神地祇を請じ起して。此の書いた事は一事たりと曲つた事が有つたならば忽ち神罰を蒙らんご誓ひ。其意味が書かれるのである。
三木文書考 終

本サイトの考察・見解

最後を飾る「甘葛煎」の調進記録は、砂糖が普及する以前の日本において、山野に自生する蔦(アマヅラ)の樹液から採取される最高級の甘味料を、この地域が生産し権力者へ納めていたことを示している。これら一連の緻密な税の記録(鳥、獣皮、蚕、絹、蕎麦、甘葛煎など)は、圧倒的なリアリティを持っている。そこには、中世阿波の山岳地帯で実際に営まれていた豊かな特産物の生産と、それを束ねて中央や在地権力と渡り合った強力な村落組織の実像が確かに息づいている。阿波の民衆史・経済史の宝庫と言えるだろう。


総括:『三木家文書』の史料的価値と向き合う

本サイトのまとめ

ここまで、島田泉山氏の精緻な考証を通じて『三木家文書』の各史料を読み解いてきた。そこから浮かび上がるのは、単なる大嘗祭の儀式に関する形式的な記録にとどまらず、税をめぐる代官と百姓の生々しい対立、山林資源を活用した独自の経済活動、あるいは戦乱の世を生き抜くための武士としての立ち回りといった、中世在地社会の躍動感あふれる姿である。

一方で、本サイトのトップページでも触れた通り、『三木家文書』の一部は明治期の忌部神社所在地の比定論争という熾烈な政治的背景のなかで、所蔵者自身の申し出や裁判所・古筆見の審問を経て、公的に「偽書」の宣告を受けたという重い歴史的事実を持つ。こうした伝来の過程において、特定の家系が自らの由緒や正統性を補強し、中央の権威を強調するために、内容が整理・再編された可能性を指摘する研究が存在することも事実である。

しかし、その「真贋」という二元論だけでこの史料群を裁断し、葬り去ってしまうのは、歴史学の態度としてあまりにも惜しい。仮に後世の編纂の意図が含まれていたとしても、そこに記された村落の掟、複雑な租税の仕組み、特産物の納入記録といった土着的な実態までが想像だけで創造されたとは考えがたいからである。

『三木家文書』は、阿波忌部という存在がいかにして過酷な自然環境と政治状況のなかで自らのアイデンティティを守り、時代に適応していったかを示す貴重な証言である。我々は、その真贋をめぐる複雑な経緯を冷静に直視しつつも、史料の奥底に息づく「阿波の民衆と在地社会のリアルな記憶」を汲み取る実証的な探求を、これからも続けていくべきである。

跋文(編纂の辞)

右三木文書考は大正七年笠井藍水氏麻植郡教育會の依頼を受け麻植郡誌編纂に従事し其歴史事項に就て予に意見を徴し且つ嘱するに同郡木屋平村三木氏所藏古文書の註解を物し同誌に附せんことを以てせるを則ち快諾其主要なる者數種を撰ひ愚考を附して之れを送る本書則ち是なり

大正八年三月 日
泉山 識

現代語訳

この『三木文書考』は、大正7年に笠井藍水氏が麻植郡教育会の依頼を受けて『麻植郡誌』の編纂に従事した際、歴史事項について私(島田泉山)に意見を求められたことに端を発する。その際、木屋平村の三木家が所蔵する古文書の注釈を作成し、郡誌に付録として掲載してほしいと依頼された。私はこれを快諾し、主要な文書数種を選んで私の考察(愚考)を付して書き送った。これが本書の成り立ちである。
大正8年(1919年)3月 日
島田 泉山 記す